俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

罰金

2010-09-13 11:01:15 | Weblog
 100万円を盗んだ者に対する罰金が100万円以上であるべきだということには誰も異存は無いだろう。100万円盗んで罰金がもし90万円なら盗り得になる。
 発覚した犯罪が100万円でも実際の犯罪はその数倍である可能性もある。その意味では罰金が200万円でもおかしくない。
 しかしこの理屈を殺人罪にまで敷衍すると妙なことになる。殺人犯に対しては死刑以上の刑罰によって報いなければならないということになる。
 江戸時代の日本はこのことを実行していた。殺人犯には様々な残虐な刑が行われた。時代劇でお馴染みの市中引き廻し獄門晒し首以外にも、磔、鋸挽き、牛裂き、簀巻きなどが行われた。
 しかしここで疑問が生じる。100万円を盗んだ者に100万円を超える罰金を課することは原状回復となるから経済的にも理に適っている。その意味では本来なされるべきことは殺された人を蘇らすことではないだろうか。しかし残念ながらそんなことは神様にしかできない。
 ハンムラビ法典では「目を奪った者は目を以って償え」と記されているが、これを自らの目を潰して償えと解すべきだろうか。むしろ被害者の目となって償うほうが合理的ではないだろうか。
 金のような代替の利くものなら幾らでも返せる。返せないものを奪ってしまったならば一生を掛けて償うことが加害者の義務だろう。死刑は償いの機会を奪う安易な刑罰ではないだろうか。

見殺し

2010-09-10 15:16:33 | Weblog
もし知人が目の前で瀕死の状態になったなら、人はどうするだろうか。誰でも救急車を呼ぶだろう。救急車を待つ間、自分に可能な救急策として人工呼吸や心臓マッサージなどを行うだろう。
 これはたとえ医師であろうと同じだ。医療設備の全く整っていない自宅で蘇生を図ることはあり得ない。一刻も早く病院へ運ぶことを考えるだろう。
 俳優の押尾学被告に充分な医療知識があったとは到底考えられない。従って彼にできる最善かつ唯一の選択肢は救急車を呼ぶことだった筈だ。救急車を呼ばなかったのは己の身を守るためであり、被害者はそのために見殺しにされた。
 ドストエフスキーの「悪霊」に「スタヴローギンの告白」という恐ろしい章がある。少女が自殺することを予見しながら、それを防ぐために何もしなかったことを悔い、自らを殺人者として断罪しようとする話だ。
 見殺しが殺人と同じだというテーマは他の作品でも取り上げられている。「カラマーゾフの兄弟」のイワンや、初期の作品の「主婦」などで見受けられる。
 ドストエフスキー自身が、父が殺されるかも知れないということを予感しながらも何も手を打たなかったことに対して激しく悔やんでいたから何度もこのテーマを取り上げたのだと思う。
 見殺しは自ら手を下さない殺人でありその罪は重い。

続・海岸

2010-09-10 15:00:13 | Weblog
 googleで私のブログを検索すると7月6日付けの「海岸」が真っ先に表示されることが多い。多分多くの人に読んで頂いているのだろう。
 折角多くの人がアクセスしてくれているのに内容に少し不備があった。補足することをお許し願いたい。
 猿は必ず森林に住む。それは物を摑めるという方向に進化した前脚を持っているので、肉食獣と出会ったら木の上に逃げることができるからだ。
 森林を出た人類の祖先にとって草原も岩場も危険な場所だった。木の上に避難できなければ、走力の優位性は無いので、容易に肉食獣に捕獲されてしまう。木に代わる安全地帯を見付ける必要があり、それが海岸だった。
 多くの肉食獣は水中を嫌う。特に猫科の肉食獣は水が苦手だ。肉食獣と出会った人類の先祖は、木の代わりの安全地帯となる水の中へ逃げたのだろう。
 4足歩行しかできない動物と違って、樹上生活を営んでいた人類の先祖は水中では2足歩行が可能だった。つまり同程度の大きさの肉食獣よりも深い水の中でも頭を水上に出して呼吸をすることができた。後ろ足で立てば同程度の体格の豹の2倍以上深い場所でも立って呼吸をすることができるから水中が安全地帯となった。
 もう1つのメリットは涼めるということだ。真冬以外なら水温は気温よりも低い。暑い夏の昼間に水中で涼をとるなら、暑さに弱い変種も生き残ることができる。つまり進化のヴァリエーションが広がったものと思われる。

劣化

2010-09-10 14:42:03 | Weblog
 安静にしていると足の筋肉は1週間で20%、2週間で40%、3週間で60%衰えるそうだ。
 日本人で最長期間の163日間宇宙空間に滞在した野口聡一氏は今でもリハビリに励んでいるそうだ。筋力の低下を防ぐために宇宙船内でのトレーニングを欠かさなかったにも関わらず大きな後遺症に苦しんでいるのだから、そういう自覚を欠いて筋肉を劣化させた人が筋力を取り戻すことは極めて困難だろう。
 私は多くの慢性病は病気というよりは内臓の劣化ではないかと考えている。良からぬ生活習慣のために内臓の機能が劣化して生活習慣病となっているのではないだろうか。
 内臓の劣化にどう対応すべきか。方法は次の2つのどちらかだろう。①内臓のリハビリを図る②低下した機能を薬で補う。
 現在の日本の生活習慣病対策は②に偏っている。内臓が劣化して不足する分泌物を薬で補っている。
 しかしこんなことをしていれば内蔵は益々劣化するだろう。分泌する必要性が薬の補助によって薄まれば内臓は更に一層働かなくなる。これではまるで足の筋肉の衰えた人に安静を強いるようなものだ。
 急性の病気には薬が有効だ。しかし慢性の病気に対応するためには薬ではなく内臓のリハビリが必要なのではないだろうか。回復が不可能なら諦めるしかないが、回復の可能性が少しでもある限りはリハビリに励むべきだろう。

付加価値

2010-09-06 13:09:05 | Weblog
 店がその商品にどれだけの付加価値を付けたかによって粗利益額は決まる。ただの素材を料理に変える飲食店は大きな付加価値を生む。飲食店の原価率は20%と言われているがこれは妥当なことだ。
 従って飲食店ごとに料理の価格が異なるのは当然のことだ。各店の焼肉定食はそれぞれ質も量も違う。しかしビールの価格の違いには如何なる経済的合理性も認めることはできない。
 瓶ビールに対して飲食店はどんな付加価値を付けているのだろうか。店がしていることはビールを冷蔵庫に放り込んでグラスを添えるだけだ。冷蔵庫が普及していなかった時代ならともかく、この程度のことで付加価値を生んでいると言えるのだろうか。
 以前、私は松屋で定食とビールを頼むことが時々あった。チケット店で買った株主優待券を使えば結構安上がりだったからだ。しかしある日を境に全く立ち寄らなくなった。ビールの中瓶の価格を400円から420円に値上げしたからだ。競合店の吉野家やすき家が400円なのだから松屋のビールは他社以上に付加価値があるべきだ。
 こういう安易な値上げに対して私は過剰に反応するタチだ。
 考えてみれば飲食店だけではなく小売店でも同じビールが様々な価格で売られている。彼らはどんな付加価値を付けているのだろうか。
 品質はメーカーが保証する、小売店ではない。厳選品とか希少品が高いのなら分かるが只漫然と並べているだけの商売で付加価値などあり得ない。価格の差は小売店の驕りの表れだ。

死者に鞭

2010-09-06 12:58:38 | Weblog
 「死んだら神様になる」とか「死んでホトケになる」という考え方は世界中で類を見ない日本独特のものだろう。日本では死者に鞭打つことは許されない。死んだ時点で罪は水に流される。
 中国人の考え方は全然違う。呉の伍子ショは父と兄の仇である楚の平王の墓を掘り返して遺骸を300回鞭打ったそうだ。中国の文化は死者に鞭打つ文化だ。死んでも罪は消えない。
 靖国神社の参拝の報道の度に思う、なぜ中国は他国の宗教的行事にまで口を挟むのかと。政治に介入するだけでも内政干渉なのだから、宗教的行事に口を挟むのは今なお中華思想を持っているからとしか思えない。
 中国は死者に鞭打つ野蛮な文化の国であって、日本は死者には鞭打たない文化の国だ。死者に鞭打つのが正しいと信じて疑わない野蛮な文化の押し付けはやめて貰いたいものだ。

海水

2010-09-06 12:42:02 | Weblog
 なぜ淡水ではなく海水を飲用として使える陸生動物がいないのだろうか。海水のほうが淡水よりも圧倒的に多い。南極の氷などを除けば地球上の水の99%が海水だろう。海水を飲める動物がいたら生存競争上有利な筈だ。
 これは進化の過程が原因だろう。爬虫類や哺乳類の先祖である両生類は淡水動物だ。淡水動物から進化すれば淡水しか飲めないのは当然のことだ。
 現存する両生類については私はカエル、イモリ、サンショウウオぐらいしか知らない。両生類から爬虫類への過渡的動物についても全く知らない。多分イモリのような両生類がトカゲかヤモリのような爬虫類へと進化したのだろう。
 なぜ両生類は淡水動物なのだろうか。海は干上がらないからだ。干上がるのは池や川だけだ。淡水魚だけが干上がりに対応するために両生類に進化したのだろう。干潟に住むムツゴロウは両生類に進化する必要は無い。いずれ潮が満ちて来るからだ。
 もし陸生動物が海水に住む両生類から進化していたら、人間は渇きを癒すために海水を飲める体を得ていたのではないだろうか。
 進化は必ずしも合理的ではなくかなり行き当たりばったりで偶然に支配されている。進化の歴史には背くが、人為的に海水を飲める陸生動物を作れないものだろうか。
 アザラシやオットセイのような海生哺乳類を変異させて陸生動物に変えることは決して不可能なこととは思えない。もしこれが成功すれば海水を飲める家畜が生まれるだろう。

便座

2010-09-06 11:53:56 | Weblog
 7月20日付けの「洋式トイレの蓋」の記事が、思っていた以上に好評だったようなので続編を書く。
 洋式トイレの蓋だけではなく、可動式便座も実は無駄な機能でしかない。
 家庭用の場合は無駄ではない。1つの便器で男女が多目的に使用するからだ。無駄なのは職場や公衆トイレのように多数の男女が使用するトイレの可動式便座だ。
 まず女性用トイレ。女性が便座を上げて使用することは絶対に無い。従って便座は固定式で良い。私自身が女性用トイレをチェックした訳ではないが、知人の女性に聞いた限りでは、どの女性用トイレの便座も可動式だそうだ。
 男性用トイレの場合、「大」のみで使うなら固定式で充分だ。大抵の男性用トイレには「小」専用の便器があるから便座を可動式にする必要は全く無い。
 便座を固定すれば蝶番が不用になる。このメリットは大きいし、便座と便器を一体成形できるから製造コストも下がる。
 便座を固定すれば蝶番の故障は起こり得ないし、部品が少ない分だけ掃除などの手間も減る。
 無駄が無駄を生む。例えば無駄な出入り口が1つあればその掃除やメンテナンスに掛かる費用は無駄の上塗りでしかない。
 世の中には思いの他、無駄が多い。これまで慣れ親しんだものを無条件に肯定しさえしなければ幾らでも無駄は見つかるものだ。

違った目的(2)

2010-09-06 11:39:46 | Weblog
 大学へ通う目的は様々だ。
 まず学部によって目的が違う。医学部・歯学部は医師免許を取得するための機関に過ぎない。自動車教習所と大差は無い。その対極は文学部や理学部などだろう。卒業しても何の資格も得られない。
 大学生の側の目的も様々だ。
 学歴が欲しい者、勉強したい者、遊びたい者、友人を求める者など大学生の数だけ目的がありそうだ。いや、個人が複数の目的を持ち得るから、大学生の数の数倍の目的があるかも知れない。
 こんなバラバラなニーズに逐一応えることは不可能だ。どのニーズに応えるかを明確にしない限り大学改革はすべきでない。
 理念を欠いたまま大学改革をしたらとんでもないことになるだろう。もし事業仕分けのようなやり方で、有用性を基準にして見直したら役に立たない学部は廃止されるだろう。
 真っ先に槍玉に挙げられるのは間違いなく文学部だろう。私自身、大学での専攻を問われたら「最も役に立たない学部の最も役に立たない学科」と答えていた。つまり文学部哲学科のことだ。
 但し社会にとって役に立たないことと個人にとって役に立たないこととは全く別の話だ。哲学は私の内面を磨くためには大いに役立った。但しそのために一層社会にとっては役に立たない人間になったとは言えよう。それでもこの学部学科は廃止すべきではないと思う。

考える馬

2010-09-06 11:25:54 | Weblog
 走る意味を考える馬よりも、騎手の指示通りに走る馬のほうが扱い易い。
 働く意味を考える労働者よりも、企業の思惑通りに働く労働者のほうが扱い易い。
 企業や社会にとっては余計なことを考える人間は邪魔な存在でしかない。馬車馬のように文句を言わずに働く者こそ理想の労働者だ。
 学校における教育も基本的には社会適応者を大量生産することが目的だから企業の利害と一致する。働く意味を考えない労働者とは社会・企業・学校のトロイカ体制が作り出した理想的な工業製品のようなものだ。
 一方、不良品である働く意味を考える労働者は不利な立場に置かれる。しかしこの不良品は本当に良品よりも劣っているのだろうか。
 当初は働く意味など考えなかった良質の労働者も挫折や不満を経て問題意識を持つようになるだろう。そして場合によっては出社拒否症という形で社会不適応者になってしまうかも知れない。
 働く意味を考えた上で働く人は挫折に強い。それどころか失敗を教訓にしてより優れた社会人になるだろう。これは麻疹(はしか)と同じようなもので若い内に苦しんだほうが重態化しないということだろう。働く意味や生きる意味を考えずに社会に出た人は土台が欠けている分だけ挫折に弱い。