俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

間引き運転

2011-06-17 15:04:25 | Weblog
 節電のために間引き運転が検討されているが、なぜ間引き運転なのかと疑問を感じる。連結車両数の削減のほうが良いのではないだろうか。
 間引きすれば10分間隔のダイヤが20分間隔になったり、30分間隔が1時間間隔になる。これが利用者の利便性を損なうことは確実だ。
 連結車両数を削減しても利便性はそれほど損なわれない。10両編成を5両編成にしても混雑度が2倍になるだけだ。
 朝の通勤時間帯に混雑度が2倍になったら大変だが昼間に2倍になっても問題は無い。もともと空いているからだ。
 間引きすれば電力は100%削減されるが連結車両を半減しても電力は半減しない。せいぜい2・3割の削減にしかならない。しかしそれでも充分だろう。
 ではなぜ利便性を損なう方向で検討するのだろうか。それは電力削減を隠れ蓑にして人件費を削りたいからだろう。連結車両数削減では人件費は減らないが間引き運転なら電力だけではなく人件費も減らせる。
 計画停電で消費者を不便にさせることによって節電を定着させた東電と同様、間引き運転で利用者に不便を強いて自らは経費削減による収支改善を図るなど言語道断だ。これは節電を大義名分にした顧客軽視だ。

専門家

2011-06-17 14:49:27 | Weblog
 専門家はそのジャンルに精通した人であり素人は彼らの意見を大いに参考にする。医師の指導により健康に注意を払うべきであり栄養士のアドバイスを受けて食生活を改善すべきだろう。
 しかし専門家は自分の専門ジャンルを過大評価する嫌いがある。法律家は何でも法で解決しようとするし、経済学者や経済人は経済活動こそ人生そのものであり国や地域の発展は経済活動に依存するとさえ考える。
 彼らが偏った考え方を採るのは元々そんな考え方を持った人がその職業を選んだからでもあるが、その道のプロになった今では彼らの生きがいでもあり食い扶持でもある。従ってそれらの価値を否定することは彼らの生き方を否定することになるので絶対に認めようとしない。
 原子力の専門家はどうだろうか。彼らは原子力の存否については問おうとしない。いかに安全に経済的に推進するかということのみを問題にする。このことは医師が医療の必要性について問わず、法律家が法治国家の是非を問わないのと同じことであって何ら咎められるべきことではない。
 しかしその結果として、原子力の専門家がごく一部の例外を除いて、原子力推進の専門家となってしまったことは真に残念なことだ。殆んどの専門家が一致して安全性と経済性と将来性を約束すれば素人が反論することは不可能だ。
 専門家は容易に専門馬鹿になる。専門馬鹿に騙されないためには、そのシステムそのものが本当に必要なのかという根本的な問いを発し続けねばならない。

女子体操

2011-06-14 16:30:57 | Weblog
 この20年ぐらい女子体操に対する関心を失っていた。美しくないからだ。身長140㎝そこそこの凡そアスリートらしからぬチビがまるで鼠のようにチョロチョロ走り蚤か蛙のように飛び跳ねる。女性らしい優雅さは全く見られない。技は昔よりもずっと高度になってはいるが小学生によるアクロバットショーを見ているような気分になる。ロシアや中国では成長抑制剤まで使っているという噂もある。到底、健全なスポーツとは言えない。
 小さい選手ばかりになってしまったのは宙返りにおいて有利だからだ。体が小さいほど回転は早くなる。大きな選手には難しいダブル宙返りも小さな選手なら楽々こなせる。鉛筆を投げて一回転させるのは易しいが槍を投げて一回転させるのは難しいのと同じことだ。
 ところが昨年の世界選手権から見る目が変わった。田中理恵選手の存在だ。他の選手より二周りも大きい(それでも156㎝)。大きいのに技は高度だし動作は優雅だ。
 昔の女子体操は人気種目だった。東京オリンピックの№1ヒロインはチェコのベラ・チャスラフスカ選手で「華」とも「名花」とも称えられた。その後のオリンピックでもチケットが真っ先に売り切れるのは女子体操だった。それがすっかり不人気種目になってしまったのは「小人のサーカス」と化してしまったからだ。
 この状況での田中選手の出現の意義は大きい。昨年の世界選手権で彼女がエレガンス賞を獲得したのは世界の体操界がこんな選手を待ち望んでいたことの証だ。今後の活躍に期待したい。

手紙

2011-06-14 16:15:38 | Weblog
 「手紙」は中国語ではトイレットペーパーを意味する。日本語でもどういう訳か手紙はトイレと縁がある。「お便り」とか「郵便」といった言葉はトイレを連想させる。
 郵便制度が導入された時、郵便ポストには「郵便所」と表示されこれを「垂便所」と誤解した人はどうやって用を足すのかと訝ったそうだ。
 日本人の9割が右利きだが洋式トイレでは左側にペーパーホルダーが付いていることが少なくない。これらの大半は和式トイレをリフォームしたせいだ。和式では入室したらそのまま壁に向かってしゃがむが、洋式では振り返ってから腰掛ける。そのためペーパーホルダーを付け替えなければトイレットペーパーの位置が左利き用になってしまう。
 構造上ペーパーホルダーを付け替えられないトイレもあるが多くは配慮不足のせいだ。中には新設トイレで左側にペーパーホルダーが付いていることがある。これは多くの洋式トイレで左側に付いていることから何も考えずに猿真似をして左側に付けたのだろう。
 福島第一原発が非常用発電機を地下に設置したのは、竜巻に備えるアメリカ式をそのまま踏襲したからだそうだ。設備の意味を考えずに猿真似をすれば不合理な構造になってしまう。日本では竜巻に備えた地下ではなく津波に備えて原発よりも高い場所に据えるべきだった。今回の事故は猿真似が招いた人災とも言えよう。

無期懲役

2011-06-14 15:58:01 | Weblog
 死刑制度支持者の論拠の1つとして無期懲役刑に対する不信がある。無期懲役刑の男が仮釈放されてから殺人を犯して死刑になったというケースはこれまでに何度もある。仮釈放せずに死刑にしていたら第二の犯罪は起こらなかった筈だ。第二の犯罪の犠牲者は司法の過失が招いた無駄死にとさえ言えよう。
 無期懲役は正確には「不定期懲役」だ。期限が無い終身刑とは違って20~30年服役して改悛の情が窺えたら仮釈放が認められる。このことを狂犬を町に放つようなものだと考える人は死刑制度を支持する。
 「仮釈放を認めない無期懲役」という判決があることを最近知った。これまでこの判決を受けた囚人が仮釈放されたことは一度も無いとのことだから実質的には終身刑だ。私はこの制度を強く支持する。
 最近ようやく明らかになったように検察はしばしば証拠を捏造する。冤罪事件はこれまでに何例もある。イギリスでは冤罪で死刑を執行した後になってから真犯人が見つかったことがきっかけになって死刑が廃止されたそうだ。
 冤罪の可能性を考えるなら極力死刑は慎むべきだろう。仮釈放を認めない無期懲役刑なら、冤罪と認められない限り釈放されることはない。一方、懲役囚には冤罪を晴らす可能性が残される。
 死刑とは国家による殺人だ。仮釈放を認めない無期懲役刑で充分ではないだろうか。殺人犯を死刑にしても犠牲者が生き返る訳ではない。

青い目

2011-06-10 15:31:04 | Weblog
 欧米の照明は日本よりずっと暗いから日本の過度な照明は無駄遣いだ、という主張を時折耳にする。日本の照明が明る過ぎるということに異存は無いが、欧米に合わせるべきだという主張には賛同できない。それは目の違いがあるからだ。
 日本人の黒い目は光を遮断する。西洋人の青い目は光を透過する。従って主観的な明るさが違う。知覚する明るさが違えば適正な明るさも異なる。白人と同居する日本人の多くが適正な照度に悩まされるのは当然のことだ。
 黒い目と青い目では光に対する感受性が異なる。南国の強烈な光に青い目は耐えられずサングラスを使うが日本人は平気だ。一方、薄暗い風土に適応した彼らの青い目は薄暗さに強い。
 かつて大丸梅田店は白人を総合コンサルタントに据えた。その結果、西洋人にはぴったりの明るさ、つまり日本人には薄暗いと感じられる店が生まれた。私も開店早々に立ち寄ったが暗くて陰気な店という印象を持った。その後、苦情が相次いだために日本人好みの明るさに改めたと聞く。
 照明を欧米レベルにすることは西洋かぶれの一種だ。それは足の長さを無視して椅子の高さを欧米サイズに改めるような愚行だ。

正しい怖がり

2011-06-10 15:13:58 | Weblog
 「ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい。」(寺田寅彦)
 原発事故までは日本人は原発を過度に安全視していた。重大な事故など起こる筈が無いと決め付けて非常時対応を怠っていた。いざ事故が起こると掌を返して危険物として排除しようとする。
 これは君子豹変ではない。理性的な判断ではなくパニックで右往左往する群集のようなものだ。正しく怖がらないのが誤りであるように怖がり過ぎるのも誤りだ。
 原発事故が起こったからこそ原発はこれまでより百倍以上安全になった。これまで疎かにされていた安全対策がそれなりに実施されるようになった。私はこれまで否定し続けていた原発を必要悪として容認しようとさえ考えている。
 被曝についてはこれまでも怖がり過ぎていたし今では更に怖がり過ぎている。もともと年間1.4ミリシーベルト自然被曝していたことを無視して被曝量ゼロを主張する。
 植物に放射線を当てて突然変異を起こさせて品種改良が行われていることからも明らかなように、放射線は性細胞に大きな影響を与える。大量に被曝すれば性細胞は真っ先に死滅する。死滅しないギリギリの大量被曝において遺伝子に変異が現れる。少量被曝では遺伝子に異常は発生しない。広島・長崎の被爆者二世に奇形児は殆んどいない。被曝すれば奇形児が生まれるなどといった偏見が蔓延しているのはマスコミの怠慢が原因だ。

人事

2011-06-10 14:59:09 | Weblog
 日本人は努力が報われることを正当と考える。その一方で現状では運とコネによって地位が決まっていると考えている。
 アメリカ人は成果を重視すると同時に個人の能力と学歴による差別を正当とする。
 学歴社会の韓国では成果以上に学歴がモノを言う。
 この3国を比べた場合、最も不合理な人事制度を採っているのは日本だろう。日本では努力家というポーズと運とコネによって地位が決まる。
 日本には成果主義は無い。努力主義だ。それも見掛け上での努力主義だ。頑張っているように見せる人が高く評価される。水中で忙しく水掻きをしている人は評価されず派手に羽ばたいて見せる人が評価される。
 その結果、日本ではトップとボトムの能力の差が殆んど無くなる。一所懸命に働いているように見せる頭の悪い・性格も悪い人がトップになり、そんなポーズを取らなかった賢い人はボトムに留まる。
 日本でトップダウンが失敗し勝ちでボトムアップが成功するのはそもそもトップとボトムに能力の差が無いからだろう。能力が違わなければ現場を見ている人のほうが正しい判断ができる。現場が賢いのは賢くても地位を得られない人が多く、トップが阿呆なのは能力ではなくスタンドプレイや運やコネで地位が決まるからだ。
 この国の指導者の多くが阿呆であるのは残念なことだ。指導者の言葉は虚しい。むしろ現場の人々の言葉のほうが心に響く。
 

厳しい基準値

2011-06-07 15:06:31 | Weblog
 ルールを厳しくすれば安全性は高まるだろうか。安全第一として厳し過ぎるルールを作れば誰もそのルールを守らなくなる。誰も守らなければザル法になる。
 スピード基準を40㎞/h以下とすれば安全になるだろうか。誰も守らなければ却って危険になる。ゴミゼロを目標にすれば綺麗な町になるだろうか。むしろ随所にゴミ箱があるほうがゴミは散らからない。
 5月6日付けの「放射線」で日本人が浴びる自然放射線量を年間2.4ミリシーベルトと書いたがこれは世界平均で、日本人の平均は1.4ミリシーベルトらしい。現状が既に1.4ミリシーベルトなのに子供に1ミリシーベルト以下を求めるのは無茶だ。最も放射線量が少ないと言われる宮崎県へ引っ越すか鉛の家に住むしかない。
 今のところイカナゴ以外では問題にされていないが、今後、魚の放射線汚染が問題にされるだろうし、実は既に汚染された魚が流通しているだろう。しかし魚の安全管理は難しい。野菜や家畜と違って魚は自ら移動する。従って福島沿岸にいた魚が岩手県や千葉県で水揚げされる可能性もある。その際、厚生労働省と農林水産省はどんな指針を出すのだろうか。1尾ずつ計測するのだろうか、それとも現状どおり㎏当たり何ベクレル以下とするのだろうか。小魚なら前者が正しいと私は考える。
 パニックが起こってから基準を示すべきではない。パニックが起こってからではダイオキシン騒動と同様に厳し過ぎる基準が定められることになる。今の内に魚の汚染基準を明確にして、同時に汚染魚の流通を食い止めることが風評被害を防止することにも繋がる。

温度差

2011-06-07 14:52:11 | Weblog
 昨日(6日)、福島第一原発の吉田所長へのインタビューをテレビで見た。3月12日の原子炉への海水注入について「死ぬかも知れないと思った」と率直に振り返っていたのが印象的だった。
 二転三転した海水注入の真相は次のとおりだろう。
 吉田所長が海水注入を開始して事後承認を得るために本社に連絡し、本社は政府に報告した。ところが政府は「再臨界の恐れがある」と言って承諾を渋った。東電本社は承諾を得られなかったので中止を命じた。しかし吉田所長はここで中断すれば大事故になると考えて注水を続けた。
 東京と福島での温度差を感じる。福島では所長を筆頭として、本当は逃げ出したいけれども原発を守るために命懸けで頑張らざるを得ない大勢の職員がいる。一方、東京では本社の経営陣が首相の顔色を伺っている。
 もし吉田所長と菅首相との間にホットラインがあったら、所長が物凄い剣幕で主張してその迫力に気圧された首相は即刻承諾をしていただろう。命懸けで働いている人と保身に励む人とでは覚悟が違うから説得力も全然違う。
 最も呆れるのは東電経営陣の無責任体質と事勿れ主義だ。注水を止めたら大変なことになることが分かっていて平気でそれを命じる。「悪いのは俺達じゃない、認めない政府の責任だ」と考えてこんな出鱈目な命令をしたのだろう。