俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ワクチン

2012-02-17 15:13:19 | Weblog
 私は一貫して「薬は毒だ」と言い続けている。昨年の10月28日付の「インフルエンザ」ではインフルエンザワクチンの有害性について書いたが他にも危険なワクチンがあった。昨年、小児肺炎球菌ワクチンを接種して死んだ乳幼児が7人もいたそうだ。このワクチンが予防する筈の細菌性髄膜炎で死ぬ人は、2007年から2009年の平均で11.7人だったそうだ。もし昨年5人以上が死亡していればワクチン導入によって却って死者を増やしたことになる。こんなワクチンが公費負担で接種されるのは不合理な話だ。
 薬はリスクを伴うものだ。薬とは人体に異常な反応を起こさせる劇物だ。それを使うかどうかはメリットとデメリットを秤に掛けるべきだ。メリットのほうが多ければ使っても構わないし、メリットとデメリットが同程度以下なら忌避すべきだろう。
 私は省庁を増やすことには基本的には反対だが、厚生労働省は巨大過ぎるので分割すべきだと思う。医療・年金・労働を1つの省庁で管理するのは無理だ。ミスター年金と呼ばれた長妻元大臣は医療問題を理解できずに解任されたと言われている。勿論、労働問題も重要だ。厚生労働大臣は重要なポストだと思うのだが野田内閣は小宮山大臣のような二流の政治家を充ててお茶を濁している。かつて舛添氏のような大物が就任していたのとは大違いだ。これが民主党の価値評価なのだろうか。

死後の世界

2012-02-17 14:59:20 | Weblog
 死後の世界について語る人は嘘つきだ。なぜなら死んでから蘇った人などいないからだ。仮死状態から蘇った人ならいる。彼らの体験談が死後の世界として伝えられているが仮死と死とは全く別のものだ。仮死状態では脳は機能を失っていない。従って夢を見る可能性もある。しかし死んだら脳も死ぬから夢を見る可能性は皆無だ。脳死から蘇った人すらいないのが現実だ。
 もし将来、死者を蘇らせることが可能になったら死んでいた期間は「無」として認識されるだろう。死んでから100年後に蘇った人は死んだ直後に蘇ったと思うだろう。死んでいる間は夢も見ない無の時間だからだ。たとえ世界の時間が100年経過していても死んでいた本人にとっては時間は存在しない。これは生まれる前の時間が主観的には存在しないのと同じことだ。生まれる前が何億年であろうともそれは知覚される時間ではない。従って「無」だ。
 死後の世界として伝えられている話は願望に過ぎない。悪人を恨む人は地獄を妄想する。死後の幸福を望む人は天国や極楽を妄想する。どちらも「かくあるべし」という欲求が生んだ妄想に過ぎない。神が与えた理想郷ではなく人間が生んだ妄想だ。こんな妄想になど頼らず現実を直視すべきだ。

フィリピン人のマナー

2012-02-14 15:35:05 | Weblog
 フィリピンにはジプニーと呼ばれる乗合自動車がある。ベトナム戦争から撤退した米軍が残した大量のジープやトラックを改造した乗合バスで、日本円に換算して20円か30円で利用できる庶民の足だ。
 ジープやトラックの荷台の両側に一列ずつ座席を取り付けただけの簡単な構造のバスだがこれに乗る度にフィリピン人のマナーの良さに感心する。
 ①客は利用する距離が短くて早く降りる人は出入り口近くに、遅く降りる人は奥に座る。客が乗り降りする度に座席移動を繰り返して、次に降りる人は常に出入り口の傍に座っている。
 ②荷物は必ず膝の上に乗せる。混んで来れば子供も親の膝の上に座らせて一人でも多く利用できるように努める。
 ③代金は客席から運転席へと客がリレーして渡し、釣銭はその逆ルートで返される。この金銭の授受でのトラブルを見たことが無い。
 日本人は行儀の良い国民の筈だが乗り物のマナーではフィリピン人より劣っている。エレベーターで1フロアしか上がらない人が一番奥から人を押し分けて降りたり、混んでいる電車の座席に荷物を置いて平気な人がいることなど恥ずかしいことだ。

知覚

2012-02-14 15:21:53 | Weblog
 こんなジョークがある。
 ある男が医師に相談をした。「臭くない屁が頻繁に出る。今も屁が出たけれど匂わないでしょう。」医師は黙って薬を出した。数日後、彼は医師に文句を言いに来た。「屁が臭くなった。前のままのほうがずっとマシだ。」医師は静かに言った。「前回処方したのは鼻の薬です。貴方の屁は元々臭かったのに知覚できなかったのです。鼻は正常になったようですから今日は腸の薬を出します。」
 人は知覚を通じて外界を認知する。知覚が狂っていれば誤った認知しか得られない。正しい知覚を得ることが出発点になる。
 残念なことに知覚はしばしば偽る。一番厄介なのは人が自分を正当化しようとすることだ。自分を正当化するためには知覚そのものまで歪めてしまう。ジョークの男と同様、まずは正しく知覚することから始めねばならない。
 人は知りたいことを知る。これだけなら問題は無いが、知りたくないことはブロックしてしまうから困る。知りたくないことを排除して得られる過大評価は無意味だ。
 この難題を克服するためには自己超克を是とする必要がある。現在の自分を否定してより優れた自己を形成することが喜びとなれば視野は自ずから広がる。

高福祉低負担

2012-02-14 15:07:31 | Weblog
 高福祉低負担は本来あり得ない。可能なのは高福祉高負担か中福祉中負担か低福祉低負担のどれかだ。
 実際には中福祉低負担の恩恵を受けている人がいる。現在の高齢者だ。そのために若年層は低福祉高負担を押し付けられている。とは言え現在の壮齢者が高齢者になった時には高福祉になるように制度は改められているだろう。割を食うのは更に後の世代だ。こうしてツケはどんどん後の世代に回される。年金のツケも国債のツケも後の世代が負担させられる。
 なぜこんなデタラメが罷り通るのだろうか。ポピュリズムでしかない。選挙権を持つ多数者に媚びているからだ。ツケを払うのは選挙権の無い将来の世代だ。
 元々日本は中福祉中負担が国策だった。それを途中から高福祉にすれば矛盾が発生する。中負担だった人が高福祉を受ければ後の世代が過重な負担をさせられるのは当然のことだ。団塊の世代が受益者になるこんな時期に高福祉に切り替えるべきではない。最悪のタイミングだ。
 こんな世代間格差は認められない。中負担だった世代は中福祉に甘んじるべきだ。後の世代にツケを回すネズミ講のような福祉政策は許されない。

高付加価値ビール

2012-02-10 15:31:30 | Weblog
 糖質やカロリーやプリン体などをOFFにした発泡酒や第三のビールが売られているが、OFFではなくプラスした第三のビールをどこかのメーカーが作らないだろうか。つまり減算発想ではなく加算発想によって高付加価値の第三のビールを作るということだ。
 ビールではそれはできない。ビールは国際的に製造方法が定められており、違った作り方をすれば「ビール」ではなくなる。
 これを逆手に取ったのが発泡酒であり第三のビールだ。ビールは贅沢品として不当に高い酒税が課されているがビールでなくなれば普通の税率になる。メーカーがわざわざ偽ビールを作っているのは歪んだ税制のせいだ。
 どうせ偽ビールを作るのなら、この際、健康飲料にしたらどうだろうか。不足し勝ちなビタミンやミネラルなどを添加すれば健康飲料として売ることも可能だろう。ビール類の市場は非常に大きいのでほんの少しのシェアを獲得するだけでも大きな売り上げが期待できる。
 消費者にとっても有難いことだ。日本人に不足し勝ちなカルシウムを牛乳ではなくビールで補給できるなら愛飲する人は少なくなかろう。
 様々なバリエーションが期待できる。人によって不足する栄養素は異なるから「ビタミンC添加」とか「鉄分強化」など様々な商品が可能だろう。嗜好品で栄養補給ができればサプリメントのような煩わしさは無いし、多分価格も割安になるだろう。

失敗

2012-02-10 15:16:08 | Weblog
 新しい試みは殆んどが失敗する。斬新であればあるほど失敗する可能性は高い。全体と整合させることが難しいからだ。
 従来のやり方を踏襲している限り大きな失敗は無い。ノウハウが積み重ねられて細部にまで配慮が行き届いているからだ。
 エジソンは「実験の99.9%は失敗だった」と言った。成果となるのは0.1%に過ぎない成功だけだ。失敗を認めて失敗から学ぶからこそ成功が生まれる。正に「失敗は成功のもと」だ。
 無謬性を求めることがより大きな失敗を招く。失敗を認めないからだ。あっさりと失敗を認めて改めるべきだろう。
 現在の消費税制度には多くの問題点がある。その1つが「益税」だ。顧客から徴収した消費税を納付しない事業者がいる。例えば資本金1千万円未満の企業は創業から1年間免税される。この仕組みを悪用して、毎年会社を解散しては新会社を設立している企業がある。こうすれば消費税を未来永劫納めずに済む。
 飲食店や風俗店などを利用する人は企業名など気にしない。店を選ぶからだ。経営する企業名が変わっても店舗名が同じであれば客は同じ店だと思うし、実際、店は全く変わらない。
 間違ったなら改めねばならない。抜け道があるのなら閉ざさねばならない。失敗や誤りを認めることは早ければ早いほど良い。政治家や官僚が失敗を認めないことが悪事を蔓延させる。

完璧主義者

2012-02-10 15:03:33 | Weblog
 私は100点満点を目指して勉強をしたことが無い。常に目標は95点だった。100点を目指せば些細なことまで覚えなければならない。そんなつまらないことに時間を費やすよりも他の科目を勉強したりスポーツをしたりテレビを見たりするほうがマシだ。
 世の中には完璧主義者がいる。完璧か完璧でないか、0か1かの二分法だ。私は彼らの考え方に賛同できない。完璧でないことこそ人間らしいとさえ思う。完璧主義者は完璧なものこそ美しいと考える。間違いはあってはならないと信じる。私は間違いは必ず起こるものであり間違ったらそれに対して正しく対処すれば良いと考える。
 完璧主義者は事故は起こってはならないと考える。事故を起こさないために技術や法律を総動員してでも防止しようとする。私は事故は起こるものだと考える。従って事故の被害を最小限にするために予め準備する。
 完璧主義者は原発事故は起こらないと主張した。私は以前から必ず起こると信じていた(「原子力発電」および「原子力発電所」の記事のとおり)。結果として事故は起こった。
 神ならざる人間が完璧であることは不可能だ。不完全であるからこそ失敗するということを認めて予め失敗に備えるべきだろう。

エレベーターの節電

2012-02-07 15:22:18 | Weblog
 節電のために一部のエレベーターを止めているが、もっと良い節電策は無いものだろうか。
 電車の場合、停車駅を減らすことが節電のためには有効だ。電車は発車する時に最大のエネルギーを使い走行中は余りエネルギーを使わない。同じように考えれば奇数階に止まるエレベーターと偶数階に止まる物、最上階に直行する物と役割分担をすれば節電になる筈だ。しかしこれは余り効果は無かろう。利用者の中にはエレベーターを呼ぶボタンを全部押す不心得者もいるので無駄な上下動が増える。むしろ一連のエレベーターを集中制御している現状のほうが効率的だろう。
 提案したいのは定員を半分にすることだ。エレベーターは反対側に錘を付けてバランスを取っている。錘の重さは定員の半数の時に釣り合うように設定されている。だから定員の半数の時のエネルギー使用量が最も少ない。エレベーター内に囲いを作って定員の半数しか乗れないようにすれば無駄なエネルギー消費を減らせるだろう。利用者にとっても一台が止まったままであるよりは利便性が高いと思える。

攻撃と防御

2012-02-07 15:10:05 | Weblog
 「攻撃は最大の防御」と言うが本当だろうか。確かに防御一辺倒になれば相手からの攻撃を受け続けることになる。適度に反撃を仕掛けることは相手の攻撃に対する牽制として有効だ。
 しかし実際のところ攻撃することはリスクを伴う。例えばサッカーで攻撃する時にはバックスまで攻撃に参加することがある。これはカウンター攻撃をされ易い状態だ。
 球技だけではない。格闘技でも同じことが言える。ボクシングで片手あるいは両手を攻撃に使えばガードは手薄になる。当然のことだが反撃を受け易い。
 攻守が入れ替わる野球は例外だろう。攻撃時には防御をする必要は無く、攻めに徹することができる。しかし攻撃重視で守備の下手な選手を使えば守備に回った時に弱点を露呈する。
 動物のオスは攻撃力を増すために守備力を犠牲にしている。動物的生命力を高めるために植物的生命力を下げている。メスのほうが病気に強く寿命も長いのは攻撃力という諸刃の剣に無駄な投資をしていないからだろう。
 戦わないこと、戦わずして勝つことが孫子の兵法での理想だが動物としてもあるべき姿だろう。