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本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「大日本人」松本人志監督デビュー作、カンヌ出品で快挙

2007年05月03日 | 映画・DVD・ビデオ
 ダウンタウンの松本人志(43)の初監督作品「大日本人(だいにっぽんじん)」(6月2日公開)が第60回カンヌ国際映画祭(16~27日)の監督週間に出品されることが1日、分かった。松本監督は「とにかく僕の映画を認めたカンヌは僕も認めます」と喜びを語った。同作品は監督の方針で試写会を一切やらないため、カンヌが唯一のプレミア上映。カメラドール(新人監督賞)の対象にもなるだけに、注目が集まりそうだ。

 松ちゃんが初監督作品で世界三大映画祭出品という快挙を成し遂げた。何かとライバル視される、お笑い芸人出身の北野武監督(60)は4作目「ソナチネ」(93年)である視点部門に出品され、同映画祭デビュー。監督週間は6作目の「キッズ・リターン」(96年)だった。

 同映画は主人公が松本自身で“ヒーローもの”で、共演者の竹内力(43)、UA(35)、神木隆之介(13)、板尾創路(43)ですら全ぼうは分からないベールに包まれた作品だ。

 監督週間のディレクターのオリビエ・ペレさんは「コメディーの最高傑作だと思います。ファンタジーとドキュメンタリーを非常に独創的で興味深い手法で融合させたまったく新しいコンセプトの映画の誕生です。マツモトヒトシという新しい才能の発見は、私にとって驚きでした」と絶賛。

 現地で“激突”も 松本は「カンヌと言われても正直、まだピンとは来てないのですが、とにかく僕の映画を認めたカンヌは僕も認めます。あくまでも日本人向けに作ったので、外国の人がどう見るかは興味はありますね」と独特の表現で喜びを語る。

 松本は公式上映日にあわせて現地入り予定。日本で同日公開となる「監督・ばんざい!」の北野監督も、第60回の記念上映の作品を手がけた“世界の35人”の1人として招待されており、“世界のキタノ”と南仏でも“激突”する可能性も出てきた。

 「大日本人」は松本の徹底した秘密主義から、出演者、スタッフ向けの初号試写以外は行わず、カンヌが唯一のプレミア上映となる見込み。賞を争うコンペ部門ではないが、カメラドール(新人監督賞)の資格もあることから、97年の「萌の朱雀」(監督・河瀬直美)以来の受賞にも期待がかかる。

 ◆カンヌ映画祭「監督週間」 パルムドール(最高賞)など賞を争うコンペティション部門などとは別の組織が運営。政治的配慮、商業的な思惑を排除し、自由な立場で、監督の作家性を重視して紹介するコンセプトで、69年にスタートした。過去にスパイクリー、マーティン・スコセッシ、ソフィア・コッポラらを輩出している。古くは大島渚監督の「愛のコリーダ」、最近では小栗康平監督の「埋もれ木」、柳町光男監督の「カミュなんて知らない」(05年)、西川美和監督の「ゆれる」(06年)が選ばれている。(スポーツ報知より引用)

映画公式サイトはこちら→http://www.dainipponjin.com/index.html


「大日本人」、そして、たけしの新作、公開日が同日になったが、二本とも早く観てみたい。


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「ボンネットバス」・・・子供の頃はまだたくさん走っていた。

2007年05月03日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
ボンネットバス「夕やけ小やけ号」、運行終了へ


 春秋の行楽シーズンの休日に東京・八王子と陣馬高原を結んでいたボンネットバス「夕やけ小やけ号」が、6日で運行を終える。25年前から走り続けた昔懐かしい姿も、今春で見納め。西東京バスは「八王子市内をさっそうと走る最後の機会。ぜひこの機会にご乗車を」としている。


夕やけ小やけ号
 夕やけ小やけ号は、82年秋から京王八王子駅~陣馬高原下を運行。愛称は、バスが走る陣馬街道沿いに童謡「夕焼小焼(ゆうやけこやけ)」の作詞者中村雨紅の生家や自筆の歌碑があることからついた。今春の運行は29、30日と5月3~6日。京王八王子駅からJR八王子駅北口を経由、夕やけ小やけふれあいの里がある停留所「夕焼小焼」に直行する。京王八王子駅を午前8時と同10時に出る2往復。片道大人650円、子ども330円。問い合わせは西東京バス運輸部営業担当(042・646・9041)へ。

(朝日新聞より引用)




ボンネットバスは、バスの形態の1つで、運転席より前、客室外のフロント部にエンジンを設けた構造である。

概説

北陸鉄道「金沢ふらっとバス」クセニッツ・CITY-IIIバスにおいては古くから存在する形態である。

この構造では、エンジンの保守、放熱と客室の安静化に効果があるが、エンジンの上も客室として利用可能なリアエンジンバス等と比較すると、ボンネット部の空間は単なる機器スペースということになり、その分輸送効率は低下する。

しかし、客室の床下にエンジンを置いていないことから、低床化が容易である。このため、オムニノーバ・マルチライダーやクセニッツなど、近年の小型ノンステップバスでは、エンジンの搭載位置をボンネットバスと同様、運転席より前のフロント部分とした車両も登場している。これらの車両は、使用目的が地域コミュニティ路線向けであることから、必ずしも大量輸送に最適化されている必要はなく、バリアフリーの観点から乗降性を優先したために、この構造が採用されたものである。


日本のボンネットバス

東海自動車「伊豆の踊子号」いすゞ・BXD30
上毛電気鉄道 日野・BH15
西東京バス「夕やけ小やけ号」いすゞ・BXD50
神戸市交通局「こべっこII世号」いすゞ・U-FTR32FB改

山間部で残存した理由
日本においては、大量輸送時代とともにボンネットバスの導入例が減少し、1971年には量産タイプのボンネットバスの製造は中止されることになった。しかし、製造中止後も、ボンネットバスは山間部の路線を中心に使用されていた。

山間集落の中の狭隘な道路においては、通常の箱型車体のバスではどうしても民家の軒が支障となるケースもあったが、ボンネットバスでは軒下にボンネット部分をくぐらせることによって通過可能であった。このため、ボンネットバスを通常の箱型車体のバスに置きかえるにあたっては、バス会社が民家にお願いして、軒を切り詰めてもらったという逸話もある。しかし、これも道路の整備とともに改善され、ボンネットバスである必然性は失われていった。

1981年に江若交通のボンネットバスが、1984年には呉市交通局のボンネットバスが運用から外れたことで、観光・イベント用以外のボンネットバスはいったん日本からは消えることとなった。


 観光用・話題作りの方策へ
その一方、1970年代後半以降は、観光路線において目玉車両として運行する例も登場する。その嚆矢となったのが、1976年6月より運行を開始した、東海自動車「伊豆の踊子号」である。以後、観光用の路線バスとして運行されているものが増加してゆくことになる。最後までボンネットバスを製造していたのがいすゞだったため、現在残る車両もいすゞ車が多い。

また、1987年に上毛電気鉄道で運行を開始した日野BH15型は、バス利用促進のための話題作りとして、廃車になっていたバスをレストアしたもので、ダイヤ限定ながら通常の生活路線で利用されていた。以後、廃車になっていたボンネットバスをレストアして、営業運行に使用するケースも散見されるようになった。


排出ガス規制への対応
しかし、いかに観光用としての保存車両とはいえ、営業用として運行する以上、排出ガス規制から逃れることはできない。また、製造中止から相当な年月が経過し、部品の確保も困難となり、運行継続が困難となった。このため、上毛電気鉄道のボンネットバスは1993年に運行を中止(同社はバス事業からも撤退している)、その後もボンネットバスの運行を終了するケースが多くなった。

その一方、神戸市交通局「こべっこII世号」のように、排出ガス規制に対応したトラック用のシャーシをベースにして、ボンネットバスのレプリカを作成したり、磐梯東都バス「森のくまさん号」のように廃食用油を原料としたバイオディーゼル燃料を使用して、環境に優しいバスをアピールする方策も見られるようになっている。なお、「こべっこII世号」については、2006年にCNGバスへの改造が行なわれている。

また、フロントエンジンのマイクロバスの車体を改造して、ボンネットバスに仕立てるケースもあり、送迎車やコミュニティバス向けに市販されている。



ボンネットバスは「日本の田舎の風景」に見事にマッチしていた。時代の流れとはいえ、一つ一つと姿を消していくのは寂しい。
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「キューピー」キャラクターに地域限定バージョン登場。

2007年05月03日 | エッセイ・日記・意見
ローズオニールのおいたち

「キューピー」の生みの親はローズオニールという名の美しい女性天才アーティストです。1874年6月25日、アメリカのペンシルバニア州で誕生したローズオニールは、幼い頃から驚くべき芸術の才能を示しました。社会に出た後も若くしてイラストレーターとして自活し、20才から30才前半には人気イラストレーターとして活躍しました。また、芸術絵画・彫刻・小説・詩なども多才に発表し、アーティストとしての地位を築きました。そして1909年、世界的な素晴らしいキャラクターを誕生させることになります。


キューピー誕生

ロ-ズオニールは、2度の結婚をしています。しかし結婚は必ずしもローズを幸せにはしませんでした。2度の離婚に傷ついたローズは、活躍していたニューヨークから両親やきょうだいの住むミズーリ州のボニーブルックにもどってきました。広大な自然の中で深いインスピレーションをえたローズオニールは、1909年永遠の偉大なキャラクター、キューピーを誕生させました。キューピーが最初に発表されたのは、アメリカの婦人雑誌「レディースホームジャーナル」誌12月号でした。それはローズオニールから、世界の子供たちと子供のような無垢な心をもった大人たちへ贈る、愛のクリスマスプレゼントだといえるでしょう。
発表当時のキューピーは、ほっそりしていましたが、2~3年たつとコロコロと丸味のある現代のイメージの完成されたキューピーキャラクターをつくりあげました。


『キューピーの名前の由来』

キューピーKEWPIEという名を創作したのもローズオニールです。「ローマ神話に登場するキューピッドCUPIDは、人々のこころにいたずらをするけれど、わたしのキューピーには愛だけをはこんでほしい…」という願いで、KEWPIEという名前を考えだしました。


キューピッシュラブあふれる キューピー物語

キューピーたちは、物語と共にこの世にデビューしました。物語の作者もローズオニール自身です。キューピーたちの活躍する数多くの物語のどれもが、キューピーらしい愛“キューピッシュ・ラブ” にあふれた物語です。キューピーたちの精神は、いつも「いいことを、たのしんでする」こと。物語に登場するキューピーたちのしぐさのひとつひとつが実に自由自在に描かれ、見ているだけでキューピーの世界に引き込まれます。ローズオニールが表現したキューピッシュ・ラブにあふれる世界。それは人々が永遠に求め続ける理想の世界といえるでしょう。


キューピー人形の誕生

雑誌に発表されたキューピーはたちまち大人気となり、ローズオニールのもとには子供たちから「お人形がほしい」という手紙が山のように届けられました。そして1913年ついに彫刻にも非凡な才能をもつローズオニールによってビスクのキューピー人形が誕生しました。
キューピー人形誕生へのローズオニールの熱い思いは、キューピー人形のパッケージの上に書かれているローズオニールの詩によく表れています。キューピーのイラストと詩で構成された絵本のようなこのパッケージラベルは、イラストはもちろんデザインも詩もローズオニールによるものです。詩は、次のように語りかけています。


『なぜ、そんなに急いでいるのか、聞きたい?
わたしたちは、人形になるためにでかけるの。
子供たちは、キューピーを待っているの。
だから一番いい方法は、人形になって子供たちのところに行って、いっしょにあそぶこと。
キューピー人形はキューピーからはなれたくないかもね。
でも空を飛びながら覚えたキューピーの微笑みを、毎日みんなにあげてね。
ひとつひとつの微笑みがローズオニールのキューピッシュラブを伝えてくれるように。』
ローズオニールのキューピー人形製作過程で幾つかのエピソードが残っています。キューピー人形は、当時人形の生産が盛んであったドイツで製造されることになりました。工場から最初におくられてきた人形の原型は、あまりにもローズのイメージとはかけ離れていたためローズは自らドイツに行き、しばらくドイツに留まり9種のサイズの原型をつくりあげました。これらの原型が全てのキューピー人形の基本となりました。また、あるドイツ工場を訪れたおり、一番小さな安価なキューピーが職人たちによって雑に扱われているのを目にし、「この一番小さな安いキューピーを買うのは、貧しい子供たち。だからこそ、大きなキューピーにまけないぐらい心をこめてつくってください」これを聞いた職人たちは大変感動し、その後は小さなキューピーもていねいに製造したということです。
ローズオニールの手と愛から誕生したキューピー人形は、キューピーブームにさらに拍車をかけ、アメリカ中を大キューピーブームにしました。


初めての 世界的キャラクターブーム

キューピー人形の第1号は、日本でもおなじみのキューピーポーズ、パッと手を広げてたっているスタンディングキューピーでした。ひきつづき、アクションキューピーと呼ばれる様々なポーズのキューピー人形が登場しました。幼児のなにげない無垢なしぐさや、自然なポーズのエッセンスをとらえたこれらのキューピーたちに人々は夢中になり、アメリカではキューピークレイズ(キューピー狂)時代とまで呼ばれる大ブームを巻き起こしました。人形だけでなく、食器・時計・文具・石鹸・おもちゃなど、ありとあらゆる物にキューピーが登場しました。また広告にも活躍、アイスクリームやゼリーなどお菓子をはじめ石鹸などの広告にも採用されました。このブームは、ヨーロッパをはじめ世界中に広がり、地球の裏側の日本にも広がっていきました。

日本に初めてキューピーが登場したのは大正4年頃(1915年)と考えられます。海を渡ってきたキューピーは、大ブームを起こし、土製やセルロイド製のキューピー人形をはじめ絵はがき、本、手芸、おもちゃなどにキューピーが登場しました。戦前・戦後をとおして何世代にもわたり日本で愛されつづけてきたキューピー。1990年代後半からは、作者ローズオニールとキューピーのお話などが日本でも本格的に紹介されはじめ、偉大なキャラクター、キューピーの魅力が再認識されています。


テーマパークのはじまり キューピーヴィレ

テーマパークと言えばディズニーランドが有名です。ディズニーランドがアメリカに初めて誕生したのは1955年のことです。キューピーの世界では、1925年、ディズニーランドのなんと30年も前にキューピーランド(キューピーヴィレ)が、雑誌に登場しています。キューピーたちの住むキューピーヴィレには、現代のテーマパークの重要な要素が登場しています。シンボルであるお城、お客様を迎えるゲート、ショッピング街、ファンタジックなのりもの、パレード、ホテル…。ローズオニールが構想し、誌上に展開したキューピーヴィレは、現代のテーマパークの原型を確立しています。


世界的キャラクタ-抱き人形のはじまり

ビスクキューピーの次に登場したのは、だっこできるソフトな布製のキューピー人形。カドルキューピーです。顔はシルクの布に、目・鼻・口がシンプルに描かれ、体はシルクやコットンで作られています。手足は、一本の大きな棒のように単純化され、かすかに指や足首はふくらみをもっています。カドルキューピーは雑誌や新聞でも大きくとりあげられました。世界的なキャラクター抱き人形のはじまりとなったカドルキューピーはその後の布製人形に大きな影響をあたえました。


キャラクター丸論のはじまり

「キャラクターは丸で構成される」ことを世界で初めて実証したのもローズオニールです。1936年「キューピーヴィレのスクートルズ」誌の中で、キューピーが丸から誕生することを実際に絵にかいて実証しています。明快な顔のりんかく、小さな丸点の鼻、点のようなまゆ、一本の曲線で描かれた口。キャラクターの基本である丸と単純化されたライン。20世紀の後期から世界中を巻き込んだキャラクターの原型を、ローズオニールが形作っていたといえるでしょう。




キユーピー株式会社(読みはきゅーぴー、英語表記はQ.P. Corporation)は1919年に設立されたマヨネーズなどの調味料を主力としている食品メーカーで、キユーピー・アヲハタグループを形成している。

概要
母体は現在の中島董商店で、創立者の中島董一郎が若い頃のアメリカ留学時代にマヨネーズと出会い、1919年、東京都中野区小滝町に食品工業(株)を設立。1925年3月に国産初のマヨネーズ(キユーピーマヨネーズ)の製造を開始、1957年に社名を「キユーピー株式会社」に変更。 現在でも母体の中島董商店がキユーピー・アヲハタグループの中核となっている。

有名なマヨネーズのほかにも様々な食品、調味料、業務用製品も手がけている。食品流通トップのキユーソー流通システムはキユーピーから独立した会社。


社名と商標
社名・商標は小字を用いず「キューピー」ではなく、「キユーピー」である。
この理由について、キユーピー側では、デザイン上の理由であるとしている(同様の例としてキヤノン、シヤチハタ、富士フイルムなどがある)。 国語国字改革前の創業の会社には歴史的仮名遣で拗音を小書きにしない会社もいくつかある。
ロゴマークの由来はキューピーちゃん人形であるが、背中に羽根がないところがオリジナルのものと異なる。
キユーピーの社名は「Q.P.」と綴るが、製品のマヨネーズに印字される文字は常にキューピー人形と同じ「KEWPIE」である(公式のドメインもkewpie.co.jpである)。瓶入りマヨネーズなどごく一部の製品にこの文字が印字されている。
キユーピーのマークは1922年に日本で、1965年にアメリカで商標登録を行っている。
企業キャッチフレーズは「Food, for ages 0-100」。
上記コピーについては、一部で「100歳以上お断り」と誤解されることがある。
1998年、ローズ・オニール遺産財団からキューピーの日本での著作権を譲り受けた「日本キューピークラブ」の代表が、キユーピーマヨネーズのロゴマークは著作権侵害に当たると裁判を起こしたが、原告の請求は棄却された。
東京都世田谷区に「キューピータクシー」という社名のタクシー会社があったがキユーピー本社が商標使用で訴えた為、2000年3月1日付けで「ビゲスト」(Biguest=BigとGuestの合体語)に社名を変更した。

沿革
1919年11月 現在の中島董商店が中心となり食品工業株式会社設立。
1925年3月 食品工業株式会社 マヨネーズの製造開始。
1957年9月 食品工業株式会社、キユーピー株式会社と社名変更。
1966年2月 キユーピーの倉庫部門が分離・独立し、「キユーピー倉庫株式会社(現キユーソー流通システム)」として設立。
1968年3月 本社新社屋、渋谷に竣工。
1972年12月 キユーピー株式会社、中島董商店の販売部門を継承。

その他
キユーピーマヨネーズの広告に関しては、ライトパブリシティの秋山晶と細谷巌らが40年以上一貫したトーン&マナーでクオリティの高い作品を制作している。
2004年秋に放送を開始した「キユーピー あえるパスタソース たらこ」のCMは、たらこの格好で行列行進するキユーピーちゃん人形CM(通称:たらこキユーピー)・たらこを連呼するCMソング(『たらこ・たらこ・たらこ』、唄:増山加弥乃(AKB48)→キグルミ)という内容で、各方面に大きな衝撃を与えた。このCMを制作したのはCM監督の加藤良1。
たらこキユーピーはキモかわいいとして人気を集め(これに対し加藤良1は2006年11月6日付の日本経済新聞朝刊のインタビューで「僕にはかわいいとしか思えない。感覚がずれているのかなあ」と語っている)、CMで本来宣伝するはずだった「あえるパスタソース」よりも有名になった。キユーピー社内では本来、たらこキユーピーのキャラクター商品を販売する予定はなかったが、関係者らに配布した携帯ストラップが評判になったため、商品化に踏み切った。
2006年にはロックバンドthe brilliant greenのボーカルの川瀬智子のソロプロジェクト「Tommy heavenly6」がリリースしたシングル「I'm GONNA SCREAM+」のPVで、たらこキユーピーがゲスト出演している。

新聞広告
キユーピーマヨネーズの新聞広告は、キユーピーマヨネーズ300g瓶とシルエット、それをバックに料理皿を持ったキユーピーのイラストが描かれたレイアウトになっている。キユーピーが持っている皿に乗っているのはマヨネーズをかけたサーモンである。これはキユーピーマヨネーズが世に出た当初(1920年代)まだ日本では生野菜を食べる習慣がなく、マヨネーズは主に魚料理に使うよう発売されていたためである。このレイアウトが60年以上使用されており、現在の広告には「毎日のお食膳に」と記されている。



「キユーピーマヨネーズ」の会社が「キューピー」を作り出したのかとずっと思っていた。それが違っていて、「キューピー」の方が先にできたものという事を知り、結構驚いている。
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電脳コイル・・・NHK5月12日スタートのアニメ。

2007年05月03日 | テレビ番組
『電脳コイル』アニメ化決定! 5月12日からNHK教育で放送開始&先行場面カット公開!

 不思議なメガネをかけた子どもたちだけが見える電脳のバーチャル世界=コイル。優子と勇子、同じ名前の二人の少女が偶然出会い、様々な体験を通して、人の痛みや友情、恋などを知り、やがて大人へと成長していく物語。それが5月12日(土)よりNHK教育にて午後6:30~放送開始される『電脳コイル』だ。
 『電脳コイル』は新進気鋭のアニメーション監督・磯光雄(いそみつお)が原作を自ら書き下ろしたオリジナルアニメーション。磯光雄は劇場アニメ『おもひでぽろぽろ』でアニメーターとして才能を発揮。『新世紀エヴァンゲリオン』では脚本を、クエンティン・タランティーノ監督『KILL BILL』ではアニメパートの作画を担当したアニメーション監督。そして、アニメーション制作は、『カードキャプターさくら』、『彩雲国物語』、『NANA』、劇場版『時をかける少女』ほかを手がけるマッドハウス。
 時は202X年。今よりもちょっと未来。子供たちの間で“電脳メガネ”が大流行していた。この“電脳メガネ”は、街のどこからでもネットに接続し様々な情報を表示する機能を備えた、子供たちになくてはならないアイテムだ。現代の携帯電話のように普及し、ほぼ全ての子供が持っている。
 舞台は由緒ある神社仏閣が立ち並ぶ古都でありながら、最新の電脳インフラを擁する地方都市「大黒市」。小此木優子(おこのぎ ゆうこ)は、小学校最後の夏休みを目前に、父親の仕事の都合で大黒市に引っ越すことになる。そこで出会ったのは、もう一人の“ユウコ”、天沢勇子(あまさわ ゆうこ)。同じ名前で同じ歳だがまったくタイプが違う二人。新しい学校で個性豊かな子供たちと出会い、電脳空間で次々と巻き起こるフシギな出来事を体験する。
 近未来を描きながら、どこか懐かしい日本の風景と素朴な少年少女たちをみずみずしく描く『電脳コイル』の本放送に期待だ。
詳しくは→http://www.tokuma.co.jp/coil/


NHKも「挑戦的」になってきた。「時をかける少女」を作った「マッドハウス」が制作するのも楽しみ。期待が膨らむ。
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横山ノックさん(前大阪府知事)の死去 75歳。

2007年05月03日 | テレビ
 前大阪府知事でタレントの横山ノック(よこやま・のっく、本名山田勇=やまだ・いさむ)さんが、3日午前7時15分、咽頭(いんとう)がんのため兵庫県西宮市の病院で死去した。75歳だった。葬儀は親族のみの密葬とし、後日、お別れ会を開く。


 人気漫才グループ「漫画トリオ」のリーダーとして人気を集めた後、参院議員を4期務めた。「無党派」を掲げて立った95年の大阪府知事選で圧勝し、東京都知事選で勝った青島幸男氏とともに「青島・ノック現象」と呼ばれた。しかし、再選された99年知事選で女性運動員に性的暴行を加え、00年に有罪判決を受けた。04年に芸能界に復帰したが、晩年は表舞台に立つことは少なかった。

 32年、神戸市生まれ。横山フック、上岡龍太郎(横山パンチ)の両氏と結成した漫画トリオは、60年代、時事問題を交えた「しゃべくり漫才」で一世を風靡(ふうび)した。「パンパカパーン、今週のハイライト」という語り口は流行語になった。

 68年に漫画トリオを解散し、参院選全国区で出馬して初当選。74年参院選には落選したが、77年に返り咲いて計4期を務めた。95年の統一地方選では、大阪府知事選に立候補。「既成政党をノックアウトする」との訴えで風を起こし、自民などの相乗り候補に圧勝。任期中は府の財政再建に力を注ぎ、99年知事選では史上最高の235万票で再選された。

 しかし、その選挙戦のさなかに、選挙カーの中で女性運動員に性的暴行を加えたことが発覚。大阪地検特捜部が捜査を始め、再選から8カ月後に強制わいせつの罪で在宅起訴され、辞職に追い込まれた。00年8月、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

 04年に芸人として「復帰宣言」したが、テレビに出演する機会はなく、演芸会などに年数回出演する程度だった。
(朝日新聞より引用)




僕は「漫画トリオ」をオンタイムで観ている。横山ノックさんにも何度か、番組に出演して頂き、その際、上岡龍太郎さんが「ノックさんが大阪府知事になったらええのとちゃいますか」と言われていたのが印象的だ。結果、その通りになったのだから。人柄は「何事にも動じない大きな包容力」「優しい」というのが、数少ない番組でご一緒した時の印象。

関西人にとっての「ノックさん」は関西テレビの「ノックは無用」の印象が強いと思う。これは人に聞いた話だが、ノックさんが銭湯で体を洗っていた時、隣のおっさんが「熱いお湯」を流したら、「ノックさんが『アチチ!!!』と言った」らしい。つまり、「ノックさん自身の『息子さん』が巨大だった(銭湯の床に付いていた)」という事である。そんな話をきいていたので、「精力の強い人は長生きする」と僕は勝手に思っていた。享年75歳・・・早すぎる死だ。



「ノックは無用!(-むよう)」はかつて、1975年1月18日から1997年9月27日まで、大阪市に本社をもつテレビ局・関西テレビ放送で毎週土曜日の12:00-13:00に放送されていた、生放送のトークバラエティー番組。

概要
司会者がゲストのエピソードを聞きだしていくという、オーソドックスなタイプのトーク番組であるが、トーク以外に特徴的なコーナーがあったことで知られる。また、観客は女性のみに限定されていた。

番組セットの背景には、成瀬国晴が描く、その時の旬の人のイラストが描かれたボードが置かれていた。

1997年9月27日、その5日後に関西テレビの社屋が西天満から扇町に移転する事になった事や、当時大阪府知事だったノックが公務等の都合でこれ以上出演する事が厳しい事もあり、最終回スペシャルをもって22年9ヶ月の歴史に幕を閉じた。


出演
司会は元漫画トリオの横山ノック(故人)と上岡龍太郎。なお、横山ノックが大阪府知事選挙に出馬した1995年3月以降と翌月の知事就任以降は桑原征平(当時関西テレビアナウンサー)が司会を代行したが、後に桂雀々が後任を務めた。

横山ノックの選挙期間中の対応
ノックの参院選や大阪府知事選の選挙運動期間中は、カルーセル麻紀、桑原征平などが上岡とともに代打司会を務め、タイトルも公職選挙法対策として、「ロックは無用」と一時的に改題されていた。CM前のジングルも氷をグラスで溶かす効果音の後に「ロックは無用」と上岡のタイトルコールで流れていた(通常はドアのノックを2回する効果音の後に「ノックは無用!」とノックのタイトルコールで流れていた。)


主な内容
番組の構成の順番に記す。

司会者の自己紹介とオープニングトーク
早口言葉
魅惑の変身に挑戦する人を選ぶコーナー。「魅惑の変身」の節で詳述
タイトルコール
テーマ曲作曲は高橋城
トークコーナー
魅惑の変身、エンディング
ノックが府知事になって数回のみ「今日の知事さん」というコーナーもあったが、登場が僅かに1回だけで自然消滅した。 最終回スペシャルにはゲストとして出演した。


トークコーナー
番組のメインコーナー。毎回6組が出演する。ゲストにはそれぞれのトークエピソードになぞらえて、「失敗屋さん」「自慢屋さん」「仲良しさん」「フットライトさん」「こりごりさん」などと称し紹介。この際に発する上岡の立て弁な紹介ぶりも際立った。
トップバッターは番組のツカミとして関西のお笑い芸人が彩りに。また制作局である関西テレビが阪急東宝グループ(当時)の一員ということもあり、宝塚歌劇団のスターも多く登場した。ちなみに前週などであまりにも豪華なゲストを呼び過ぎると、数ヶ月に一度の割合で、ゲスト全組が関西在住の芸人やタレントで固められ、いわゆる予算調整が図られることがあった。これは長年の視聴者などには、暗黙のお約束として受け入られた。(例・「リリアン 、リリアン、リリアン、ぜーんぶリリアン(予算調整の回には必ずと言っていいほどリリアンが出ていたため)」など。笑福亭鶴瓶の指摘)
東京のタレントは“キャンペーン活動”を兼ねてよく出演した。また土曜日というのは比較的、関西ではローカル・全国ネットに関わらず多くの番組が制作されていたので、早朝のラジオを皮切りに、朝8時台のネットワイドショーを経て、さらには日曜、月曜早朝に至るまでの一種の“コース”としてこの番組も利用された。


魅惑の変身
観客の一般女性を、ゴージャスに変身させてあげようという企画。

番組のオープニングで、変身する女性を決定する。
まず観客から3人が抽選で選ばれ、彼女たちには視聴者からハガキで寄せられたオリジナルの早口言葉を言ってもらう。残りの観客全員の審査(拍手の多さ)によって最も上手く言えたとされる1名が、番組で用意した豪華衣装に変身できる。
また、早口言葉に挑戦する女性を上岡が抽選する際にはお約束があった。それは、横にいる横山ノックがその頃のヒット曲を歌うのだが、どの曲もタイトルを聞いただけでノックが適当にでっち上げたオリジナル曲と化していた。また、最後に、笑いに包まれた(早口言葉を練習する)スタジオを「やかましなぁ!」と一喝し、オチをつけるとともに番組の進行を促すという流れであり、ノックのお茶目振りを見せ付けた。これはノック降板後も桑原や雀々に引き継がれた。

そして、番組の最後に変身の結果が披露される。変身のコーディネートには、ルリ落合氏が当たったが、何しろ装飾品の一品一品が豪華であったため、結果的には、大阪弁で言うところのいわゆる「ゴッタ煮」に近い結果をもたらし、苦笑を招く変身のほうが多かった。しかし、これも視聴者や観客には暗黙のお楽しみであり、むしろ、「しっかりした」変身のときのほうが稀有と言われたものである。 また、身につけたその衣装や装飾品は「すべて貴女の物です」と、変身した女性にプレゼントされた(数十万円相当であった。最高額は100数万円。)。まれにトークの時間が押してしまい、使用した商品とその総額の紹介ができずに女性が登場しただけで終わることがあった。

同コーナーでは変身した人が登場する前に、衣装や装飾品を提供した企業を紹介する時間があったのだが、かつらの提供をしていたフォンテーヌは、社名読み担当の横山ノック(ノックの後に観客が唱和する)が独特に「ふぉん、て~~ぬ」(ジェスチャーつき)と発音したことから、一躍有名になった(社名以外の紹介文は上岡が担当)。


備考
番組前期は観客はその後13:00~14:00生放送の『ノンストップゲーム』とセットで鑑賞するシステムとなっていた。また、一時期うつみ宮土理司会の『遠慮は無用!』でもノンストップゲームと同じように鑑賞するシステムとなっていた。
1999年に一度だけ復活特番を放送した。上岡が芸能界を事実上引退し、ノックが死去した現在では、復活の見込みは無いと言える。
また、この番組終了後暫くの間、関西テレビの土曜正午枠は迷走期に入る。後番組に月亭八方と高島忠夫司会の『ほんまかいな!』がスタートしたが半年で終了、その後「あなたにありがとう」「昼あがり!どまんなか」があったが何れも短命で終わった。2003年4月に、当初土曜昼13時に放送していた「たかじん胸いっぱい」が繰り上がって以降は、安定している。


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川上慶子さん、あの日航機墜落事故からこの夏で22年。

2007年05月03日 | エッセイ・日記・意見
タイガースが21年ぶりの優勝を決めた1985年。その年の8月12日に、日本航空123便が群馬県の高天原山(たかまがはらやま)に墜落した。*乗員&乗客併せて524人の内520人が死亡。助かったのは僅か4人という大惨事で在った。亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏やタイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。(個人的には「新八犬伝」に見入って来た世代なので、坂本九氏の死は哀しみが‭一入だった。)

レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。それ程酷い状況で在った。*2しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事になる・・・。

「週刊朝日」にだいぶ前だが、「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。

その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」

事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。


「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」

「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。

やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。

事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。

最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。



「家族を全員亡くした川上慶子さん」、彼女の心が完全に癒える事はないだろうが、新しい「自分の家族」を作って幸せな日々を送られている様子。一つの「事故」や「事件」がどれだけの人々の人生を狂わせるか・・・そのことを再認識して、日々過ごしたいと思う。
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SNS(ミキシー等)から「Twitter」の時代へ。

2007年05月03日 | インターネット
ゆるい。とってもゆるいコミュニティの登場である。

twitterではある一つの質問に関するコミュニティだ。

その質問とは「今、何しているの?」である。

自分が「今、何をしているか」を入力し、友達とつながっていくことができる、という、ただそれだけのシンプルツールである。

ただ、ありとあらゆる方法で友達に自分の状態を知らせることができるようになっており、ブログパーツを作ったり、IMにメッセージを送ったりすることができる。

詳しくは→http://twitter.com/


とても「のどかなインターネットツール」だと感じた。まだ「日本語版」が登場していない。「Secand Life」に続き、いつ日本に上陸するのか・・・
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