お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

これも同じ駅の売店の貼り紙・・・ジャンプ傘まで売ってるんだ。

2007年05月10日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
「耳せん(しかも、科学の耳せん)」「ジャンプ傘」「ワッフル」を並列で告知しているのが面白い。「ジャンプ傘」でなくても「傘」でいいのでは・・・
EBI ダブルジャンプ折りたたみ傘 【ワンタッチ開閉】 ブラック ECH064-003

EBI

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メーカー型番: ECH064-003
サイズ: (約)全長/60cm、 開いた時の直径/最大幅108cm(7本骨)、 親骨の長さ/60cm、収納時/29cm
重量: 343g
材質: 傘生地の組成/ポリエステル100%(東レ NEWPONGEE、耐久撥水加工)、先骨/グラスファイバー、中親骨/FRP、受骨/アルミ、手元/ABS樹脂
生産国: 中国製
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地下鉄のホームの売店で「熨斗袋」を売っていた。

2007年05月10日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
便利なのか・・・売れるのかなぁ~
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日本は「過保護な国」だ。

2007年05月10日 | エッセイ・日記・意見
ここまで、「注意書き」を書き込まないと、ダメなの?親切過ぎるというより、鉄道会社(駅のエスカレーターなので)が何か事故が起こった時の「言い訳」を作っている様にしか僕には思えない。
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ハトバスEnglish-Speakingツアーって、何だろう?

2007年05月10日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
日本人の客が「英語しか喋ってはいけないという条件で参加するツアー」なのか、「外国人向けの英語でガイドするツアー」なのか・・・参加してみたい。
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六本木・ミッドタウンにあった サロンバー夜。

2007年05月10日 | お酒・焼酎・ウィスキー・ワイン
「サロンバーヨル」・・・バーは夜開いてるものだから、別に店名にしなくても。それから「閉店時間が翌9時」というのがスゴイ。さすが、「ミッドタウン」。他の店は祝日の夜でほとんど閉まっていたが。
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居酒屋の壁に貼ってあった謎の時間割。

2007年05月10日 | お酒・焼酎・ウィスキー・ワイン
これは、何の担当時間割なのだろう。
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「ビール」はいつできたか?

2007年05月10日 | お酒・焼酎・ウィスキー・ワイン
ビール(蘭: bier, 英: beer)は麦芽由来の酵素 (アミラーゼ) により、穀物に含まれるデンプンを加水分解して糖化し、酵母により発酵させて作るアルコール飲料の一種。漢字で麦酒(ばくしゅ、ビール)と表記される場合もある。ビールと呼べるのは麦芽使用率25%以上の物だけである。

現代のものは炭酸ガスに由来する清涼感とホップに由来する独特の苦みが特徴となっているが、起源が非常に古いこともあり、歴史的、地域的多様性は高い。

日本では、ビール類似の発泡酒などを含めて、一年を通じて最も消費されているアルコール飲料である。特に枝豆や冷奴とともにビアガーデンでよく冷えたビールを飲むことは夏の風物詩となっている。日本ではビールは季節を問わず必ずよく冷やしてから飲むものとされているが、ドイツなどの国では、ビールを冷やさず室温で飲むことが好まれる。

語源
英語:ビア, beer(en:beer)と、エール, ale(en:ale)の2種類の言葉があり、エールの方が古い
ale系
インド・ヨーロッパ祖語の、alu-(酔う、魔術的な、など)から来ている。([1])
ゲルマン語:aluth-
フィンランド語:olut
エストニア語:õlu
デンマーク語・ノルウェー語:øl
ラトヴィア語/リトアニア語:alus
beer系
ラテン語:bibere(飲む, 動詞)が起源
古英語ではビアとエールは違い、ビアは今のサイダーだったとする説もある
ノルマン・コンクエストの後、一時”beer”は無くなるが、麦芽飲料をさす呼称として間もなく再現する。
スペイン語、ポルトガル語では、ラテン語:cervisia(ケレスの力)から派生
他の西ヨーロッパ語(幾つかの東ヨーロッパ語)は英語:beerと似た言葉を使う
スラヴ語派諸国では、スラブ語:"pivo"の派生系を使う

歴史
その歴史は古く、既にメソポタミア文明のシュメール人により大麦を使い作られていた。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。紀元前3000年頃に古代エジプトにビールの製法が伝わった。

これらの古代オリエントのビールは、麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたものであった。大麦はそのままでは小麦のように製粉することは難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすくなり、また消化もよくなる。つまり、ビールは元来製粉が難しくて消化のよくない大麦を消化のよい麦芽パンにする技術から派生して誕生したものと考えられている。穀類を豊富に産したメソポタミアやエジプトでは、こうした背景を持つビールはパンから派生した、食物に非常に近い日常飲料であった。実際、古代エジプトのパピルス文書には、王墓建設の職人たちへの配給食糧として、ビールが記録されている。焼いてから時間のたった固いパンを液体でふやかすという発想は、ヨーロッパのスープの原型となった、だし汁でふやかしたパンとも共通しており、ふやかしたパンの料理という共通系譜上の食物ともいえる。

一方、麦芽の酵素によって大麦のデンプンを糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方のケルト人やゲルマン人にも伝わったが、彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてからビールを醸造するという形をとらず、麦芽の粉末をそのまま湯に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。また日常の食物の派生形であった古代オリエントのビールと異なり、これらヨーロッパ北方種族のビールは、穀物の収穫祭に際してハレの行事の特別な飲料として醸造が行われる傾向が強かった。

ローマにはエジプトから伝えられたものがジトゥム (zythum) 、北方のケルト人経由で伝わったものがケルウィシア (cervisia) と呼ばれたが、ワインが盛んだったために野蛮人の飲み物視され、流布しなかった。ローマ人や古代ギリシア人の間では、大麦は砕いて粗挽きにしたものを粥にして食べるのが普通であったのである。またアルコール飲料として一般的だったワインも、固いパンを食べやすくするブドウのジュースを長期保存できる形にした日常の食卓の飲料としての性格が強く、酔うためにそのまま飲むのは野蛮人の作法とされ、水で割って飲むのが文明人の作法とされていた。それだけに、祝祭に際して醸造したビールを痛飲して泥酔する北方種族の習俗は、自らを文明人と自認するローマ人、ギリシア人の軽蔑の種にもなっていたのである。


16世紀の醸造所ケルト人やゲルマン人の居住地域が表舞台となった中世ヨーロッパにおいては、ビールは盛んに作られ、その醸造技術の発展には修道院の醸造所が大きな役割を果たした。当時は、子供にもあった飲み物であると考えられていた。ヨーロッパのビール醸造において、古くから発酵を安定させるなどの目的でさまざまなハーブ類を添加する伝統があったが、11世紀のドイツにおいて、その抗菌作用と独特の苦みを利用するために、ホップが最も一般的なビール醸造用のハーブとなっていった。

現代ビールは19世紀後半のカールスバーグ研究所での酵母の純粋培養技術の開発をはじめとした科学技術の利用や缶やビン詰め製法の確立等の流通形態の改革、また、運輸・貯蔵技術の発達等にともなって、大企業が市場を占有するようになった。これらの技術体系の発達は、それまで本来主食とすべき麦をあえて酔うためのアルコール飲料とする、祝祭の飲料の性格が強かったビールが日常の飲料として浸透するという現象をもたらした。それまではむしろワインのほうが本来食事を食べやすくするための葡萄ジュースの保存食として、日常の飲料の性格が強かったが、近代的食品工業によって安価かつ大量に安定供給されるビールのほうが、肩のこらない日常の酒として普及し、ワインとビールの日常文化的位置の逆転を引き起こす結果となった。

その一方で、現在ではアメリカやヨーロッパでは伝統的製法への回帰や自然志向の流れの中で、クラフトビールやマイクロブルワリーが注目されており、日本では法規制が緩和されたこともあり、地ビール醸造所が多く設立されてきている。



25年前、初めての海外旅行で、当時「西ドイツ」ミュンヘンの有名なビアホール・ホッフブロイハウスに行った時、1リットルのジョッキでビールを飲んだ。トイレで便座に座っていたら、「リリー・マルレーン」をみんなで歌っている歌声が聞こえてきて、感動した。暑い夏には冷たいビル。焼肉屋のビールは大ビンでなきゃ。でも、中国やインドではビールは冷やさない。面白い風習である。
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汗水垂らして・・・

2007年05月10日 | エッセイ・日記・意見
朝の通勤電車の中で、ボーっと考えていたら、思いついた。何で今の時代、「不安感」が常にあり、「今まで無かった様な事件・事故・犯罪」があるのか・・・。

1970年代、うちの父親は「汗水垂らして」働いていた。つまり、クーラーも無く、仕事で疲れて帰って来て、暑いので団扇で扇ぎながら、巨人戦を見ていた。ビールを飲み、冷奴を食べて。
僕はまだその頃、45人のクラスで3人くらいしかいなかった「中学受験」の勉強を狭い団地の部屋で、「汗だく」(つゆだくではなく)でやっていた。
そんな「生物としての人間の五感」を感じながら、生きていたと思う。唯一、クーラーに「あたれる」のは、阪神電車の新型車両で冷房の付いているやつ。阪神電車、今はどうか知らないが、「冷房をギンギンに効かせる会社」だった。冷蔵庫の中にいる感じ。阪急電車の冷房はそこまで冷たくなかった。

何が言いたいかというと、一つは「人間が五感を失った時点で、心身共にバランスを崩しているのが現代」だという事。もう一つは「父親という存在」の「存在感」。「父親が汗水垂らして働いているから、カラーテレビが家に来た」・・・そんな感じ。テレビはあっても、ビデオなど無いので、「刑事コロンボ」の初回放送(毎週土曜日午後8時)を観る為に、部活終わりでダッシュして家に帰って観られた時の感動。今はDVDなどでいつでも観られる・・・そこには「情報の選択肢が人間の能力以上の数」存在している。HDD・DVDレコーダーで録っても、「観る時間は昔と同じだけかかる」ので、観られないまま、なかなか消せないこと多し。

つまり、昔は「オンタイム」でないと、観られないものが多かった。テレビ番組・映画のロードショー・演劇・コンサート・・・今はDVD等で気軽に観られる、お金さえ払えば。
その分、何をする時間が減ったかというと、「本を読む時間」「家族や知人と会って話す時間」「一人で物事を考えたり、ボーっと脳を休める時間」等等。

これでいいのか?日本は・・・僕たちは幸せなのか。自分自身が「多量の情報のハブ(中心)」になってはいないか。そんなことを山の様に積み上げられた未読の本と観ていないDVDとパソコンに挟まれて考えている。
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「阪神甲子園球場」の歴史。

2007年05月10日 | 健康・スポーツ
大正13年(1924年)8月1日に開設した「阪神甲子園球場」。当時は「甲子園大運動場」と呼ばれ、8万人を収容できる東洋一の野球場でした。「甲子園」という名は、地名から取られたものではなく、その年が、十干、十二支それぞれの最初の干支である「甲(きのえ)」と「子(ね)」が60年ぶりに出会う年にあたり、縁起がいいと名付けられました。
この野球場が建設されるきっかけとなったのは当時、兵庫県の鳴尾運動場で行われていた全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の高校野球)でした。この大会は年を追うごとに人気が高まり、ついにスタンドに収容しきれない程のたくさんの人々が観戦に訪れるようになったことから、大人数が収容できる新たな野球場の建設が急務となりました。
ちょうどその頃、兵庫県では武庫川の洪水対策の一環として、枝川・申川(当時の鳴尾村内)の廃川敷地の売却を決定します。阪神電気鉄道では、その土地にスポーツ施設などの開発を計画。そして大正11年(1922年)、兵庫県より土地の買い受けを行います。それら阪神電気鉄道の開発計画と、鳴尾運動場に代わる大規模な野球場の必要性が見事一致し、「甲子園大運動場」建設の一大プロジェクトが立ち上がることとなりました。


「阪神甲子園球場」の設計に当たったのは、後に阪神電気鉄道の社長、その後会長となった入社間もない野田誠三でした。当時の日本にはまだ本格的な野球場というものが存在しておらず、野田は建設関係の雑誌やスポーツ先進国であるアメリカの野球場を参考にしたそうです。
目指した野球場は、約8万人を収容することができる東洋一の大きさ、そして選手がプレーしやすく観客が観戦しやすい、また野球以外のスポーツもできる多機能グラウンドとしてまさにこれからの新時代にふさわしいものでした。
伝統的に健全スポーツが好きという社風の阪神電気鉄道が新しい時代の野球場建設にいち早く着手したことは、自然の成り行きだったのかも知れません。


東洋一を目指した野球場の設計には様々なこだわりや新しい試みが多く見られます。
まずはグラウンドの土。弾力がほどよくあり、ボールが見やすい色であることが重視されました。そして学生時代に野球選手であった阪神の社員が、スパイクを履いて何度もスライディングを行い、さまざまな土の感触をチェック。最終的には、3種類の土を決まった割合でブレンドすることにより、理想の土を生み出すことに成功しました。
次にスタンド。お客様がどこに座ってもグラウンドがよく見えるように配慮がされ、後ろの席でもとても見やすくなっています。また、人の体格をリサーチするなど厳密な計算を行いながら、できるだけ楽な姿勢で観戦できるように設計されました。その他にも真夏の観戦を考慮して大きな鉄傘を設置したりと、スポーツ観戦をベストコンディションで楽しんでいただけるようありとあらゆる工夫が施されました。
また当時のアメリカでは観客が太陽と向き合わないよう本塁を南側に置くことが多い中、「阪神甲子園球場」では選手がまぶしくてボールを取ることが出来ないことなどが無いように選手優先で設計されました。


大正13年(1924年)3月、「阪神甲子園球場(当時の甲子園大運動場)」の建設がスタート。8月に行われる夏の全国中等学校優勝野球大会に間に合わせるため、工事は急ピッチで進められました。それから約5ヶ月後の8月1日、見事野球場は完成し、盛大な竣工式を無事に迎えることができました。
そして8月13日、いよいよ全国中等学校優勝野球大会が開幕。1日目、2日目と観客はどんどんと増えていき、開幕から4日目にはこの8万人を収容できるスタンドが超満員になりました。訪れた観客はこの本格的な野球場での観戦の楽しさに酔いしれたといいます。それからも連日、野球ファンから野球場を一目見ようという見物客までもが訪れ、ここに阪神甲子園球場の歴史が大きな一歩を踏み出しました。


8万人収容の野球場も昭和4年(1929年)7月には、東スタンドと西スタンドが増設され、さらに8千人が収容できるようになりました。この東スタンド・西スタンドは“アルプススタンド”※の愛称で親しまれ、現在ではその名が正式名称となっています。
昭和9年(1934年)にはベーブ・ルースらの大リーグチームと全日本の対戦、また野球以外では昭和13年(1938年)に全日本スキージャンプが開催されたりと、野球に限らずさまざまなイベントが開催されました。
こうして数々のドラマを生み出し、高校野球の代名詞とも呼ばれるようになった阪神甲子園球場も誕生から80数年。老朽化が進んでいるため、平成19年(2007年)の野球シーズン終了後から、リニューアル工事が実施されることが決定しました。リニューアルコンセプトのひとつは「歴史と伝統の継承」。すっかりおなじみとなった野球場を覆っている「ツタ」も、このコンセプトに則って工事完了後にもう一度再生・再現される予定です。
常に進化し続けてきた「阪神甲子園球場」ですが、観客にとっても選手にとっても最高の野球場でありたいという80年前の気持ちは変わることなく、これからも受け継がれていきます。


※アルプススタンド
昭和4年(1929年)7月に50段の鉄筋コンクリート製スタンドに改造された東スタンド・西スタンドは、夏の高校野球の時、白いシャツを着たファンで超満員になります。それを見た漫画家の岡本一平さんが「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」と朝日新聞に漫画を描いて以来、「アルプススタンド」と呼ばれるようになりました。
(阪急阪神ホールディングスのHPより)



小学生の頃、 甲子園球場に高校野球を観に行った。今は知らないが、当時、子供は無料。母に「紅茶」をポットに入れて貰い、甲子園球場名物の「かち割り氷」を買って、「紅茶」を流し込み、アイスティーにして飲んだのが忘れられない。太田幸司が18回投げて、翌日再試合になった時、僕と妹は「甲子園」にいた。夏の高校野球。汗ダラダラで観戦していた。夕方になると海の方から涼しい風が吹いて来て、心地良くなるのだった。「阪神パーク」も無くなり、「レオポン」も絶滅し、歳月は過ぎ去っていくものだ。



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大阪・道頓堀の人気店「大たこ」、市と土地バトル

2007年05月10日 | 料理・飲み物・食べ物
 大阪・道頓堀で行列ができる人気たこ焼き店「大(おお)たこ」が、市有地を不法占拠しているとして、大阪市から店舗の自主撤去を求められていることが分かった。同店は市が出資する「大阪観光コンベンション協会」のホームページでも「行列しても食べたい味」と絶賛されている。「31年間同じ場所で営業しており、土地は既に『時効取得』した」と反論。市を相手取り、所有権の移転登記を求める訴訟を大阪地裁に起こした。「なにわの名店」は存続できるのか。


 「大たこ」は、大阪市中央区の道頓堀川にかかる「太左衛門(たざえもん)橋」の南詰めで営業している。大きめのぶつ切りタコ入りのたこ焼きが人気を呼び、「本家 日本一 大たこ」と書かれた看板を掲げる。雑誌やテレビなどで頻繁に取り上げられ、国内外の観光客らの行列が絶えない。

 大阪市によると、現在、大たこの店舗がある4.4平方メートルの敷地は、市契約管財局が所管する市有地。以前は店舗の一部(約9平方メートル)が市道にはみ出していたため、市は道路法に違反するとして、「少なくとも85年と05年に自主撤去を指導してきた」と説明する。

 直近では道頓堀周辺の商店主らから、「固定資産税を払っていないのはおかしい」「街の美化のため不法占拠を解消すべきだ」などの苦情があり、市建設局が06年12月に文書で自主撤去を勧告。今年1月、市道にはみ出した部分が撤去されたのを確認したという。

 一方、大たこ側は06年12月に大阪市を提訴した。訴状や準備書面などによると、現在の経営者らの父親(故人)が市有地に店舗を建て、営業を始めたのは76年6月ごろ。土地の占有から96年6月で20年を経過しており、「この時点で民法の規定により、土地の時効取得が完成した」と主張する。

 大阪観光コンベンション協会がホームページで大たこを紹介している点にも触れ、「本件土地占有を助長容認している」と指摘。同店が「大阪を代表するたこ焼き店として社会的に評価されており」「大阪食文化と被告(大阪市)に多大な寄与貢献をしてきている」ことが、占有の正当性を裏づけるとしている。

 これに対し市は、土地の占有から20年が経過する前の85年時点で、市道へのはみ出し営業を違法と指摘していたことから、大たこ側の占有は、民法が取得時効の要件に挙げる「平穏かつ公然」にあたらない、と争う姿勢だ。(朝日新聞より引用)



関西人なのに、「大たこ」のたこ焼きを食べた事がない。食べたいなぁ。
僕の知り合いの芸能事務所の女性社長が自宅に友達を呼んだ時、友達の車が「駐車違反」で、キップを切られそうになった。女性社長は「車の三分の一は私の家の敷地内に入っている。駐車違反は公道に出ている車の三分の二なので、その部分を切り取って持って行って下さい」と取締り中の警官と談判。警官は女性社長の論理に負け、友達の車は「駐車違反」にならなかったという。そんなことを思い出した。

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四代目林家小染(パンダの一員)が生きていたら・・・

2007年05月10日 | 笑い
林家 小染(はやしや こそめ)は上方落語の名跡。当代は5代目。なお、2代目林家染之助が前座名で小染を名乗っていた時期があるが、現在は代数に数えられていない。

初代 林家小染(生没年不詳)は、初め4代目笑福亭松鶴門下で鶴丸。後、2代目林家染丸門下で初代小染を名乗り、後に花の家蝶福となる。本名、享年とも不詳。
2代目 林家小染(生没年不詳)は、2代目林家染丸門下。活躍時期は昭和初期。本名、享年とも不詳。
3代目 林家小染(1918年7月5日- 1975年1月18日)は、後の3代目林家染語楼。本名は鹿田吉彦。享年56。
4代目 林家小染(1947年6月11日 - 1984年1月31日)は、3代目林家染丸門下。染丸の名跡を継ぐべく将来を嘱望されていたが、交通事故で早逝した。本名は山田昇。享年36。
5代目 林家小染(1963年2月21日 - )は、4代目小染門下。染八を経て、1996年に5代目小染を襲名。師匠・4代目小染の死後、2代目林家染二(後の4代目林家染丸)の預かり弟子となる。本名は上村政二。




今頃は、艶のある噺をする良き落語家になっていただろう・・・と思うと残念で仕方が無い。「ヤングおー!おー!」(毎日放送)に「パンダ」の一員として出ていて、桂三枝にいじられていたのが面白かった。




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「バチョン」by ラジオ大阪。

2007年05月10日 | エッセイ・日記・意見
サタデーバチョンはラジオ大阪で放送された深夜番組。放送時間は、毎週土曜日23:00-25:00、メインパーソナリティは浜村淳。

元々は深夜帯番組「ヒットでヒット バチョンと行こう!!」という番組が母体だった。それが編成上の関係で打ち切られた後、同番組のパーソナリティの一人だった浜村淳司会の週末ワイド版としてスタートした。

番組進行は、まず映画の試写会招待を兼ねた新作映画の紹介からはじまる。浜村お得意の熱演や殆どラストまで語ってしまう詳細な説明は、特にファンから好評だった。その後、番組テーマ曲の『女が町にやってくる』(演奏:ホルストヤンコフスキー楽団)に乗せてタイトルコール。

番組本編は時事の話題が中心だが、他に源氏物語や古事記、リスナーから寄せられた怪談などをテーマにしたラジオドラマも放送、いずれも浜村自身が主演していた。

また、番組ではリスナーから寄せられたアニメソングのリクエストにも応えており、このためこの番組はアニラジに分類される事もある。曲をかける際には、エアチェックするリスナーの便を計って「いちにのさん音楽スタート!」という掛け声をかけるのが恒例。

ただ、浜村にアニメの知識があるわけではないので、投稿されてきたネタで月刊OUTのウソ企画である「世界のアニメは今」というネタ(バリバリ伝説が、中国では自転車レースになっていたり、蒼き流星SPTレイズナーがソ連では赤になっていたり、アメリカでは天才バカボンが大人気で若い女性の間では『フールボンズ・ファーザー』のファッションが流行、など)を真に受けて本当のこととして放送したりしていた。

24:00には『午前零時のバチョンクイズ』というコーナーがあり、リスナーの電話をつないでのクイズを行っていた。

24:30頃には『思い出は映画と共に』のコーナーがある。このコーナーは、リスナーから寄せられた映画にまつわる思い出話をニニ・ロッソの『夜明けのトランペット』をBGMにして、情感豊かに読み上げるというもの。

また、年二回、聴取率調査にあわせて、アニメソングベストテン、漫画の本全巻プレゼントという行事も行っていた。

関西圏のラジオファン、アニメファンから好評を博した番組だったが、1991年9月に惜しまれつつ終了した。




懐かしいラジオ番組を突然思い出した。「ヤンリク」「ヤンタン」、あの頃は面白いラジオ番組が関西にはたくさんあった。
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「ダイヤブロック」に夢中になった子供時代。西宮市中前田町のアパートに住んでいた。

2007年05月10日 | 子供・動物・生き物・ペット
ダイヤブロック(DiaBlock)とはとは日本の河田が発売しているブロック玩具の商品名である。

1962年に発売開始され、今では日本においてはデンマーク企業のレゴと並ぶシェアを占めている。


原形
1955年、とある文具メーカーから、二股に分かれて鉛筆を2本同時に差し込めるキャップが発売されていたが、売れずに大量の在庫を抱えてしまい、本来の目的ではないキャップを積み重ねて遊ぶ玩具として在庫処分のような形で販売されていた。この「ブロックキャップ」と名付けられた商品は創業間もないゲーム問屋であった河田の注目するところとなり、百貨店での夏休み向けの実演工作用の商材として大量に買い付けて販売したところ、売れ行きも好調で予想以上の好評を博した。

1958年には河田が正式に代理店としてこれを扱うこととなったが、一方では玩具販売の繁忙期である年末以外にも売り上げの取れる自社商品の開発も当時の河田にとっては急務であった。そこてブロックキャップをヒントとして開発が社員によって進められ、より積み重ねて造形し易いといった改良を加えられた後に、ダイヤブロックの誕生となった。

なお、
ダイヤブロックマスター ビルディングセット

河田

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商品紹介
建築をテーマにした中~上級者向けのセット。ダイヤブロックのマスタークラブ会員に登録できます。
ダイヤブロックの凸部は他社のブロック玩具に比べて長いが、これは原形が鉛筆キャップであった名残である。



子供の頃、親に買って貰ったダイヤブロックに夢中になった。自販機なども作ったりした。こうしたチマチマした作業が今日のブログ更新に役立っているのは間違いない。


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現代を残酷に表現した漫画。向き合ってみよう。

2007年05月10日 | 本・雑誌・漫画
ひかりのまち

小学館

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何も言う事は無い。読んでくれ。
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こんなに素晴らしい「世界中の写真とコメント」の載った写真集は見た事が無い。

2007年05月10日 | 写真・カメラ
NO TRAVEL,NO LIFE

A-Works

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出版社/著者からの内容紹介
「本当の自由って、一体なんだ?」
10年のサラリーマン生活にピリオドを打ち、呼ばれるように海を渡ったひとり
の旅人が綴った言葉&写真集。


著者について
1960年、東京生まれ。46歳。34歳のとき、10年間のサラリーマン生
活で築いた地位・安定・守りを全て捨て、呼ばれるように世界放浪の旅に出る。
その旅の途中、安く売られていた一眼レフを手に入れ、旅人たちに使い方を聞き
ながら写真を撮り始める。約2年の旅を経て帰国するも、その後も旅を続け、世
界中で出逢う人々を中心に撮影している旅人・フォトグラファー。「写真は一瞬
の奇跡だ」。そんな想いで、1度きりしかシャッターを切らない独自のスタイル
で写し出された写真は、見る人の心を揺さぶる不思議な力を持っている。書籍
「パパ・BOOK」「World Journey]
(A-Works)などで、高橋歩とコラボレーションしている。

抜粋
世界は、教科書には書いていないことで溢れていた。
数え切れない人々と出会い、
学校や社会では教えてくれない生き方を学んだ。
旅が、僕の本当の魂を思い起こしてくれた。


この写真集、惹き付けられる。「人間臭さ」を感じる。「生きている実感」が湧いてくる。オススメ。
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