社会派映画監督として知られた熊井啓(くまい・けい)氏が23日午前9時51分、くも膜下出血のため、東京都内の病院で死去した。76歳だった。長野県出身。自宅は公表していない。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。
熊井氏は1953年、信州大文理学部卒業し、54年日活に入社。64年に「帝銀事件・死刑囚」で映画監督デビュー。社会的な問題を徹底的に調査して映画製作に挑み、日本の映画界を代表する社会派監督となり、69年にフリーに。
主な作品には「黒部の太陽」「地の群れ」「忍ぶ川」などがあり、「からゆきさん」たちの生涯を描いた「サンダカン八番娼館・望郷」(74年)は米アカデミー賞(外国語映画部門)にノミネートされた。
95年に紫綬褒章受賞。プロ野球ファンでG党としても知られていた。
(ZAKZAKより引用)
熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、映画監督。現代を代表する社会派監督である。
長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校を経て新制の信州大学文理学部を卒業後、独立プロの助監督を経て、1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
1964年、帝銀事件を描いた『帝銀事件・死刑囚』で監督デビューする。その後の『日本列島』も含めて、骨太な社会派ドラマを作る監督として評判をとる。
その一方、1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションが共同制作した超大作『黒部の太陽』を製作し、興行的にも成功させる。1974年には田中絹代が、元「からゆきさん」を演じてベルリン国際映画祭主演女優賞を受賞した『サンダカン八番娼館 望郷』を撮り、重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させた。また、1986年、遠藤周作原作の『海と毒薬』でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)を受賞した。
その後も社会性の強いテーマを内包した作品を立て続けに発表し、独自な地位を築いている。
大先輩で日本の巨匠である小津安二郎に対し、会社の言うままに体を任せる「女郎のようだ」と小津本人の眼の前で批判したのは有名だが、後年に至り「NHK」のドキュメンタリーで小津について発言した際にこの放言に対しても反省の弁は無かった。
2001年、「松本サリン事件」を題材にした『日本の黒い夏 冤罪』でベルリン国際映画祭国際功労賞を受賞した。
2007年5月18日早朝に自宅敷地内で倒れているところを発見され、搬送された病院で意識を回復したものの、同月23日午前9時51分、クモ膜下出血の為死去。享年76歳。
映画作品
帝銀事件 死刑囚(1964年)
日本列島(1965年)モスクワ映画祭招待作品
黒部の太陽(1968年)
地の群れ(1970年)ベルリン映画祭コンペティション参加
忍ぶ川(1972年)モスクワ映画祭コンペティション参加
朝やけの詩(1973年)ベルリン映画祭コンペティション参加
サンダカン八番娼館 望郷(1974年)原作:山崎朋子 ベルリン映画祭銀熊賞・主演女優賞、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、アジア映画祭グランプリ
北の岬(1976年)原作:辻邦生
お吟さま(1978年)モントリオール映画祭招待作品
天平の甍(1980年)
日本の熱い日々 謀殺・下山事件(1981年)ベルリン映画祭コンペティション参加
海と毒薬(1986年)ベルリン映画祭銀熊賞
千利休 本覺坊遺文(1989年)ヴェネチア映画祭銀獅子賞、シカゴ映画祭銀賞
式部物語(1990年)モントリオール映画祭芸術貢献賞
ひかりごけ(1992年)ベルリン映画祭コンペティション参加
深い河(1995年)モントリオール映画祭エキュメニカル賞
愛する(1997年)モントリオール映画祭コンペティション
日本の黒い夏 冤罪(2001年)ベルリン映画祭特別功労賞
海は見ていた(2002年)サンセバスチャン映画祭コンペティション参加
テレビドキュメンタリー作品
われらの主役(1976年)東京12チャンネル(現:テレビ東京)
『不世出の大打者・王貞治』(1976年10月18日・10月25日)放送
Amazon.co.jp
ボルネオの港町サンダカンを訪れ、かつて“からゆきさん”と呼ばれた日本人娼婦たちの墓などを探す女性史研究家・圭子(栗原小巻)は、かつて九州で出会った元からゆきさんのおさき(田中絹代)から聞いた話の数々を思いかえしていく。戦前、若き日のおさき(高橋洋子)はサンダカンに娼婦として売られてきて、そこで苛酷な半生を過ごしたのだった…。
山崎朋子のノンフィクション・ルポを原作に、名匠・熊井啓監督が描いた社会派女性映画の大傑作。ひとりの女がたどった、まさに想像を絶する地獄の体験を映像はあますところなく捉え続け、観る者に怒りと悲しみを込めて告発していく。伊福部昭の重厚な音楽も、歴史と女の悲劇を見事に奏であげている。ラストに至っては、いつ観直してもショッキングで鳥肌が立つ思いだ。また、それらを裏打ちする名女優・田中絹代の存在感は、まさに映画が与えたもうた文化的財産といっても過言ではない。同年度キネマ旬報ベスト・テン第1位および監督・女優(田中)賞受賞。田中は海外でもベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞している。(的田也寸志)
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
山崎朋子の小説を、社会派作品で知られる熊井啓が映画化。女性研究家の圭子は、“からゆきさん”の調査のために天草へと出向いた。調査中、サキという老女と出会い、彼女がからゆきさんだと確信した圭子は、彼女の過去を調べ始める。
この映画の田中絹代さんは素晴らしかった。彼女の遺作でもあるはずだ。体の奥深くから出てくる演技(というよりオーラ)が当時既に60代だった田中絹代さんにはあった。彼女が出てくるシーンは釘付けに。是非観て下さい。
「帝銀事件 死刑囚」「海と毒薬」はDVDが絶版。どちらも素晴らしい映画だ。「黒部の太陽」はDVD化もされていない。是非観たい映画だ。その製作現場の事を詳細に書いた本を読んだので、余計に観たい欲望がつのる。
内容(「BOOK」データベースより)
昭和43年公開『黒部の太陽』(製作・主演/三船敏郎・石原裕次郎、監督/熊井啓)は、観客動員733万人、興収16億円(現在の80億円相当)の大ヒットとなった前代未聞の超大作映画である。しかし、完成・公開に至るまでには、想像を絶する苦難の日々があった。五社協定の壁、配給問題、資金調達、裕次郎が骨折した大出水シーンの撮影…。それでも男たちは、ひたすら突き進む。その後、裕次郎の「大画面でのみ、お客様に観ていただきたい」との要望で、再上映もDVD化もされていない。あれから38年。監督だからこそ知りうる秘話を満載し、何かに熱くなることだけがすべてだった“あの時代”が、いま、鮮烈によみがえる。
内容(「MARC」データベースより)
2大俳優が旧態依然の映画界に挑んだ壮大な賭け。未曾有の超大作「黒部の太陽」(昭和43年)の全貌を監督自ら明かす。写真多数、完全シナリオ収録。
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熊井氏は1953年、信州大文理学部卒業し、54年日活に入社。64年に「帝銀事件・死刑囚」で映画監督デビュー。社会的な問題を徹底的に調査して映画製作に挑み、日本の映画界を代表する社会派監督となり、69年にフリーに。
主な作品には「黒部の太陽」「地の群れ」「忍ぶ川」などがあり、「からゆきさん」たちの生涯を描いた「サンダカン八番娼館・望郷」(74年)は米アカデミー賞(外国語映画部門)にノミネートされた。
95年に紫綬褒章受賞。プロ野球ファンでG党としても知られていた。
(ZAKZAKより引用)
熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、映画監督。現代を代表する社会派監督である。
長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校を経て新制の信州大学文理学部を卒業後、独立プロの助監督を経て、1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
1964年、帝銀事件を描いた『帝銀事件・死刑囚』で監督デビューする。その後の『日本列島』も含めて、骨太な社会派ドラマを作る監督として評判をとる。
その一方、1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションが共同制作した超大作『黒部の太陽』を製作し、興行的にも成功させる。1974年には田中絹代が、元「からゆきさん」を演じてベルリン国際映画祭主演女優賞を受賞した『サンダカン八番娼館 望郷』を撮り、重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させた。また、1986年、遠藤周作原作の『海と毒薬』でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)を受賞した。
その後も社会性の強いテーマを内包した作品を立て続けに発表し、独自な地位を築いている。
大先輩で日本の巨匠である小津安二郎に対し、会社の言うままに体を任せる「女郎のようだ」と小津本人の眼の前で批判したのは有名だが、後年に至り「NHK」のドキュメンタリーで小津について発言した際にこの放言に対しても反省の弁は無かった。
2001年、「松本サリン事件」を題材にした『日本の黒い夏 冤罪』でベルリン国際映画祭国際功労賞を受賞した。
2007年5月18日早朝に自宅敷地内で倒れているところを発見され、搬送された病院で意識を回復したものの、同月23日午前9時51分、クモ膜下出血の為死去。享年76歳。
映画作品
帝銀事件 死刑囚(1964年)
日本列島(1965年)モスクワ映画祭招待作品
黒部の太陽(1968年)
地の群れ(1970年)ベルリン映画祭コンペティション参加
忍ぶ川(1972年)モスクワ映画祭コンペティション参加
朝やけの詩(1973年)ベルリン映画祭コンペティション参加
サンダカン八番娼館 望郷(1974年)原作:山崎朋子 ベルリン映画祭銀熊賞・主演女優賞、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、アジア映画祭グランプリ
北の岬(1976年)原作:辻邦生
お吟さま(1978年)モントリオール映画祭招待作品
天平の甍(1980年)
日本の熱い日々 謀殺・下山事件(1981年)ベルリン映画祭コンペティション参加
海と毒薬(1986年)ベルリン映画祭銀熊賞
千利休 本覺坊遺文(1989年)ヴェネチア映画祭銀獅子賞、シカゴ映画祭銀賞
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深い河(1995年)モントリオール映画祭エキュメニカル賞
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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
山崎朋子の小説を、社会派作品で知られる熊井啓が映画化。女性研究家の圭子は、“からゆきさん”の調査のために天草へと出向いた。調査中、サキという老女と出会い、彼女がからゆきさんだと確信した圭子は、彼女の過去を調べ始める。
この映画の田中絹代さんは素晴らしかった。彼女の遺作でもあるはずだ。体の奥深くから出てくる演技(というよりオーラ)が当時既に60代だった田中絹代さんにはあった。彼女が出てくるシーンは釘付けに。是非観て下さい。
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内容(「BOOK」データベースより)
昭和43年公開『黒部の太陽』(製作・主演/三船敏郎・石原裕次郎、監督/熊井啓)は、観客動員733万人、興収16億円(現在の80億円相当)の大ヒットとなった前代未聞の超大作映画である。しかし、完成・公開に至るまでには、想像を絶する苦難の日々があった。五社協定の壁、配給問題、資金調達、裕次郎が骨折した大出水シーンの撮影…。それでも男たちは、ひたすら突き進む。その後、裕次郎の「大画面でのみ、お客様に観ていただきたい」との要望で、再上映もDVD化もされていない。あれから38年。監督だからこそ知りうる秘話を満載し、何かに熱くなることだけがすべてだった“あの時代”が、いま、鮮烈によみがえる。
内容(「MARC」データベースより)
2大俳優が旧態依然の映画界に挑んだ壮大な賭け。未曾有の超大作「黒部の太陽」(昭和43年)の全貌を監督自ら明かす。写真多数、完全シナリオ収録。
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