逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日)は、日本の男性タレントで、元フジテレビアナウンサー・司会者。愛称はいっつみい。大阪市阿倍野区出身。血液型はB型。妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛。
フジテレビ在籍時代は主にニュースキャスターとして活躍。1988年3月31日付でフジテレビを退職してフリーとなり、テレビではバラエティ番組の司会やラジオ番組のパーソナリティなどを務めて人気を博した。1993年9月6日、極めて異例の「癌告白会見」を行い、社会に「中年男性の働き盛りにおけるガン」という問題提起をすることになったが、わずか3ヶ月半後の12月25日午後0時47分、癌性悪液質(スキルス)のため東京女子医科大学病院で死去した。まだ48歳の若さ、惜しまれる早世だった。
略歴
局アナ時代
大阪府立阿倍野高等学校を卒業後、関西学院大学を受験するが失敗。これが原因で恋人に振られ、その悔しさのあまり「有名になって見返してやりたい」と自分の将来について真剣に考えるようになった。たまたまテレビニュースに出演していたアナウンサーを見たのがきっかけで、また高校時代に放送部に所属していた影響もあり、アナウンサーの道を志すことを決意。アナウンサーになるためには、東京の大学の出身のほうが有利と考え、一年の浪人。早稲田大学合格を目指して猛勉強に励む。本人は後に「今の私があるのは、関学が落としてくれたからです。受かっていたら野球部のマネージャーになって、全く別の人生を歩んでいた」と語っている。
念願叶って、早稲田大学第一文学部演劇科に入学、アナウンス研究会に所属。大阪出身であったため大阪方言を話していたが、アナウンス研究会の3期先輩だった舛方勝宏(元日本テレビアナウンサー、現日本テレビ常務取締役)の影響を受けてか、共通語のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも共通語で話すようにした。フジテレビのアナウンサー試験では出身地を確かめられたというほどの実力で、フジテレビ入社後には「アクセント辞典を食べた男」と語られるようになる。父に「アナウンサーになりたいんや」と告げると「やりたい様にやれや」と父から厳しい言葉が帰ってきた。
大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破。大学卒業後の1968年、フジテレビに入社。当初はスポーツアナウンサーとして活躍し、輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心に、プロボクシング中継を担当する。同時にワイドショー『3時のあなた』のサブ司会者としても活躍する。
その後報道へ転出。1976年、『FNNテレビ土曜夕刊・テレビ日曜夕刊』で週末のニュースを担当したことを皮切りに、1978年平日放送の『FNNニュースレポート6:30』(関東ローカル番組)のキャスターとなる。当時のニュース番組のキャスターに逸見の年代で起用されるのは珍しかった。それから2年余りが経過したころ、TBSの『テレポート6』を見て感銘を受けた。そこで、当時同番組のキャスターであった山本文郎に直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのかを尋ねた。山本からは「できるだけ現場へ行くように」とアドバイスを受けた。その後、逸見と共演者の田丸美寿々(ニュースキャスター、日本ニュース時事能力検定協会理事)は若さを武器に様々な現場へ取材に出向き、行動力のあるニュースワイド番組として定評を得る。取材範囲は、原則的には関東地方に限られたが、神戸などそれ以外の地域に赴いた事もある。
1984年4月からは全国ニュース『FNNニュースレポート6:00』のキャスターを務める。そして同年10月にスタートする『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターに抜擢され、幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。同番組の予告コーナーが設けられていたバラエティ番組『夕やけニャンニャン』において、司会の片岡鶴太郎やとんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集めて人気は全国区となり、ブロマイドまで発行された。当時のニュースキャスターといえばまだお堅いイメージしかなく、当時の彼の外見も「七三分け」に「黒縁メガネ」と、その例に漏れなかったが(フリーに転身してからは徐々におしゃれをするようになっていった)、関西出身のひょうきんなキャラクターとのギャップが視聴者に意外性をもって受け入れられ、一般的なニュースキャスターとは一線を画すキャラクターで人気が高まったものと思われる。人気の高まりを受け、1986年には内田裕也主演の映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演。また、バラエティ番組への出演が増え、同年から高橋圭三の後をついで、『新春かくし芸大会』の司会を担当する。
フリー転身後
管理職に昇格したことによって、番組出演の機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、1987年11月に辞表を提出。翌1988年3月末、フジテレビを円満退社。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」(現在は「株式会社オフィスいつみ」に社名変更)を設立してフリーとなる。「FNNスーパータイム」のキャスターはその後1年間続けた(逸見自身は退職と同時に降板を希望したが、フジテレビと、パートナーの安藤優子に「番組には残って欲しい」と強く希望され、1年間の約束でキャスターを続けた)。テレビでは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』(以上日本テレビ系)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)など数多くの人気番組の司会を務め、「いっつみい」の愛称とその笑顔で、視聴者から高い好感度を得た。ラジオの「オールナイトニッポン」でパーソナリティを務めたこともある。特に『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)は裏番組の『クイズダービー』(TBSテレビ)、『おぼっちゃまくん』(テレビ朝日)を終了へ追い込んだ。 タモリ・ビートたけし・明石家さんまのいわゆるビッグスリーBIG3を完璧に制御することのできた唯一の人物として、日本を代表する「名(迷)司会者」として語り継がれている。なお、逸見は著書の中で「『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』と『たけし・逸見の平成教育委員会』が自分にとって一番思い入れのある仕事」と述べている。また、BIG3との共演に関して、「あれ(=BIG3の仕切り役)だけは絶対誰にも譲らない」と語っていたそうである。また『夜も一生けんめい。』では音痴でありながらも精一杯に熱唱していた。また1992年秋に世田谷区に12億円(当時)の英国風の大豪邸を築きあげた。同時に大阪に居住していた両親を呼び寄せ、旧宅に住ませる事となる。
司会者としての地位を確立したこともあり、解答者として他のクイズ番組に出演することはほとんどなかったが、1993年春の『オールスター感謝祭』に、自身が司会する『逸見のその時何が!』の解答者として出演した。この番組には以降も出演する予定だったと思われるが、この時が最初で最後の出演になった。なおこの番組で、当時、逸見の真の病状を知らなかった島田紳助は解答者席の逸見に向かって「実は癌なんです」とか「もうすぐ死にますよ」などと冗談を言っていた。逸見の亡くなった日の夜にインタビューで紳助は「癌という重病を抱えているのに何で仕事し続けんねん。全くのドアホですよ、逸見さんは」などと悔し泣きしながらコメントを述べている。
エピソード
1985年8月12日、大阪への帰省のため家族4人で日航機に搭乗する予定だったが、晴恵夫人が「新幹線で大阪へ帰りたい」と願い出て、直前に東海道新幹線に変更したため、日本航空123便墜落事故の難を逃れている。これは夫人が飛行機嫌いであったためとも言われる。
『たけし・逸見の平成教育委員会』では、国語と社会の正解率が高かった反面、算数の解答は相当苦手であった。ようやく出来たと思った算数の問題(三角形の面積を求める問題)では、公式中の「÷2」をせずに解答。正解だと思っていた本人は、一瞬唖然とした後、相当カッカしてしまった(ちなみに、同じく生徒であった天本英世、高田文夫も国語が得意で算数はかなり苦手であった)。逸見に言わせると「算数の問題は、鬼門だなぁ」とのこと。
一方、逸見一人だけ全問正解した国語の時間では、田中康夫や岡本夏生など生徒達から「逸見君、変」「逸見君おかしい」などと散々言われ、北野先生ですら「事前にイースト(当番組の制作会社)から答えを教えてもらっていたんじゃないですか?」とまで言われた。
『教育委員会』で成績優秀者に与えられる「たけし落とし」を見事完成。めでたく海外一周留学の旅を獲得。ところが、直後に北野先生が「ここで嬉しいお知らせです。何と逸見君が世界一周の旅を視聴者プレゼントとして・・・」と勝手に段取りを進めてしまい、本当に視聴者プレゼントとなってしまった。
大阪弁を完全に矯正したことで、上岡龍太郎など一部の関西出身の芸能人からは「関西を捨てた男」と呼ばれることもあった。また、やしきたかじんは共演をしたがらないほど逸見のことを批判していた。しかし、全国放送で正確かつ的確なニュース原稿を読み上げるプロとしては当然の事であり、「共通語」を完全に会得した努力は、評価すべきである。後輩アナウンサーへの指導も非常に厳しかった。それだけに「(アナウンサーなら)ちゃんとしゃべれ!」と指導するところを「ちゃんとちゃべれ!」と言ってしまったという、他の人物ならなんでもないエピソードが語り継がれている。
一方で、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。大阪から東京に進出し『世界の常識・非常識!』やその他の逸見司会の番組に出演していた、当時全国的には無名のダウンタウンを可愛がり(逸見はこの番組におけるダウンタウンとの掛け合いで2人の持ち味を最大限に引き出し、ダウンタウンとの応酬合戦では関西弁で突っ込むこともあった)、当時低迷が続いていた阪神タイガースを生涯変わらず愛し続け、関東での阪神の試合に家族で頻繁に応援に訪れていた。晩年には時に関西弁で話すこともあったという。
番組出演時とは対照的に、家庭内では「頑固オヤジ」や「亭主関白」とも言われ、追悼特番でも逸見の頑固ぶりが紹介された。しばしば妻に手を上げることもあったと著書などで告白している。
一般的に「マジメ」と思われていた逸見だが、逸見の著書内では山城新伍とビートたけしの親友2人がそろって「マジメだとは思わない」と述べている。山城は「必要以上に人に気を使う人。良しにつけ、悪しきにつけテレビ人間と思える節がある。もう少し無責任になった方がいい」と述べた。また、直接「もう少し悪人になってもいい」とアドバイスしたこともあるという(本人は笑って否定したという)。たけしは「逸見さんみたいな人は、今だからマジメと言われるだけで、昔なら不マジメ。昔は一つのものに集中する人がマジメだった。でも逸見さんは色んなことに夢中になってるからね・・・」と述べている。
NHK朝の連続テレビ小説『青春家族』に出演した際、逸見演ずる岩井一之はアメリカに永住してビデオレターを送ったりもしたが、アルコール依存症で途中帰国する役設定だった。当該シーンの撮影の後、逸見はメイクをしたまま喜んで帰宅したそうである。また、この役柄設定は業務提携していた三木プロダクションの三木常務(生粋の酒飲み)をモチーフにしていたようだと、三木治が著書の中で語っている。
また、上記と同じような事例で『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の特番の番宣CMにてスーパーマンの衣装を身に着けた際にも、家族を驚かそうとそのままの格好で帰宅したという。
癌との戦い
最初の癌発見と手術
1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴えた逸見は、港区元赤坂の前田外科病院を年に1度の定期健診も兼ねて受診することにした。その際に担当医から「胃に初期の癌細胞を見つけた」と診断された。1週間後の1月25日に入院、前田昭二院長と新谷弘実医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けた。逸見本人には胃の3分の2のみを取り除いたと伝えられたのだが、この際、晴恵夫人だけには院長から「ご主人の病状は、実際は初期のがんではなかった。ギリギリの所で全ての癌細胞を取り除いたが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近い。」と宣告されていた。そして逸見はわずか1ヵ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。
退院後も抗癌剤投薬や前田外科病院への検査通院を続けていたが、同年春から新番組も始まったことで再び軌道に乗り始めたかに思えた。しかし、同年5月下旬頃になると、メスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは「通常、手術後に起こる症状である」と言われたものの、その突起物が次第に大きくなり始めて服を着るにも邪魔なほどになってしまった。スケジュールの都合により夏休み中の同年8月12日にその突起物を除去するという名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、癌性腹膜炎という末期状態であったにもかかわらず執刀医は逸見に癌の再発を告知しなかった。一方、同時期に米国でゴンザレス医師によるビタミン治療も検討されていたが、渡米直前で先方からキャンセルされた(癌の末期状態であるための、治療不能が理由であると思われる)。逸見は当時前田外科病院に絶対の信頼を抱いており、晴恵夫人ら周囲から別の専門病院での診察を勧められても、頑なに拒む態度をとっていた。またこの時期、逸見はレギュラー番組を週5本も抱え、極めて多忙な日々を送っていた。
癌再発と告白会見そして闘病期
同年9月3日、前田外科病院の治療と対応に疑問を抱き始めた逸見は、ようやく周囲の勧めで転院先の新宿区河田町の東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告された。医師団からは触診の際に烈火のごとく怒られ「どうしてこんなになるまで放っておいたのだ!?明らかに状態がおかしいじゃないか!!! この状態で放射線治療するのは腹膜に対して危険だ!! 100パーセント完治する状態ではないが、直ちに手術をしないと腸閉塞の恐れがあり、このまま放置すれば1年持たない!!」と厳しい現状を告げられた。そのことを受けとめた逸見は3度目の手術を決意する。
同年9月6日午後3時、日本テレビ内で緊急記者会見を行ない、各局のワイドショーで生中継された。逸見は冒頭のコメントでこう述べている。
「こういう(生中継の)形でのこういう(内容の)記者会見は賛否あると思いますが、私が入院してから事務所を通じてのコメントを出しますと、真意が伝わらなかったり、あるいは誤解を生じてもいけませんので、私の口から伝えることによって、皆さんに集まっていただきました・・・まず初めに皆さんにお詫びしなければならないのですが(中略)前回退院した時に、大変申し訳なかったのですが、嘘の病名を発表いたしました。(中略)本当のことを申し上げます。私が今侵されている病気の名前、病名は・・・癌です」
逸見はこの会見で、自ら進行性胃癌(スキルス・がんの中で最も性質の悪い病状)である事を初めて公の場で告白した。そこで同年1月からの経緯を克明に説明したうえで、これから3ヶ月間の癌闘病生活を送ることを述べた逸見は、記者から闘病に挑む心境を尋ねられ「・・・僕はやっぱり人間ができていないので恐ろしいです・・・」と吐露した。会見の最後の方では、「もう一度、いい形で生還できればいいなと思っています・・・どうもありがとうございました」と復帰に賭ける闘病への意気込みを語ると、記者からは「生還して下さい!」という声が飛び、記者会見終了後は、会場から逸見に対して「頑張ってください!」と拍手喝采となった。癌と闘う決意表明に多くの芸能タレントは感動していたが、中には明石家さんまをはじめとして、「逸見にとってこの記者会見が生涯最後の仕事になるのだろう」と悲観視する人も少なくなかった。
その記者会見の翌日から全ての仕事を休止。逸見は東京女子医科大学病院に入院して、本格的な闘病生活に入った。そして、羽生富士夫消化器病センター所長ら数名の権威の執刀により、同年9月16日に臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間、計13時間にもおよぶ大手術を受けた。
術後の容態悪化と最期
手術後の逸見は歩行訓練を行なったり、お粥などの流動食から好物のたこ焼き等の普通食を多く摂るなど、順調に回復している様子も見せた。ところが大手術から 1ヶ月が経過していた同年10月下旬に、突然腹痛を起こし食べ物を嘔吐した。その後、腸閉塞と判明して、この日は一時帰宅日であったが、中止になった。これにより普通食禁止の絶対安静となり、絶食状態を余儀なくされたために、高栄養の点滴をつけられたが、徐々に衰弱していった。その状態にもかかわらず、同年11月上旬から抗がん剤の投与が開始された。その抗がん剤の副作用の影響で、日頃の表情豊かであった逸見とは思えない姿に陥った。激しい吐き気を催して、意識がもうろうとなり、うわ言を発するなど、ますます病状は悪化していった。同年10月にマスコミに公表された病室での写真よりもさらに痩せ細り、体重が50kgを下回っていた逸見に、同年12月16日には、既に切除して消滅したはずの癌が腸に見つかった事が正式に分かり、主治医は「年を越せるかどうか分からない」と、妻の晴恵ら家族に宣告していた。翌日12月24日には、意識不明の危篤状態に陥った。この日は息子である太郎の誕生日だった。そして早期復帰の願いも空しく、「1年後に亡くなるのは本意ではありません」と述べた会見からわずか3ヶ月半後の翌日12月25日午後0時47分、癌性悪液質のため、東京女子医科大学病院で亡くなった。 まだ48歳であり最初の癌発見からわずか341日後の早すぎる死であった。家族に言った遺言は「もう早く(家に)帰りなさい」であった。そして亡くなる間際の遺言の「3番が正解です」は、逸見がフリー転向後、頻繁にクイズ番組に出演していたこともあり、仕事熱心さを伺わせた。
死後の賛否両論と波紋
結果的に癌の再発を根治する事はできなかったわけで、逸見の患った癌(スキルス)の特質上、逸見の死後「末期の状態であったにもかかわらず、なぜ大手術を行なったのか?」という疑問・批判の意見が多数あった。さらに、手術を行なわず他の治療で処置したほうが、1年程度は長く生きることができたとの見方もある。一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためにはこのような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある。なお、慶應義塾大学医学部の近藤誠医師は、前田外科病院と東京女子医科大学の治療・手術方法を指摘している。「同年2月の手術の段階の病状でいかなる治療を行なっても、逸見は助かる見込みは100%無かった。またこの際に手術を行なわなければ、癌再発は起こらずあと数年は生きられた」とも語っている。
ただし、結局はどの様な手段を施しても逸見の癌の完治は不可能であったが、逸見自身が闘病方法を選択して積極的に病と向き合ったことや、スキルス胃がんを患った場合の医学的理論から逸見は早かれ遅かれ、いずれ死を迎えられざるを得られなかったという見方から、この様な議論については虚しいものとして沈黙を貫いている人が逸見の周囲には多い。
なお、逸見の実弟である憲治も1980年に同じスキルス胃がんで半年間の闘病の末、32歳の若さで亡くなっている。
没後
放送業界に衝撃
人気絶頂期にいた彼の死は、芸能界に留まらず日本社会に改めて衝撃を与えた。これは、死の直後にテレビ全局がニュース速報で“闘病中の逸見さん、力尽きる”と(ラジオ番組ではアナウンサーや番組パーソナリティから直接)伝えたこと、また古巣のフジテレビのみならず、他系列の民放各局でも追悼特番が組まれるなど、アナウンサー出身の芸能人としては、異例の扱いを受けた事がわかる。その後、新宿区信濃町にある千日谷会堂で行なわれた通夜の帰路にTBS、テレビ朝日、NHKを回り、その翌日の告別式の後には、一番お世話になった古巣のフジテレビと日本テレビを回って荼毘に付された。棺には、逸見の遺体と共に『たけし・逸見の平成教育委員会』で逸見が使用した学級委員長の制服も一緒に納められた。遺影は、自身が司会を務める予定であった『平成初恋談義』(1993年10月よりスペシャル番組からレギュラー番組に昇格)のPRや番宣ポスターなどに使用するために撮影されたものである。
親しかったタレントが号泣
逸見が初代キャスターを務めていた『FNNスーパータイム』では、彼の訃報をトップ項目として扱い、死を悼んだ。この時訃報を伝えたのは逸見の13期後輩である山中秀樹(現フリーアナウンサー)であり、翌月曜日にはフジテレビ時代の先輩である露木茂もニュースを読み上げ、またかつて同番組でコンビを組んだ安藤優子が葬儀の模様をレポートし、放送中に号泣した。また、逸見が亡くなった直後の緊急追悼番組のCM中に徳光和夫がスタジオの隅で号泣していた。さらに、逸見のレギュラー番組だった『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『たけし・逸見の平成教育委員会』、『いつみても波瀾万丈』、『夜も一生けんめい。』(亡くなった当日に生放送。このため、同日放送予定だった回は翌年1回目の放送となった)では追悼特番を放送した。ビートたけしが告別式の間中、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。式の折には、「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語ったという。1997年9月の『たけし・逸見の平成教育委員会』の最終回でも、たけしは「逸見さんと最後までやりたかった・・・それが一番残念です」と述べた。また、逸見についての話は親交が深かった事もあり、彼の著書でも逸見はよくとりあげられる。また、1998年1月25日の「知ってるつもり?!」でも逸見のことが取り上げられた。追悼特番では渡辺正行が号泣した。
「人柄」を画面から感じさせる人だった。面識は無いが、逸見さんの死に当時かなりショックを受けた。