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出版社/著者からの内容紹介
淡い人生の味わいがぎっしりつまった短編集
2004年9月に募集を始めた「きらら文学賞」に、遠くニューヨークから原稿が送られてきたのは、募集を始めて2か月後のことでした。どの小説も、原稿の枚数が応募規定に達していなかったため選外となってしまいましたが、あまりにも魅力的で、特例の読み切り連載の形で「きらら」に掲載を始めたのは、'05年4月号からのことでした。今回、そのとき連載した12本に書き下ろしを1本加え、単行本として刊行することとなりました。 〈ネット上で拾ったある読者のブログから抜粋〉20060104/淡いせつなさ 葬式まんじゅう/実は、密かに愛読している作家さんの作品。/なんだかねえ。切なかった。切なすぎて涙が出た。/私は、このかたの文章というか作品世界がとても好きで、まだ出版化されていないようだけど、短篇集が出たら、ぜひ改めて読み直したい。
物凄く読みたくてタマラナイ今。キョンキョンの「文章の力」はスゴイ。その彼女が薦めるのだから・・・きっと感性にあふれた本なのだろう。
小泉今日子の半径100m宝島社このアイテムの詳細を見る |
内容(「MARC」データベースより)
思春期なんかとっくの昔にやり過ごしたこの私に、再び微妙なお年頃がやってくるとは夢にも思っていなかった-。大人の乙女ゴコロ炸裂のフォト&エッセイ。『InRed』連載と『Red』掲載分を加筆訂正し、再構成。
iPodは何を変えたのか?ソフトバンク クリエイティブこのアイテムの詳細を見る |
内容紹介
iPodは、何をもたらしたのか?
「『なぜアップルがこの世に存在するのか』と聞かれたら、この製品を見せるだろうね」 スティーブ・ジョブズがかく語ったiPod。
このiPodを著者スティーブン・レヴィ氏だからこそ知りえた秘話を中心に、さまざまな側面からせまる迫真のドキュメント!
僕が大学生の時、SONYが「ウォークマン」を出した。何故、それだけの技術力があり、同じ携帯式のオーディオをSONYでなくて、アップルが世にもたらしたか?その辺の謎をこの本で知りたい。
私の好きなお国ことば小学館このアイテムの詳細を見る |
「お笑い」がブームで「大阪弁」が全国に浸透している。しかし、神戸生まれの西宮育ちの僕に言わせれば、テレビから流れてくる「大阪弁と称するもの(ほんまの大阪弁は船場言葉というもっと上品なものだと思う)」と「神戸弁」とはまた違う。神戸弁では「○○しとう」という。いずれにしても、海外とか、国内でも旅していて、関西の人だとすぐ分かる。声と身振り手振りが大きい。キョロキョロと好奇心丸出しで辺りを見回す。そんな人にローマで会った。
「もしかして関西の人でっか?」
「なんで分かったん?」
それは分かるでしょ。「ふるさとの言葉」を大切にしたいと思う。
酒の歴史
古代
酒の歴史は古く、有史(文字の歴史)以前から一部で作られていたと言われている。
人類が最初に造った酒は蜂蜜酒だという説がある。水で薄めた蜂蜜は、自然酵母の働きで酒になるからである。また、サルが木の洞に果物を集めると、その果汁が発酵して猿酒になるという伝説があるが、これは疑わしい。いずれにしても検証されていない。
2004年12月、中国で紀元前7000年ごろの賈湖遺跡(かこいせき)から出土した陶器片を分析したところ、米・果実・蜂蜜などで作った醸造酒の成分が検出されたという報告があった。いまのところこれが考古学的には最古の酒である。
オリエント世界では、紀元前5400年頃のイラン北部ザグロス山脈のハッジ・フィルズ・テペ(Hajji Firuz Tepe)遺跡から出土した壺の中に、ワインの残滓が確認された。また紀元前3000年代には、シュメールの粘土板にビールのことが記録されている。シュメールの後を継いだバビロニアで、最古の成文法であるハンムラビ法典の中にビール売りに関する規定が記されている(第108条~第110条)。
エジプトでは紀元前2700年頃までには一部の王族にワインが飲まれていた。ツタンカーメン王の副葬品の壺からはワインが検出されている。ピラミッド工事の労働者たちにはビールが支給されていたという説もあるもあるが、よく分かっていない。
中国において殷・周のころ、酒は国家の重要事である祝祭において意味を持っていた。非常に手の込んだ器である殷代青銅器のうち、多くのものは酒器である。夏の桀王や殷の紂王は酒に耽り、酒池肉林の宴を行って国を滅ぼしたという伝説が史記などに記されている。
『論語』には、「郷人で酒を飲む(村の人たちで酒を飲む)」などの宗教儀式に関する記述がある。
ギリシア・ローマは、ブドウの産地ということもあり、ワインが多く生産された。それらはアンフォラと呼ばれる壺に入れられて、地中海世界で広く交易されていたらしい。酒の神ディオニソス(ギリシアではバッカス)が信仰され、酒神を讃える祭りが行われ、泥酔した人を若者に見せ、飲酒の害を教えたという。
古代バビロニア時代に、香水を作るための蒸留技術があったという説があるが、 蒸留の技術は、3世紀頃のアレクサンドリアの錬金術師たちには既に知られていたと推測される。
ローマ帝国は、イギリスをはじめヨーロッパの各地を支配下に収め、その過程でワイン生産の技術を伝えた。フランスのボルドーやブルゴーニュなどではそのころからワインの製造が始まっている。しかし、農民たちは税金搾取により、生涯を通じて、ほとんど口に出来なかったという。 なお、イギリスは気候の低温化によりブドウが栽培できなくなりワイン生産は廃れた。
中世
10世紀以前には蒸留酒が発明されていた。それは錬金術師が偶然に作り出したものだといわれる。このとき、以来、人類は自然界に存在しない高濃度のアルコールを手に入れることになり、アルコール飲料に麻薬性が生まれた。 ラテン語で蒸留酒はアクア・ヴィテ(生命の水)と呼ばれた。それが変化してフランス語でオード・ヴィー、ゲール語でウシュクベーハーになり、今日の様々な蒸留酒の区分ができた。 1171年、ヘンリー2世の軍隊がアイルランドに侵攻した。その時の記録によると、住民は「アスキボー」という蒸留酒を飲んでいたという。これが「ウイスキー」の語源となる。
日本酒の歴史は・・・
日本酒の起源
厳島神社の酒樽日本列島に住む人々がいつ頃から米を原料とした酒を造るようになったのかは定かではないが、稲作、とりわけ水稲の耕作が定着し、安定して米が収穫できるようになってからのことであるのは確かと思われる。日本国外には、中国大陸揚子江流域に紀元前4800年ごろ稲作が始まり、ここで造られた米酒が日本に輸出されたのが日本酒の起源とする説もあるが、さまざまな点で無理があり、日本国内ではほとんど支持されていない。
日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)の記述に見られる。同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
もう一つの根拠は、「医」という文字の変遷に見られる。中国大陸においては、古くは同じく口噛みの製法で紀元前14世紀ごろアワ(粟)、キビなどの雑穀から「小米酒」(ピン音: xǐao mǐ jǐu。小米は粟の意。)を造ることから醸造の歴史が始まり、紀元前8世紀には「米酒」の時代に入っていた。ただし、「米」は「種」という意味でしかないので、注意が必要である。1世紀ごろの漢方医学の書物には、古代漢方において酒醪(しゅろう)と呼ばれる処方、すなわち服薬に際して「酒で煎じるべし」「酒で服用すべし」といった指示が頻繁にあらわれる。こうしたことから、当時すでに米で造った酒が医療的に重要な意味を持っていたことがわかる。
「医」の旧字体「醫」の部首である「酉」(とりへん)は、「醸」「醗」「酵」のように酒に関連した物事をあらわすが、これは酒を醸す壺が半ば土に埋まっている象形に起源を持つ。さらに時代をさかのぼると「醫」の下部「酉」は「巫」であった。これはすなわち、まだ医療行為の主流が現代でいう「占い」のようなものであったころ、集落や古代国家においてそれを司る者が巫女もしくは巫祝(ふしゅく)であったことを示している。またその文字が時代とともに「醫」に変化していったことから、医師である巫女・巫祝が、「占い」に加えて今でいう「薬物療法」を取り入れ、医術が進歩もしくは変化してきたことがうかがえる。すなわち、生薬(しょうやく)の類を医師が酒醪として処方するようになってから、「医」の文字も「醫」に変化していった、と考えられるのである。
上代
口嚼ノ酒(くちかみのさけ)とカビの酒
米を原料とした酒であることが確実な記録が日本に登場するのは、『三国志』の時代から約500年も後のことになる。興味深いことに、その最古の記述は二つある。
一つは『大隅国風土記』逸文(713年以降)である。大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。彼らはその酒を「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。これは唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。現代日本語でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来する。
もう一つは『播磨国風土記』(716年頃)である。携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは麹カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みによるものと麹によるものというまったく異なる醸造法が記録されているわけであるが、後述する『日本書紀』応神天皇21年の記録等を勘案するに、この当時一般的であったのは後者の方であったろう。前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。
清酒の起源をめぐって
『播磨国風土記』には「清酒(すみさけ)」というものに関する記事もある。これを以て現在の清酒(せいしゅ)の初見とみなす説があるが、それは以下のように議論の分かれるところである。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が供えられる。黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。
しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば天平年間の諸国の『正税帳』などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。
いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。さらに兵庫県伊丹市鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が建っている。
僕たちが「酔える」のも、先達たちの研究の成果なのだ。それが僕の「酒乱」を引き起こすのだが・・・
古代
酒の歴史は古く、有史(文字の歴史)以前から一部で作られていたと言われている。
人類が最初に造った酒は蜂蜜酒だという説がある。水で薄めた蜂蜜は、自然酵母の働きで酒になるからである。また、サルが木の洞に果物を集めると、その果汁が発酵して猿酒になるという伝説があるが、これは疑わしい。いずれにしても検証されていない。
2004年12月、中国で紀元前7000年ごろの賈湖遺跡(かこいせき)から出土した陶器片を分析したところ、米・果実・蜂蜜などで作った醸造酒の成分が検出されたという報告があった。いまのところこれが考古学的には最古の酒である。
オリエント世界では、紀元前5400年頃のイラン北部ザグロス山脈のハッジ・フィルズ・テペ(Hajji Firuz Tepe)遺跡から出土した壺の中に、ワインの残滓が確認された。また紀元前3000年代には、シュメールの粘土板にビールのことが記録されている。シュメールの後を継いだバビロニアで、最古の成文法であるハンムラビ法典の中にビール売りに関する規定が記されている(第108条~第110条)。
エジプトでは紀元前2700年頃までには一部の王族にワインが飲まれていた。ツタンカーメン王の副葬品の壺からはワインが検出されている。ピラミッド工事の労働者たちにはビールが支給されていたという説もあるもあるが、よく分かっていない。
中国において殷・周のころ、酒は国家の重要事である祝祭において意味を持っていた。非常に手の込んだ器である殷代青銅器のうち、多くのものは酒器である。夏の桀王や殷の紂王は酒に耽り、酒池肉林の宴を行って国を滅ぼしたという伝説が史記などに記されている。
『論語』には、「郷人で酒を飲む(村の人たちで酒を飲む)」などの宗教儀式に関する記述がある。
ギリシア・ローマは、ブドウの産地ということもあり、ワインが多く生産された。それらはアンフォラと呼ばれる壺に入れられて、地中海世界で広く交易されていたらしい。酒の神ディオニソス(ギリシアではバッカス)が信仰され、酒神を讃える祭りが行われ、泥酔した人を若者に見せ、飲酒の害を教えたという。
古代バビロニア時代に、香水を作るための蒸留技術があったという説があるが、 蒸留の技術は、3世紀頃のアレクサンドリアの錬金術師たちには既に知られていたと推測される。
ローマ帝国は、イギリスをはじめヨーロッパの各地を支配下に収め、その過程でワイン生産の技術を伝えた。フランスのボルドーやブルゴーニュなどではそのころからワインの製造が始まっている。しかし、農民たちは税金搾取により、生涯を通じて、ほとんど口に出来なかったという。 なお、イギリスは気候の低温化によりブドウが栽培できなくなりワイン生産は廃れた。
中世
10世紀以前には蒸留酒が発明されていた。それは錬金術師が偶然に作り出したものだといわれる。このとき、以来、人類は自然界に存在しない高濃度のアルコールを手に入れることになり、アルコール飲料に麻薬性が生まれた。 ラテン語で蒸留酒はアクア・ヴィテ(生命の水)と呼ばれた。それが変化してフランス語でオード・ヴィー、ゲール語でウシュクベーハーになり、今日の様々な蒸留酒の区分ができた。 1171年、ヘンリー2世の軍隊がアイルランドに侵攻した。その時の記録によると、住民は「アスキボー」という蒸留酒を飲んでいたという。これが「ウイスキー」の語源となる。
日本酒の歴史は・・・
日本酒の起源
厳島神社の酒樽日本列島に住む人々がいつ頃から米を原料とした酒を造るようになったのかは定かではないが、稲作、とりわけ水稲の耕作が定着し、安定して米が収穫できるようになってからのことであるのは確かと思われる。日本国外には、中国大陸揚子江流域に紀元前4800年ごろ稲作が始まり、ここで造られた米酒が日本に輸出されたのが日本酒の起源とする説もあるが、さまざまな点で無理があり、日本国内ではほとんど支持されていない。
日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)の記述に見られる。同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
もう一つの根拠は、「医」という文字の変遷に見られる。中国大陸においては、古くは同じく口噛みの製法で紀元前14世紀ごろアワ(粟)、キビなどの雑穀から「小米酒」(ピン音: xǐao mǐ jǐu。小米は粟の意。)を造ることから醸造の歴史が始まり、紀元前8世紀には「米酒」の時代に入っていた。ただし、「米」は「種」という意味でしかないので、注意が必要である。1世紀ごろの漢方医学の書物には、古代漢方において酒醪(しゅろう)と呼ばれる処方、すなわち服薬に際して「酒で煎じるべし」「酒で服用すべし」といった指示が頻繁にあらわれる。こうしたことから、当時すでに米で造った酒が医療的に重要な意味を持っていたことがわかる。
「医」の旧字体「醫」の部首である「酉」(とりへん)は、「醸」「醗」「酵」のように酒に関連した物事をあらわすが、これは酒を醸す壺が半ば土に埋まっている象形に起源を持つ。さらに時代をさかのぼると「醫」の下部「酉」は「巫」であった。これはすなわち、まだ医療行為の主流が現代でいう「占い」のようなものであったころ、集落や古代国家においてそれを司る者が巫女もしくは巫祝(ふしゅく)であったことを示している。またその文字が時代とともに「醫」に変化していったことから、医師である巫女・巫祝が、「占い」に加えて今でいう「薬物療法」を取り入れ、医術が進歩もしくは変化してきたことがうかがえる。すなわち、生薬(しょうやく)の類を医師が酒醪として処方するようになってから、「医」の文字も「醫」に変化していった、と考えられるのである。
上代
口嚼ノ酒(くちかみのさけ)とカビの酒
米を原料とした酒であることが確実な記録が日本に登場するのは、『三国志』の時代から約500年も後のことになる。興味深いことに、その最古の記述は二つある。
一つは『大隅国風土記』逸文(713年以降)である。大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。彼らはその酒を「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。これは唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。現代日本語でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来する。
もう一つは『播磨国風土記』(716年頃)である。携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは麹カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みによるものと麹によるものというまったく異なる醸造法が記録されているわけであるが、後述する『日本書紀』応神天皇21年の記録等を勘案するに、この当時一般的であったのは後者の方であったろう。前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。
清酒の起源をめぐって
『播磨国風土記』には「清酒(すみさけ)」というものに関する記事もある。これを以て現在の清酒(せいしゅ)の初見とみなす説があるが、それは以下のように議論の分かれるところである。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が供えられる。黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。
しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば天平年間の諸国の『正税帳』などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。
いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。さらに兵庫県伊丹市鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が建っている。
僕たちが「酔える」のも、先達たちの研究の成果なのだ。それが僕の「酒乱」を引き起こすのだが・・・
喫煙(きつえん)とは、植物を乾燥・発酵などの工程を経て加工した物に火をつけて、その煙を吸引する行為である。ここでは主にタバコの喫煙について記述する。
概要
古くからアメリカ先住民の間では使用されていたが、ヨーロッパ人による新大陸発見後、100年間という15~16世紀当時としては例外的に急速な期間に全世界に広まった。そのため、世界で「tobacco」「tabaco」などとほぼ同じ名前がついている。近年では健康被害が啓蒙されたことから喫煙率は概ね低下しており、社会的に分煙または受動喫煙防止の運動も見られる。
タバコは中枢神経作動薬であるニコチンを含むが、ニコチンには明らかな依存性があることが知られている。例えば動物実験において、レバーを押すことでニコチンを静脈内投与するような仕組みを作ると強化行動が起こる。喫煙の依存性は、喫煙者のうち5割以上の者が禁煙の失敗を経験しており、禁煙の成功率は5~10%程度であるというデータからも示されている。また、ニコチンの中断により離脱症状を生じるが、これはニコチンの投与によって軽減する。
タバコの誤飲や大量摂取により、ニコチンの急性中毒を起こし、場合によっては死亡することもあるため、扱いには注意を要する。
タバコの煙には、ニコチン以外にも活性酸素や数千種類の科学物質といった有害物質が含まれ、その長期的な影響が医学分野で広く研究されている。各種疾病との因果関係が疫学的な調査や動物実験によって指摘されており、「タバコは疾病リスクを高める」と認識されている。
歴史
アメリカ大陸から全世界への伝播
パイプや葉巻きタバコによるタバコの喫煙は、ヨーロッパの探検家が到達する前から、多くのアメリカ先住民の間では一般的なものであった。およそ1500年前のマヤ文明における美術作品にも喫煙の習慣が描かれている。マヤ人たちはタバコを万能の解毒剤として用い、また、その効用が魔法的な力を持つと信じ、生贄を捧げる儀式、占い、魔除けに使っていたことでも知られる。
1492年10月12日、クリストファー・コロンブスは乾燥したタバコの葉をアラワク族から与えられたが、興味を示さずうち捨ててしまった。その後ロドリゴ・デ・ヘレス (Rodrigo de Jerez) とルイス・デ・トレス (Luis de Torres) が喫煙を目撃した最初のヨーロッパ人となり、ヘレスがアメリカ州の外で喫煙した最初の人物として記録されている。16世紀には喫煙の習慣は主に船乗りの間で一般的なものであった。1560年代にジョン・ホーキンス (John Hawkins) の船員によってイングランドにもたらされたが、1580年代に至るまで大きな影響を与えることはなかった。イングランドでは1820年代後期から広く浸透し始めた。1828年、スペインで紙巻きタバコ(シガレット)が登場し、一定の商業的な成功を収めたが、20世紀初頭に安価な機械製造法が普遍化されると、爆発的に喫煙人口が増加した。
第一次世界大戦の間、タバコ製品は典型的な軍事補給物資の一つであった。戦後紙巻きタバコを用いた喫煙は魅力的で気楽な生活様式の一部として宣伝され、女性の喫煙も社会的に受け入れられ始めた。
健康被害とタバコ規制
1930年代、ナチスの医療および軍事指導者たちはタバコが健康に害を及ぼすのではないかという懸念を持ち始め、麾下の科学者がそれらの関連を初めて明らかにした。アメリカ合衆国では1938年ごろ生物学者レイモンド・パール (Raymond Pearl) がタバコは健康に悪影響を及ぼすことを証明した。1950年代から1960年代の間に医療界や各国政府、およびリーダーズ・ダイジェスト誌はそれがいかに公衆衛生に害を及ぼすかを示すことによって喫煙率を減らすキャンペーンを始めた。近年、世界の多くの地域では喫煙量が劇的に減少しているが、全世界でのタバコの製造はいまだ増加しており、アジアの国々での喫煙率が比較的高いままである傾向にある。
また、かつては喫煙についての制限はかなり緩く、職場、家庭、旅客機や列車・バスなど公共の場などにおける喫煙が許容されていたため、当時は非喫煙者は通常の生活を営むだけで受動喫煙を避けられない状況であった。しかし1970年代より世界的に喫煙に関する健康への悪影響が知られるようになり、禁煙活動や嫌煙(分煙とも)活動が推進され、公共の場などにおける分煙の動きも進んでいる。また、都市部では防災上の理由から1980年代より喫煙可能なスペースが制限され、さらに公共交通機関での喫煙行為を全面的に制限するなどの動きも見られており、喫煙習慣への依存度の高い向きからは反発の声も漏れる。
日本における歴史
日本では明治時代に入り、それまでのキセルによる喫煙に代わり紙巻タバコが庶民の間に普及した。当初日本には2社のタバコ会社が存在していたが、日清戦争開始後に財政難に陥った国により 葉たばこ専売法が1898年に制定され、タバコは専売化された。当時、タバコによる税収は国税において大きな割合を占めており(1945年には、タバコによる税収は国税の20%をも占めていたという)、日清・日露戦争などの戦費調達のための重要な財源であった。
第二次大戦後も、1985年まで日本専売公社によるたばこの専売が続いた。1980年時点では、輸入たばこには90%の関税がかけられ、国内市場における輸入たばこのシェアは1.5%未満に過ぎず、海外たばこ企業が日本国内でテレビ・雑誌・看板などの宣伝活動や市場調査を行ったり販売網を築くことはできなかった。しかし、1980年の米国 フィリップ・モリス社の5ヵ年計画において、日本に対し市場を開放するよう圧力をかけることが計画され、1982年、米国通商代表部(USTR)は日本政府に対し、関税の90%から20%への引き下げ、海外企業の宣伝活動や市場調査の許可を求め交渉した(経済制裁の脅しも持ち出されたという)。1985年、日本専売公社は日本たばこ産業に民営化され、1987年には米国タバコへの関税は撤廃された。結果として、米国からのたばこ輸入本数は1986年に99億本、2002年には780億本へと増加し、米国のたばこ輸出の61%を占めるまでになった。また、日本たばこ産業は民営化されたとは言え、財務省が過半数の株を保有している。
日本でも、受動喫煙被害防止の流れを受けて、健康増進法第25条が制定され、さらに世界的には公衆衛生分野における初めての多数国間条約として2005年2月27日に「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(たばこ規制枠組み条約)」が発効された。それ以前には防災上のものによる以外では余り明確な分煙・禁煙といった動きも少なかった。特にオフィスの禁煙は、健康上の理由というよりもOA化による機材保護の理由付けの方が強く、職場環境での分煙が始められたのは1990年代に入ってからのことで、一般オフィスで明確な分煙化が進められるようになったのは2000年代に入ってからである。(Wikipediaより引用)
「タバコ」を最初に吸ったのは誰?という素朴な疑問から調べてみた。
概要
古くからアメリカ先住民の間では使用されていたが、ヨーロッパ人による新大陸発見後、100年間という15~16世紀当時としては例外的に急速な期間に全世界に広まった。そのため、世界で「tobacco」「tabaco」などとほぼ同じ名前がついている。近年では健康被害が啓蒙されたことから喫煙率は概ね低下しており、社会的に分煙または受動喫煙防止の運動も見られる。
タバコは中枢神経作動薬であるニコチンを含むが、ニコチンには明らかな依存性があることが知られている。例えば動物実験において、レバーを押すことでニコチンを静脈内投与するような仕組みを作ると強化行動が起こる。喫煙の依存性は、喫煙者のうち5割以上の者が禁煙の失敗を経験しており、禁煙の成功率は5~10%程度であるというデータからも示されている。また、ニコチンの中断により離脱症状を生じるが、これはニコチンの投与によって軽減する。
タバコの誤飲や大量摂取により、ニコチンの急性中毒を起こし、場合によっては死亡することもあるため、扱いには注意を要する。
タバコの煙には、ニコチン以外にも活性酸素や数千種類の科学物質といった有害物質が含まれ、その長期的な影響が医学分野で広く研究されている。各種疾病との因果関係が疫学的な調査や動物実験によって指摘されており、「タバコは疾病リスクを高める」と認識されている。
歴史
アメリカ大陸から全世界への伝播
パイプや葉巻きタバコによるタバコの喫煙は、ヨーロッパの探検家が到達する前から、多くのアメリカ先住民の間では一般的なものであった。およそ1500年前のマヤ文明における美術作品にも喫煙の習慣が描かれている。マヤ人たちはタバコを万能の解毒剤として用い、また、その効用が魔法的な力を持つと信じ、生贄を捧げる儀式、占い、魔除けに使っていたことでも知られる。
1492年10月12日、クリストファー・コロンブスは乾燥したタバコの葉をアラワク族から与えられたが、興味を示さずうち捨ててしまった。その後ロドリゴ・デ・ヘレス (Rodrigo de Jerez) とルイス・デ・トレス (Luis de Torres) が喫煙を目撃した最初のヨーロッパ人となり、ヘレスがアメリカ州の外で喫煙した最初の人物として記録されている。16世紀には喫煙の習慣は主に船乗りの間で一般的なものであった。1560年代にジョン・ホーキンス (John Hawkins) の船員によってイングランドにもたらされたが、1580年代に至るまで大きな影響を与えることはなかった。イングランドでは1820年代後期から広く浸透し始めた。1828年、スペインで紙巻きタバコ(シガレット)が登場し、一定の商業的な成功を収めたが、20世紀初頭に安価な機械製造法が普遍化されると、爆発的に喫煙人口が増加した。
第一次世界大戦の間、タバコ製品は典型的な軍事補給物資の一つであった。戦後紙巻きタバコを用いた喫煙は魅力的で気楽な生活様式の一部として宣伝され、女性の喫煙も社会的に受け入れられ始めた。
健康被害とタバコ規制
1930年代、ナチスの医療および軍事指導者たちはタバコが健康に害を及ぼすのではないかという懸念を持ち始め、麾下の科学者がそれらの関連を初めて明らかにした。アメリカ合衆国では1938年ごろ生物学者レイモンド・パール (Raymond Pearl) がタバコは健康に悪影響を及ぼすことを証明した。1950年代から1960年代の間に医療界や各国政府、およびリーダーズ・ダイジェスト誌はそれがいかに公衆衛生に害を及ぼすかを示すことによって喫煙率を減らすキャンペーンを始めた。近年、世界の多くの地域では喫煙量が劇的に減少しているが、全世界でのタバコの製造はいまだ増加しており、アジアの国々での喫煙率が比較的高いままである傾向にある。
また、かつては喫煙についての制限はかなり緩く、職場、家庭、旅客機や列車・バスなど公共の場などにおける喫煙が許容されていたため、当時は非喫煙者は通常の生活を営むだけで受動喫煙を避けられない状況であった。しかし1970年代より世界的に喫煙に関する健康への悪影響が知られるようになり、禁煙活動や嫌煙(分煙とも)活動が推進され、公共の場などにおける分煙の動きも進んでいる。また、都市部では防災上の理由から1980年代より喫煙可能なスペースが制限され、さらに公共交通機関での喫煙行為を全面的に制限するなどの動きも見られており、喫煙習慣への依存度の高い向きからは反発の声も漏れる。
日本における歴史
日本では明治時代に入り、それまでのキセルによる喫煙に代わり紙巻タバコが庶民の間に普及した。当初日本には2社のタバコ会社が存在していたが、日清戦争開始後に財政難に陥った国により 葉たばこ専売法が1898年に制定され、タバコは専売化された。当時、タバコによる税収は国税において大きな割合を占めており(1945年には、タバコによる税収は国税の20%をも占めていたという)、日清・日露戦争などの戦費調達のための重要な財源であった。
第二次大戦後も、1985年まで日本専売公社によるたばこの専売が続いた。1980年時点では、輸入たばこには90%の関税がかけられ、国内市場における輸入たばこのシェアは1.5%未満に過ぎず、海外たばこ企業が日本国内でテレビ・雑誌・看板などの宣伝活動や市場調査を行ったり販売網を築くことはできなかった。しかし、1980年の米国 フィリップ・モリス社の5ヵ年計画において、日本に対し市場を開放するよう圧力をかけることが計画され、1982年、米国通商代表部(USTR)は日本政府に対し、関税の90%から20%への引き下げ、海外企業の宣伝活動や市場調査の許可を求め交渉した(経済制裁の脅しも持ち出されたという)。1985年、日本専売公社は日本たばこ産業に民営化され、1987年には米国タバコへの関税は撤廃された。結果として、米国からのたばこ輸入本数は1986年に99億本、2002年には780億本へと増加し、米国のたばこ輸出の61%を占めるまでになった。また、日本たばこ産業は民営化されたとは言え、財務省が過半数の株を保有している。
日本でも、受動喫煙被害防止の流れを受けて、健康増進法第25条が制定され、さらに世界的には公衆衛生分野における初めての多数国間条約として2005年2月27日に「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(たばこ規制枠組み条約)」が発効された。それ以前には防災上のものによる以外では余り明確な分煙・禁煙といった動きも少なかった。特にオフィスの禁煙は、健康上の理由というよりもOA化による機材保護の理由付けの方が強く、職場環境での分煙が始められたのは1990年代に入ってからのことで、一般オフィスで明確な分煙化が進められるようになったのは2000年代に入ってからである。(Wikipediaより引用)
「タバコ」を最初に吸ったのは誰?という素朴な疑問から調べてみた。
慢性閉塞性肺疾患(まんせいへいそくせいはいしっかん)は、さまざまな原因、特に喫煙により肺に慢性炎症が生じ、これにより、肺胞の破壊や気管支粘液腺の肥大が起き、その結果息切れを生じたり、咳嗽や喀痰が増加する病気。英語のChronic Obstructive Pulmonary Diseaseの頭文字からCOPD(シーオーピーディー)と呼ばれることが多い。以前肺気腫と呼ばれていた疾患と慢性気管支炎と呼ばれていた疾患は、両者が種々の割合で合併することが多く、この二つによる閉塞性肺疾患を合わせてCOPDと呼ぶようになった。
WHOの試算では、2005年に世界中で年間300万人がCOPDにより命を落とし、死亡原因の第4位を占めているが、今後10年間でさらに30%増加すると予測している。日本では厚生労働省の統計によると、2005年に14,416人(全死亡数の1.3%)がCOPDにより死亡し、死亡原因の10位、男性に限ると7位を占めている。
1997年、WHOとアメリカ心肺血液研究所 (NHLBI)、アメリカ国立衛生研究所 (NIH) は、全世界的なCOPDの予防と治療を目的として、GOLD(Global Initiative for Chronic Obstructive Lung Disease、慢性閉塞性肺疾患に対するグローバルイニシアチブ)という国際機関を発足させた。2001年にCOPDの国際的ガイドラインを発表し、その後改訂を重ね、COPDの診断、管理、治療の世界標準となっている。
慢性閉塞性肺疾患のデータ
統計
世界の患者数 8,000万人
(中等症以上)
(2005年)
世界の死亡者数 300万人
(2005年)
日本の患者数 受診患者数 34万人
(2001年)
潜在患者数 530万人
(2004年)
日本の死亡者数 14,416人
男性11,018人
女性 3,398人
(2005年)
学会・関連機関
日本 日本呼吸器学会
世界 GOLD
米国胸部疾患学会
欧州呼吸器学会
定義
この病気になると息が吐きづらくなるという特徴を持ち、この息の吐きづらさのことを「気流制限 airflow limitation 」と呼ぶ。COPDは、慢性の気流制限を呈し、気管支喘息やびまん性汎細気管支炎、閉塞性細気管支炎、気管支拡張症、あるいは肺腫瘍などその他既知の原因による気流制限を除外したものと定義される。 気流制限は、気管支拡張薬吸入後のスパイロメトリー検査にて、1秒率が70%未満であるものと定義される。1秒率は1秒量 (FEV1) を努力肺活量 (FVC) で除したものであり、これが低いということは、1秒間に吐く息の量が少ない、息が吐きづらいということを示す。(Wikipediaより引用)
詳しくは→http://www.copd-info.net/index.html
「文明病」なのだろうか?それとも、昔からあったが、病名が付けられていなかったのか・・・
WHOの試算では、2005年に世界中で年間300万人がCOPDにより命を落とし、死亡原因の第4位を占めているが、今後10年間でさらに30%増加すると予測している。日本では厚生労働省の統計によると、2005年に14,416人(全死亡数の1.3%)がCOPDにより死亡し、死亡原因の10位、男性に限ると7位を占めている。
1997年、WHOとアメリカ心肺血液研究所 (NHLBI)、アメリカ国立衛生研究所 (NIH) は、全世界的なCOPDの予防と治療を目的として、GOLD(Global Initiative for Chronic Obstructive Lung Disease、慢性閉塞性肺疾患に対するグローバルイニシアチブ)という国際機関を発足させた。2001年にCOPDの国際的ガイドラインを発表し、その後改訂を重ね、COPDの診断、管理、治療の世界標準となっている。
慢性閉塞性肺疾患のデータ
統計
世界の患者数 8,000万人
(中等症以上)
(2005年)
世界の死亡者数 300万人
(2005年)
日本の患者数 受診患者数 34万人
(2001年)
潜在患者数 530万人
(2004年)
日本の死亡者数 14,416人
男性11,018人
女性 3,398人
(2005年)
学会・関連機関
日本 日本呼吸器学会
世界 GOLD
米国胸部疾患学会
欧州呼吸器学会
定義
この病気になると息が吐きづらくなるという特徴を持ち、この息の吐きづらさのことを「気流制限 airflow limitation 」と呼ぶ。COPDは、慢性の気流制限を呈し、気管支喘息やびまん性汎細気管支炎、閉塞性細気管支炎、気管支拡張症、あるいは肺腫瘍などその他既知の原因による気流制限を除外したものと定義される。 気流制限は、気管支拡張薬吸入後のスパイロメトリー検査にて、1秒率が70%未満であるものと定義される。1秒率は1秒量 (FEV1) を努力肺活量 (FVC) で除したものであり、これが低いということは、1秒間に吐く息の量が少ない、息が吐きづらいということを示す。(Wikipediaより引用)
詳しくは→http://www.copd-info.net/index.html
「文明病」なのだろうか?それとも、昔からあったが、病名が付けられていなかったのか・・・
スコットランド(Scotland)は北西ヨーロッパに位置するグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス) の構成主体のひとつである。1707年の合同法によってグレートブリテン王国が作られるまでは独立した王国であった。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人(Scots)に由来する。スコットランド・ゲール語では「アラパ」(Alba)と呼ぶ。
スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランドと国境を接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。本島と別に790以上の島から構成される。首都のエディンバラは同国第二の都市であり、ヨーロッパ最大の金融中心のうちの一つである。最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心であり、スコットランドの人口の40%が集中する。スコットランドの沿岸部は北大西洋及び北海に接し、その海洋油田の石油埋蔵量はヨーロッパ随一となっている。
スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランド、ウェールズ、北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、公的および国際私法において個別の管轄を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の三つの基礎であった。しかしながらスコットランドは独立国家ではなく、国連及び欧州連合の直接の構成国ではない。
地理
グレートブリテン島の北部、およびシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島などの島々からなる。北部地域(ハイランド)は山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形である。グレートブリテン島最大の淡水湖であるネス湖もある。それに対し、南部(ローランド)は、なだらかな丘陵地帯が続き、イングランドの地形に近い。
気候
典型的な西岸海洋性気候で、北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)と偏西風の影響により緯度の割に比較的穏やかである。冬は緯度の割には暖かく、最寒月平均気温は2〜6℃にかけてと、日本では関東中~北部と同じぐらいの寒さに過ぎない。夏は最暖月でも14~19℃程度とすずしく、年較差が小さく過ごし易い。
歴史
1603年、ステュアート朝のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。
1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となる。
1999年、292年ぶりにスコットランド議会が設置される。
政治
1707年の連合法(Act of Union)によって、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であったイングランド王国とスコットランド王国は合邦し、グレートブリテン王国が成立した。この合邦は形式的には対等とされていたが、新国家の議会や王宮など主な機関は旧イングランド王国に座することになり、イングランドによる不公平な併合であったと考えるスコットランド人が少なくない。
スコットランドは伝統的に労働党の支持者が多いが、先述の経緯からスコットランド独立を掲げる民族主義的な政党(スコットランド国民党)も多くの支持を集めている。
ウェストミンスター議会
2005年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2005年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
労働党 - 41議席
自由民主党 - 11議席
スコットランド国民党 - 6議席
保守党 - 1議席
スコットランド議会
1707年の合同法でスコットランド議会は閉鎖され事実上廃止となったが、1998年スコットランド法の制定により1999年に再開された。スコットランド議会は一定範囲で所得税率を変更することができる他、スコットランド法でウェストミンスター議会留保事項と規定されている事柄以外について、独自の法令を成立させることができる。これまでに、福祉政策や狐狩り規制、公共施設内での禁煙などに関して、スコットランド独自の法令が施行されている。ウェストミンスター議会留保事項には、外交、軍事、財政・金融、麻薬取締り、移民の規制など、全国的に取り組む必要がある事柄が規定されている。
2003年のスコットランド議会選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
労働党 - 50議席
スコットランド国民党(SNP) - 27議席
保守党 - 18議席
自由民主党 - 17議席
スコットランド緑の党 - 7議席
スコットランド社会党 - 6議席
その他 - 4議席
エリザベス女王の呼称問題
1952年にエリザベス王女が連合王国の国王に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王」(Queen Elizabeth II)となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王がいなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王」(Queen Elizabeth)となるからである。
そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミックは、新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは1707年連合法違反だとして裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。王がどう名乗るかは国王大権(royal prerogative)に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められないとされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。
なお、イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。
エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王」(King James III)となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王」(King James VIII)となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。
この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世、エドワード7世、エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。
文化
民族衣装として名高いタータンやキルトは、元々はハイランド地方の伝統であった。18世紀半ばに、ジャコバイト反乱後禁止された。その後、1822年にジョージ4世がスコットランド訪問の時にタータン柄のキルトを着用したため、スコットランド全域に広がった。
「経済学の父」アダム・スミス、詩人のキーツ、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。
また、スコッチ・ウイスキーはスコットランドの名産である。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
経済
古くは炭鉱がスコットランドの主要産業であり、産業革命を支えた。
1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーンは石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。
20世紀末からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われている。
長女が1歳半の年末年始、親子3人でイギリスを旅した。僕の行きたかったりのは、「ピーターラビットのふるさと」であるイングランド北部の「湖沼地方」。実際は小説「アーサーランサム全集」の舞台に行きたかったのである。
ロンドンでレンタカーを借り、「湖沼地方」まで500キロをぶっ飛ばした。ヘロヘロ。でも、雪の降りかかった「お菓子の家」の様な「ホテル」はとても魅力的で最高の思い出。そして、車でさらに北上。グラスゴーのホテルに車を置き、インバネスというネス湖観光の最寄り駅まで鉄道で。スコットランドの人は親切だった。しかも、同じポンドなのに、スコットランド銀行発行の紙幣が流通していたのには驚いた。モルトウィスキーの故郷でもある。僕が好きで、新宿ゴールデン街の行きつけのお店に置いて貰っているのが「グレン・モーレンジー」というモルト・ウィスキー。置いて貰って、最初はそれをキープしていたのだが、健康のことを考え、今は焼酎にしている。マスター、ゴメンナサイ。
出版社 / 著者からの内容紹介
アーサー・ランサム全集
アーサー・ランサム 作
アーサー・ランサム 絵
■対象 小学5.6年以上
◆子どもの探検への夢が、大人たちのあたたかい配慮につつまれて、湖や海で着々と実現され、自然の中で遊ぶことの喜びに満ちている、心おどる冒険物語.
◆アーサー・ランサム(1884-1967)は、イギリスの作家・ジャーナリスト.ロシアや中国でも特派記者として活躍.1937年に第1回のカーネギー賞を受賞
さて、「スコットランドが独立!?」というニュースを今日、新聞かテレビで見た。どうなるのだろう?
以下、読売新聞の今日の記事を引用する。
スコットランド独立派が選挙で第1党に、過半数には届かず
【ロンドン=森千春】3日投票が行われた英地方選のうちスコットランド自治議会選で、独立派のスコットランド民族党(SNP)が躍進し、第1党の座についた。
国政レベルの与党・労働党は、全国的な退潮傾向に加えて、最も注目されていた同党の牙城(がじょう)スコットランドで敗北したことで、打撃をこうむった。ブレア首相は今年夏までに退任するが、ブレア後の労働党政権は、スコットランド独立論議という火種を抱え込むことになる。
スコットランド自治議会(定数129)選で、SNPは現有25議席から大幅に勢力を伸ばし、47議席を獲得した。これまで第1党だった労働党は4議席減らし、46議席にとどまった。
アレックス・サモンドSNP党首(52)は4日、選挙結果を受けて、「歴史的な瞬間だ」と勝利宣言した。SNP単独では過半数に達していないため、同党首は5日、自由民主党(16議席)などと連立交渉に入る意向を示した。
SNPは、スコットランドの英国からの独立を主張し、その是非を問う住民投票の2010年実施を公約に掲げた。しかし、自由民主党は、独立に反対しており、住民投票は容認できないとしている。連立交渉は難航が予想され、SNPが独立に向けた動きを一気に加速させることは難しい。
今回のスコットランド自治議会選の結果は、労働党にとって二重の意味でショックだ。
第一に、スコットランドで労働党は1950年代から国政選挙で勝利しつづけ、1999年に発足した自治政府も握ってきただけに、国民のブレア政権離れが同党の地盤にも及んだことを示した。SNPの獲得票すべてが「独立」支持とはいえず、ブレア政権への批判票が吸収されたといえる。
第二に、選挙結果は、ブレア首相の後継が確実視されるブラウン財務相にも痛手を与えた。財務相は出身地も選挙区もスコットランドで、独立派の伸長をくいとめようと、「英国の一体性を再認識しよう」と繰り返し発言してきた。SNPの勝利は、財務相のおひざ元が揺らいでいる印象を与える。
同時に行われたウェールズ自治議会(定数60)選では、労働党が第1党の座を守ったものの、現有26議席から2議席減らした。イングランドの地方自治体では、312議会のうち310議会の開票終了時点で、労働党が492議席減、最大野党・保守党が885議席増となり、労働党の不調が目立っている。
スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランドと国境を接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。本島と別に790以上の島から構成される。首都のエディンバラは同国第二の都市であり、ヨーロッパ最大の金融中心のうちの一つである。最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心であり、スコットランドの人口の40%が集中する。スコットランドの沿岸部は北大西洋及び北海に接し、その海洋油田の石油埋蔵量はヨーロッパ随一となっている。
スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランド、ウェールズ、北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、公的および国際私法において個別の管轄を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の三つの基礎であった。しかしながらスコットランドは独立国家ではなく、国連及び欧州連合の直接の構成国ではない。
地理
グレートブリテン島の北部、およびシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島などの島々からなる。北部地域(ハイランド)は山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形である。グレートブリテン島最大の淡水湖であるネス湖もある。それに対し、南部(ローランド)は、なだらかな丘陵地帯が続き、イングランドの地形に近い。
気候
典型的な西岸海洋性気候で、北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)と偏西風の影響により緯度の割に比較的穏やかである。冬は緯度の割には暖かく、最寒月平均気温は2〜6℃にかけてと、日本では関東中~北部と同じぐらいの寒さに過ぎない。夏は最暖月でも14~19℃程度とすずしく、年較差が小さく過ごし易い。
歴史
1603年、ステュアート朝のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。
1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となる。
1999年、292年ぶりにスコットランド議会が設置される。
政治
1707年の連合法(Act of Union)によって、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であったイングランド王国とスコットランド王国は合邦し、グレートブリテン王国が成立した。この合邦は形式的には対等とされていたが、新国家の議会や王宮など主な機関は旧イングランド王国に座することになり、イングランドによる不公平な併合であったと考えるスコットランド人が少なくない。
スコットランドは伝統的に労働党の支持者が多いが、先述の経緯からスコットランド独立を掲げる民族主義的な政党(スコットランド国民党)も多くの支持を集めている。
ウェストミンスター議会
2005年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2005年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
労働党 - 41議席
自由民主党 - 11議席
スコットランド国民党 - 6議席
保守党 - 1議席
スコットランド議会
1707年の合同法でスコットランド議会は閉鎖され事実上廃止となったが、1998年スコットランド法の制定により1999年に再開された。スコットランド議会は一定範囲で所得税率を変更することができる他、スコットランド法でウェストミンスター議会留保事項と規定されている事柄以外について、独自の法令を成立させることができる。これまでに、福祉政策や狐狩り規制、公共施設内での禁煙などに関して、スコットランド独自の法令が施行されている。ウェストミンスター議会留保事項には、外交、軍事、財政・金融、麻薬取締り、移民の規制など、全国的に取り組む必要がある事柄が規定されている。
2003年のスコットランド議会選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。
労働党 - 50議席
スコットランド国民党(SNP) - 27議席
保守党 - 18議席
自由民主党 - 17議席
スコットランド緑の党 - 7議席
スコットランド社会党 - 6議席
その他 - 4議席
エリザベス女王の呼称問題
1952年にエリザベス王女が連合王国の国王に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王」(Queen Elizabeth II)となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王がいなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王」(Queen Elizabeth)となるからである。
そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミックは、新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは1707年連合法違反だとして裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。王がどう名乗るかは国王大権(royal prerogative)に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められないとされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。
なお、イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。
エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王」(King James III)となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王」(King James VIII)となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。
この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世、エドワード7世、エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。
文化
民族衣装として名高いタータンやキルトは、元々はハイランド地方の伝統であった。18世紀半ばに、ジャコバイト反乱後禁止された。その後、1822年にジョージ4世がスコットランド訪問の時にタータン柄のキルトを着用したため、スコットランド全域に広がった。
「経済学の父」アダム・スミス、詩人のキーツ、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。
また、スコッチ・ウイスキーはスコットランドの名産である。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
経済
古くは炭鉱がスコットランドの主要産業であり、産業革命を支えた。
1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーンは石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。
20世紀末からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われている。
長女が1歳半の年末年始、親子3人でイギリスを旅した。僕の行きたかったりのは、「ピーターラビットのふるさと」であるイングランド北部の「湖沼地方」。実際は小説「アーサーランサム全集」の舞台に行きたかったのである。
ロンドンでレンタカーを借り、「湖沼地方」まで500キロをぶっ飛ばした。ヘロヘロ。でも、雪の降りかかった「お菓子の家」の様な「ホテル」はとても魅力的で最高の思い出。そして、車でさらに北上。グラスゴーのホテルに車を置き、インバネスというネス湖観光の最寄り駅まで鉄道で。スコットランドの人は親切だった。しかも、同じポンドなのに、スコットランド銀行発行の紙幣が流通していたのには驚いた。モルトウィスキーの故郷でもある。僕が好きで、新宿ゴールデン街の行きつけのお店に置いて貰っているのが「グレン・モーレンジー」というモルト・ウィスキー。置いて貰って、最初はそれをキープしていたのだが、健康のことを考え、今は焼酎にしている。マスター、ゴメンナサイ。
アーサー・ランサム全集 全12巻岩波書店このアイテムの詳細を見る |
出版社 / 著者からの内容紹介
アーサー・ランサム全集
アーサー・ランサム 作
アーサー・ランサム 絵
■対象 小学5.6年以上
◆子どもの探検への夢が、大人たちのあたたかい配慮につつまれて、湖や海で着々と実現され、自然の中で遊ぶことの喜びに満ちている、心おどる冒険物語.
◆アーサー・ランサム(1884-1967)は、イギリスの作家・ジャーナリスト.ロシアや中国でも特派記者として活躍.1937年に第1回のカーネギー賞を受賞
さて、「スコットランドが独立!?」というニュースを今日、新聞かテレビで見た。どうなるのだろう?
以下、読売新聞の今日の記事を引用する。
スコットランド独立派が選挙で第1党に、過半数には届かず
【ロンドン=森千春】3日投票が行われた英地方選のうちスコットランド自治議会選で、独立派のスコットランド民族党(SNP)が躍進し、第1党の座についた。
国政レベルの与党・労働党は、全国的な退潮傾向に加えて、最も注目されていた同党の牙城(がじょう)スコットランドで敗北したことで、打撃をこうむった。ブレア首相は今年夏までに退任するが、ブレア後の労働党政権は、スコットランド独立論議という火種を抱え込むことになる。
スコットランド自治議会(定数129)選で、SNPは現有25議席から大幅に勢力を伸ばし、47議席を獲得した。これまで第1党だった労働党は4議席減らし、46議席にとどまった。
アレックス・サモンドSNP党首(52)は4日、選挙結果を受けて、「歴史的な瞬間だ」と勝利宣言した。SNP単独では過半数に達していないため、同党首は5日、自由民主党(16議席)などと連立交渉に入る意向を示した。
SNPは、スコットランドの英国からの独立を主張し、その是非を問う住民投票の2010年実施を公約に掲げた。しかし、自由民主党は、独立に反対しており、住民投票は容認できないとしている。連立交渉は難航が予想され、SNPが独立に向けた動きを一気に加速させることは難しい。
今回のスコットランド自治議会選の結果は、労働党にとって二重の意味でショックだ。
第一に、スコットランドで労働党は1950年代から国政選挙で勝利しつづけ、1999年に発足した自治政府も握ってきただけに、国民のブレア政権離れが同党の地盤にも及んだことを示した。SNPの獲得票すべてが「独立」支持とはいえず、ブレア政権への批判票が吸収されたといえる。
第二に、選挙結果は、ブレア首相の後継が確実視されるブラウン財務相にも痛手を与えた。財務相は出身地も選挙区もスコットランドで、独立派の伸長をくいとめようと、「英国の一体性を再認識しよう」と繰り返し発言してきた。SNPの勝利は、財務相のおひざ元が揺らいでいる印象を与える。
同時に行われたウェールズ自治議会(定数60)選では、労働党が第1党の座を守ったものの、現有26議席から2議席減らした。イングランドの地方自治体では、312議会のうち310議会の開票終了時点で、労働党が492議席減、最大野党・保守党が885議席増となり、労働党の不調が目立っている。
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<ストーリー>
ハルはごくフツーの男性。セクシーな超美人が大好きで、連日連夜ナンパ攻勢をかけるがフラれっ放し! ある日、偶然出会ったセラピストの催眠術でハルの理想のナンパライフに大異変が! 街で超美人ローズマリーに声をかけるとナンパは大成功! 2人はラブラブに! 実は、女性を外見的な美しさでしか判断しないハルを変えようと、セラピストは女性の心の美しさを視覚化する催眠術をかけていたのだ! つまり、ローズマリーは絶世の美人ではなかった! 果たして2人の恋の行方は?
<ポイント>
●「メリーに首ったけ」を超える! ファレリー兄弟ならではのギャグ満載のラブストーリー
<特典>
●ファレリー兄弟による音声解説
●『愛しのローズマリー』の舞台裏
●コメディ・セントラル制作:『愛しのローズマリー』の魅力
●未公開シーン集
●特殊メイクの下から見た世界
●水中撮影
●ミュージック・クリップ:♪ウォール・イン・ユア・ハート byシェルビー・リン
●オリジナル劇場予告編
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父親の影響で超面食いのハルは、自己精神治療師に催眠術をかけられ、彼の目には巨漢の女性が美女に見えるようになる。そんなときに彼はローズマリーに出会ってひとめぼれ。彼の目にはセクシー美女だが、実はローズマリー、体重136キロの巨漢だった!
アブナイギャクがおはこのファレリー映画、今回もご多分に漏れずだが、テーマは「人間は見た目じゃない」。外見も人間性のひとつだと思うが、この映画はそれだけでいいの?と、観客にも疑問を投げかけてくる。主人公は外見ばかりを重視する現代人をデフォルメしたキャラクターなのだ。個性派のジャック・ブラックはハルにドンピシャのハマリ役。そしてグゥイネス・パルトロウが、ハルの目に映るセクシーなローズマリーと真の姿のローズマリーを熱演。ファットスーツで136キロになったグゥイネスは必見だ。(斎藤 香)
やはり「メリーに首ったけ」を観た時の興奮は忘れられない。その監督・ファレリー兄弟が撮った映画観なきゃ!!!!!男女の恋愛の本質を突いたコメディー。是非是非。
メリーに首ったけ [ベストヒット50]20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
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「お下品ギャグがトレードマーク」と豪語するファレリー兄弟が放つ、下ネタ満載のコメディ。キャメロン・ディアス演じるメリーは、ルックスよし、性格よしのパーフェクトな女の子だ。そんな彼女のハートを射止めようと、いい年をした男たちが姑息な争いを繰り広げる。
優柔不断なテッドを演じるのは監督としても知られるベン・スティラー、怪しげな私立探偵ヒーリーはマット・ディロン、足の不自由な建築家(?)はリー・エヴァンスが、それぞれ一癖も二癖もあるキャラクターを名演。その暴走ぷりは、まさに抱腹もの。障害者ジョークあり、動物虐待シーンありと、ファレリー兄弟にお堅い良識など一切通用しないようだ。そんな許容度スレスレの毒気のなかでひと際輝いていたキャメロン・ディアスには、誰だって「首ったけ」になるだろう。(尾崎麻衣子)
内容(「Oricon」データベースより)
主人公メリーを中心に巻き起こる恋の大騒動を描いたドタバタラブコメディ。キャメロン・ディアス、マット・ディロン、ベン・スティラーほか出演。
マザー・テレサ デラックス版ジェネオン エンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
『ロミオとジュリエット』のオリビア・ハッセー主演、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサの生涯に迫る伝記ドラマ。修道院での活動に限界を感じたテレサは新教会を設立し、困難を乗り越え人々の救済に力を尽くす。
僕は20年以上前だが、インドに行った事があり、カルカッタにおられたマザー・テレサの話は知っていた。ただ、どんな人生を送られたのか、最近知りたくなり、まずは映画を観た。オリビア・ハッセーの演技はいつも落ち着いていて、演技をしているというより、そこにマザー・テレサがいる様な「存在感」を感じた。様々な困難が彼女を襲っても、静かに「神の導くがままに」小さな一歩を踏み出していく姿は神々しかった。日本語の吹き替えは池田昌子。『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンや『銀河鉄道999』のメーテルの声と言えば分かるだろう。
マザー・テレサ(Mother Teresa, 本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(Agnesë Gonxhe Bojaxhiu、花のつぼみの意)、1910年8月27日 - 1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。マザーというのは指導的な修道女への敬称であり、テレサというのは修道名である。カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったマザー・テレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
生前からその活動は高く評価され、1973年テンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国の名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年10月19日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。
生涯
カルカッタの修道女
マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュはオスマン帝国領のコソヴォ、ウシュクブ(現代のマケドニア共和国のスコピエ)でアルバニア人の家庭に生まれた。父は実業家で、彼女は三人の子供たちの末っ子であった。両親はマケドニア地方に住むアルバニア人のカトリックであったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ(現コルカタ)へと赴くことになった。ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズからとっている。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。
1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教え、1944年には校長に任命されていた。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行い、簡単には彼女の活動に対する認可を与えなかったが、テレサはあくまで自分に与えられた使命に基づいて行動しようとした。
1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになった。
神の愛の宣教者会の創立
1950年、カルカッタで協力者たちと共に精力的な活動を行っていたテレサはバチカンから修道会設立の許可を得た。これが「神の愛の宣教者会」である。テレサによれば同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされない人のために働く」ことであるとされた。
インド政府の協力でヒンドゥー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピス施設を開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していくが、ケアする相手の状態や宗派を問わないマザー・テレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラであった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。
世界のマザー・テレサ
マザー・テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)や「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年、アメリカ人のマルコルム・マッゲリッジが撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』(Something Beautiful for God)および同名の書籍によってマザー・テレサの活動はアメリカ合衆国のみならず、全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマッゲリッジはマザー・テレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっている。
1971年、パウロ6世は自らが制定した勲章「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者としてマザー・テレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、シュバイツァー国際賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領賞(1985年)、アメリカ上院議会金賞(1994年)、アメリカ合衆国名誉市民権(1996年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けた。こういった賞の中でもっとも有名なものはもちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。マザー・テレサは受賞者のための晩餐会の出席は断ったが、賞金6000ドルはカルカッタの貧しい人々のためにうけとった。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」といったと言う。そのときのインタビューの中で「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたマザー・テレサの答えはシンプルなものであった、「家に帰って家族を大切にしてあげてください」。
1982年にはマザー・テレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。
コルカタの施設で死にかけている子どもたちのため、ローマから医薬品を運んだ際には、乗り換えのインディラ・ガンジー国際空港で多くの空港関係者が搭乗券の手配や荷物の搬送で、果ては国内線のパイロットまでが管制塔の警告を無視して自機を国際線スポットへ移動させ(コルカタの出だった)、協力したという。このような逸話はいくつもあり、マザー自身は「ミラクル」と呼んでいた。
晩年と死
1983年、高齢のマザー・テレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。1991年にはペースメーカーをつけた。この年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。また同じ年、マザー・テレサは健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため、全会員による無記名投票が行われた。結局賛成票を投じたのはマザー・テレサ本人だけで、あとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意した。
1997年4月、マザー・テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていた。1997年9月5日、世界が見守る中、マザー・テレサは87年の生涯を終えた。最後の言葉は「もう息ができないわ」であった。
マザー・テレサが亡くなったとき、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたマザー・テレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われた。インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女だけである。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。
1997年、テレサの死後、すみやかに列福・列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないとはじめることはできない規定なのだが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったため、例外的にすぐに始められたのである。2003年10月19日、教皇ヨハネ・パウロ2世はマザー・テレサを列福し、福者であると宣言した。通常は死後、福者にされるまで50年が必要とされていることを考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さである(列聖には更に時間が―100年とも―かかる 福者は聖人の前段階)。
語録
私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。
女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物―それが母性なのです。
子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。
(以上、北京世界女性会議へ宛てたメッセージ)
愛の反対は憎しみではなく、無関心。
この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。
銃や砲弾が世界を支配してはならない。大切なのは愛である。
苦しみが私達の生活に訪れて来る時、ほほえみをもって受け入れましょう。神が送り給うすべて、求め給うすべてをほほえみながら受け入れる勇気は、神からの最も偉大な賜物といえます。
日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。(1981年4月、初来日の際)
私は受賞に値するような人間ではないけれど、世界の最も貧しい人々に代わってこの賞を受けます(ノーベル平和賞授賞式でのスピーチ)
帰って家族を大切にしてあげて下さい(ノーベル平和賞受賞の際、インタビューで「世界平和のために私達はどんな事をしたらいいですか」と問われて)
人間は行き通した先の「ゴール(死)」を走り抜けた時、その人の「やり遂げた事」「周りの人々に与えた愛情」等が分かると僕は思う。この映画、是非観て欲しい。
名作『ロミオとジュリエット』のオリビア・ハッセーがこんなに素晴らしい女優さんになったかと思うと、時の経つのは早い。
ロミオとジュリエットパラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
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数知れないほど映像化されてきているウィリアム・シェイクスピアの悲劇をフランコ・ゼフィレッリ監督が斬新で若々しいスタイルで描き、恐らくはもっとも世界中に知られた名作として讃えられている『ロミオとジュリエット』。
長年敵対する家同士の若者ロミオ(レナード・ホワイティング)とジュリエット(オリヴィア・ハッセー)は、互いに激しく愛しあいながらも、やがて悲劇的結末へと突き進んでいく。
主演コンビの初々しさはみずみずしい青春映画としての色を強調し、名匠ニーノ・ロータの哀切を誘う楽曲の数々は愛の悲劇を強調する。アカデミー賞撮影、衣裳デザイン賞受賞も納得の、優れたスタッフ・ワークにもご注目を。できれば思春期のうちに、一度は接しておきたい映画である。(的田也寸志)
NEWSMAN 1 (1)集英社このアイテムの詳細を見る |
新聞社やテレビ局で「みんな目を向けたがらないところ」にちゃんと、この漫画は突っ込んで描いている。「原作」が「矢島正雄」・・・弘兼憲史の「人間交差点」の「原作者」でもあり、テレビドラマの脚本家でもある。読んでかなりスッキリした。僕自身がテレビの仕事をしていながら、業界では誰でも知っている事でもこのブログに書けない事、その一端をこの漫画はえぐって描いている。
専務島耕作 1 (1)講談社このアイテムの詳細を見る |
「島耕作」と共に、人生を過ごしてきた様に、このシリーズは全て読破している。今回のコミックス、最後には涙ぐみそうになった。サラリーマン人生がこんなに都合よくいくとは思えないが、大企業の経営陣の重責は大変だと思う。実力の無い人間同士が「足の引っ張り合い」をしているのは悲喜劇・・・喜劇としか見えない。某会社でもある事だが・・・。