フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

客観的事実と主観的な解釈

2010年01月25日 19時58分36秒 | 社会・政治・思想哲学

 今日、ラジオで阿川佐和子さんが、小沢一郎議員の一連のマスコミ報道について軽くキレていた。どういうことかというと、検察のリークによって新聞などの記事が書かれ、それについて情報操作されているとしたら、一体何を信じればいいのかということである。気持ちはよく分かるが、彼女の思っている「客観的事実が存在する」という前提が本当に正しいのか検討しなければならないだろう。
 ニーチェは「道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、ただ道徳的解釈のみが存在する」といった。難しい言い回しだが、簡単にいうと、客観的事実など存在しない。ただ、さまざまな解釈だけが存在するということである。付け加えれば、ニーチェは、強い者の解釈と弱いものの解釈があり、結局、強い者の解釈が正しいとされるという。

 黒澤明の「羅生門」を見た人は分かると思うが、同じ出来事でもそれに関わる人に話を聞いてみると、全然違う内容になる。出来事について、人の数だけの解釈がある。

 物事は、視覚という光の信号が脳に作用し、脳の中で作られた出来事だと言う人もいる(観念論者)。突き詰めていくと厄介な哲学的な話になるからここでやめるが、客観的事実が本当にあるのかは、議論のあるところである。

 4億円をめぐる事実が一つだとして、小沢一郎側の解釈が正しいのか、検察側の解釈が正しいのか、それともマスコミの解釈が正しいのかは、誰が一番、綱を引っ張る力が強いかによる。

 美(芸術)はただ感じるもので、人に強制はできない。しかし、正しさ(道徳)は暴力(権力)と利害に密接に結びついている。そこを意識していないと、阿川さんのように混乱してしまうだろう。

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