ホリエモンが服装原理主義という内容のブログを書いていた。例の国母選手のことについてだなとピンときたが、読んでみると私の思っていた内容と反対のことを書いていた。というのも、私はてっきり国母選手が服装原理主義だと思っていたのだが、ホリエモンは世間の人たちが服装原理主義だと主張していたのである。
服装原理主義とは面白い言葉を発明したものだが、私はこのように考えた。すなわち、「様々な価値の中で、服装(ファッション)というものを、自分の中で重要な価値として捉えていて、人とトラブルになっても自分のファッションを優先するような人々」であると。私は国母選手こそが、自分のやりたいファッションが重要であって、それを貫くためにはオリンピックという場であっても自分のファッションを優先する服装原理主義だと思ったわけだ。
しかし、ホリエモンは私が考えたこととは違って、「セレモニーにおける正装を乱すような服装をする者は許さないとする人々」を服装原理主義と考えたようだ。なるほど、彼は球団買収の際、Tシャツで現れ批判を浴びていた。そのように考えることも納得がいく。
通常、原理主義とは、自分の主義主張についての原理原則を忠実に守り、例外を全く認めない堅苦しい人々のことをいう。この例外を認めないというガチガチのものの考え方が人々と衝突することになる。
服装は単なるファッションではなく、自分のポジション(地位)を表したり、人間の気持ちを形式的に表したり、一定の思想を表現している場合もある。単なるおしゃれといえない。だからこそ、人々がその場にそぐわない服装に怒り出すのだ。例えば、高級なスーツは自分が高い地位にいて権力者であることを表しているし、喪服は死者に対する追悼の意を形式的に表している。また、黒人などのあのだぼだぼな服装は、権威に対する反抗という思想を表しているのかもしれない。葬式にだぼだぼの服でパンツを腰まで下げて出席すれば、それは暗に「死者に追悼の意を表さない」というメッセージが含まれている。口から発せられたり紙に書かれたりする現実の言葉とは異なるが、ある種の服装が表象するメッセージに人々は反応するのである。