昨日、中沢新一氏の「精霊の王」を読み終わった。興味深い本だったが、一回読んだだけ分かったというような類の本ではなかった。何回も読まなければならないような内容である。
本書でいう精霊の王とは、日本に国家が現れる前に存在した最古の神、精霊シャグジである。
このシャグジは国家が形成され国家権力が確立してくる西日本では姿を消し、縄文的文化を色濃く残した東日本と西日本の国家からはじかれた被差別や定住せず移動しながら芸能を洗練させていった芸能の徒に「宿神」として生き続けていった。
室町初期の能楽師・金春禅竹が残した「明宿集」という書物が昭和39年に発見された。この書物は猿楽で最も重要な精神的価値をもつ「翁」の本質が明らかにしようとした、一種の内部文書である。
この翁として表現されたものが宿神であり、自然界の神つまり精霊の王だというのである。
そもそも、天皇制もこのシャグジを王権内部に取り込むことによって権力を確立していったといえる。例えば、スサノオがヤマタノオロチを倒すことによってその胎内から王権の象徴でもある剣(シャグジ)を取り出し、土地神の娘と結婚して、地上の王権の基礎を作り上げたとの神話などは、その一例でもある。
天皇制という王権の特徴は、王権が作り出される過程の本質を宗教的神話を取り込むことによって、国家を発生させたということにある。
本書には取り上げられていないが、神楽の巫女舞は一種のシャーマニズムであり、精霊を巫女の身体に憑依させる儀式である。この神楽と深いかかわりにある猿楽・雅楽などの芸術はその精霊が重要な役割を果たしており関係が深い。
ちょっと、話はずれるが、ある組織(宗教団体だけでなく会社とかも)が急激に拡大していくには、ある種のシャーマニズム的なものが組織内部に組み込まれていると推測している。
それがどのようなもの分からないが、人々が熱狂的ともいえる状態(トランス状態ともいえる)で活動しなければ、組織は大きく拡大していかないからである。
その意味で、シャーマニズムから派生した芸能活動は人々を熱狂させ扇動していく側面がその活動の本質的な部分になるのだろう。
いまテレビでやっている海老蔵の会見を見ていて、いろんなことを考えてしまう。芸能は、非日常と日常の間を行き来し、それを橋渡しする役割がある。
闇社会と日常の社会の橋渡しもそうかもしれない。また、力のある芸能人ほど、人々に与える影響が強く、シャーマニズム的な魔術をもっている。
本人が自覚するかしないかは問わずに。