山の中でテントを張って寝ていたとき、近くで話し声が聞こえたことがある。外に出て周りを見渡したが誰もいない。
この場合、幽霊がいるのかいないのかといった霊的な問題にすることもできるし、疲れたときに幻聴を聞くのか聞かないのかといった体の問題にすることもできる。本当のことは分からない。
人間は分からないものに出会ったときに、それを何とか理由付けしようとする。その理由付けの仕方はその人それぞれである。オカルト的な方向に話が進んでいく人もいるし、科学的なことで説明しようとする人もいる。ただ、わからないものは分からないものとして、保留しておくこともひとつのやり方である。
最高の知性は物事をすべて説明できるといったことではない。分かることと分からないことの境界線を知っていることである。ある分野で世界一の科学者は、知らない世界の向こう側にトンネルを掘っている人であり、知らない世界の最先端を行く人である。そして、知らないことを無理やり説明せず保留できる人でもある。
知らないくせに、知ったように説明する人は要注意である。人間が死後の世界を説明できるはずはない。カルト宗教は、知らない世界を知ったように説明する。先祖のたたりとか。
墓参りをしないとろくなことが起こらないという人がいる。確かにそういうこともあるだろうと思う。ただ、それは先祖のたたりといった曖昧なことが理由ではなく、先祖に感謝しないような自分勝手な考え方のせいだと私は考えている。だから、たたりが怖くて(自分の利益のために)墓参りをする人より、行かなくてもちゃんと人に感謝できる人の方が幸せになると思う。
オウムに入った人たちが、学歴の高い人たちだったのは偶然ではない。知性的であればあるほど知らない世界にぶつかるからだ。そこで、安易でチンケな物語に飛びついてしまったことが問題だったのである。
知らないことに遭遇したとき、どう振る舞うかが問題だ。分からないものを分からないものとして保留できるかどうか。