YouTubeの映画配信サービスで「グラン・トリノ」を観た。傑作とのうわさどおり素晴らしい映画だった。ラストシーンで泣いた。男泣きで、まったく恥ずかしくない涙だ。
逆に、あれで泣けない男は信用出来ない。
「グラン・トリノ」はフォードの自動車である。映画では、アメリカの魂というか男の魂を象徴している。
その魂がアメリカ人からアジア人に受け継がれる。熱い魂は人種の壁を超えるのである。
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クリント・イーストウッドは監督であると同時に主人公のウォルト役でもある。
ウォルトはポーランド系アメリカ人(それ故カソリックである。カソリックはアメリカでは差別される)で朝鮮戦争の帰還兵である。
それからデトロイトに住み、フォードの自動車工になり、定年まで勤めあげる。二人の息子とその孫がいる。しかし、二人の息子とその孫とはうまくいっていない。
映画は長く連れ添った妻の葬儀から始まる。
彼はアジア人が大嫌いである。朝鮮戦争で戦ったからだ。その戦争でアジア人を何人も殺している。
しかし、彼は心のなかで人を殺してしまった自分自身を許せずに生きている。たとえそうせざるをえなかったとしてもだ。
アメリカにはgrass root rightsという言葉がある。訳すなら「草の根右翼」だ。
いろんな意味合いがあると思うが、私の解釈だとこうである。
暴力を私的に行使することを否定しない考え方である。つまり、自分の仲間を守るためには、国家権力に任せるのではなく、自分の力(暴力)で守るという考え方である。
なぜそのような行動に向かうのか。それは自分の家族・仲間への深い愛情ゆえである。私が愛する者を本当に守れるのは、国家ではなく、愛する私自身だという考え方なのである。
彼は、アジア人を嫌いながらも、近所のフン族(アジア人)との触れ合いによって、少しづつ彼らに心を開いていく。そして、隣の娘とその弟に家族同様の愛情を注ぐことになる。
映画はそこでアットホームで温かな雰囲気に包まれる。
しかし、そう簡単に話は終わらない。近所のギャングたちが、まじめに働こうとする少年に暴行を加え、娘はレイプされる。
そして、ウォルトはギャングと対決するため一人でアジトに乗り込み、衝撃のラストシーンへと向かう。
ダーティーハリーや許されざる者からグラン・トリノへ続く一連のクリント・イーストウッドの作品に通ずるテーマは、暴力である。
平和主義的な考えをする人は「暴力はいけない」という。私もその意見に同意する。暴力は悪い。しかし、例外はある。じゃあ、その例外は良い暴力なのか。
そもその悪い暴力と良い暴力にどのような線引ができるのだろうか。善悪は立場や視点が違えばその結論は真逆になる。だから、その問いにかんたんに答えることはできない。
しかし、私自身、男として愛する人を守るために暴力を行使することにためらいはない。命を捨てられるかどうかは微妙だが、その覚悟があったらかっこいいなぁと思っている。まさしく男の死に場所としてふさわしい場所ではないか。
しかし、クリント・イーストウッドは最後の最後で暴力は使わなかった。自己を犠牲にしたキリストのように振舞った。その自己犠牲の精神に涙が止まらなくなってしまうのだ。
キリスト教はきらいだが、キリストには感動する。そういうことだ。
何年も前の映画だが、もし観ていないのならおすすめする。特に男に。