フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

芸と地位

2013年05月29日 08時58分54秒 | 日々の出来事・雑記

 朝、テレビをつけたら、サンミュージックの相澤会長が亡くなったとのニュースが流れていた。それも結構長く。こんなどうでもいいニュースを何分やってるんだろう。
 しかし、その気になればなんでも考える材料になる。
 例えば、サンミュージックにはいろんな芸能人がいる。その中で、消えてしまう人もいれば、松田聖子のようにしぶとく生き残る芸能人がいる。それってなんだろう。才能か。
 そのことをちょっと文章にしてみよう。
 
ニュースの中で松田聖子が「逢いたい」という歌を歌っているシーンがあった。うまいなぁと思った。デビュー当時と比べて確実にレベルが上がっている。


 一方、酒井法子もテレビに出ていた。確かに綺麗でいい女だ。しかし、彼女程度の綺麗さは芸能界では普通だろう。綺麗さも人の心を動かす。しかし悲しいかな時間が経てば美しさは消耗する。
 
 
 松田聖子と酒井法子の本質的な違いは何なのだろうか。
 そこで芸が好きか地位が好きかの違いなのではないかと仮説を立ててみる。
 地位は、他人からの評価である。他人の評価が地位をつくる。だから、他人がどう思うかが重要である。
 一方、芸は本質的には個人の内面の問題である。自分の中にあるモヤモヤとしたものを掴まえ、それを表現したいという欲求である。表現は内的エネルギーと関係している。エネルギーが強ければ強いほど外に出るものは強烈になる。その表現が人の心を動かせば金も動くから、完全に個人的なものではないかもしれない。しかし、それは結果論である。
 もちろん、その両者が交じり合っているのだと思う。純粋に芸だけ追求している人は少ないし、金と地位だけ欲しくて芸能人になりたい人は成功しない。だから、究極的にどちらかを選べと言われたらどうするかの問題である。
 有名になれば金も地位もついてくる。しかし、それに溺れてしまう人はそこから成長することはない。自分自身を表現し人の心を動かしたいと考える人は、大金を手に入れ芸能界での地位が高くなっても、それに満足することはない。
 この違いは、時間が経つにつれて決定的なものになるだろう。

 また、酒井法子つながりで、押尾学について考えてみる。
 例えば、彼がもう一度芸能界での地位を望んでも、満足するような地位は得られないだろう。覚せい剤だけではなく、セックススキャンダルで人が死んでいるからである。人々はそれを忘れない。
 しかし、表現者、芸術家の道を真摯に目指したらどうなるか。
 私は、人々に評価されないかもしれないが、もしかしたら芸術家として大成する可能性を秘めているのではないかと思っている。
 それは彼の悪さ故である。
 別に優れた芸術家になるために犯罪者になる必要はない。しかし、自分の中にあるドロドロとした醜悪な部分に向き合わなくては、優れた表現はできない。優れた表現には必ず人間臭い部分がある。人間臭さとは醜悪な部分である。
 自分の内面と真摯に向き合い、そのモヤモヤとした部分に光をあて、それを表現し、それに共感する者が一人でもいれば、芸術家としては成功だといえるのではないだろうか。
 そのように自分を鍛錬していけば、死ぬまで終わりはない。 

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