今日、NHKのプロフェッショナルの流儀で、井上雄彦が出ていた。
彼の絵はマンガというより、芸術に近い。見ているだけで涙が出そうになる。番組の最後で又八の母、オババの絵が出てきた。
武蔵が息子の又八をたぶらかし村から連れ出したと思い込み、武蔵を憎んでいるオババは作品の中で最も嫌な感じの人物として描かれている。しかし、死んでいく夢の中で又八と村に帰っていくシーンでのオババの顔はとても幸せそうだった。その顔は、穏やかで仏のようだった。
井上氏は番組の中で「物語には興味がない。キャラクターをしっかり作りこめば、その人物がどのように行動するかは必然的に決まってくる」との趣旨の発言をしていた。
なるほど。
この発言は、人間の自由意志を否定し、運命に導かれ必然的に行動することを信じているかのようだ。
歎異抄13条の中に「なぜ人間がそのような行動をするのか」について深い洞察がある。歎異抄は親鸞の弟子の唯円によって書かれたものだ。ちょっと引用する。
「唯円房よ、おまえは私のいうことを信じるのか」とおっしゃいましたので、「もちろんでございます」とお答え申し上げたところが、「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかないか」と重ねて仰せられたので、つつしんでご承知いたしましたところ、「じゃ、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらお前は必ず往生することができる」とおっしゃったのであります。
そのとき私が、「聖人の仰せですが、私のような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」とお答えしたところ、「それではどうして先に親鸞のいうことにそむかないといったのか」とおっしゃいました。
そして、「これでおまえは分かるはずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私がいったら、おまえは直ちに千人殺すことことができるはずである。
しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、お前の中に、殺すべき業縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるだろう」とおっしゃいましたのは、われわれの心が、よいのをよいと思って、悪いのを悪いと思って、善悪の判断にとらわれて、本願の不思議さに助けたまわるということを知らないことを仰せられたのであります。
なかなか過激な発言であるが、親鸞がすごした時代は源氏・平家の争いの中で日本史においてもまれに見る殺し合いが行われていた時代だということも考慮にいれる必要がある。
人なんて殺したくないと思っていても、戦にかりだされたりすれば自分の意志とは関係なく千人殺してしまうこともある。また殺そうと思っても業縁がなければ一人も殺すことができない。この業縁とは、人間の自由意志の力を否定し、不可避的に行動してしまう必然の力をいっているのだと思う。それを先祖代々受け継いだ血筋を理由にあげる人もいるだろう。それは分からない。
人の行動を見ていると、こうすればいいのにと思うことがある。しかし、どのような助言をしても根本的なところでは同じような行動をしてしまう。そして、そのような行動の積み重ねを個性と呼ぶのだろう。
また、強い意志を有していても社会の情勢など自分の意志とは何の関係のない事柄で、自分の意志と別のことをやってしまう(やらされてしまう)こともある。そのように考えると、たしかに、選択的に自分の意志で行動しているのかわからなくなってくる。
人生は基本的に偶然の出来事の積み重ねなのだが、それについて必然性を感じるその感覚は一体何なのかは、考えるに値する問題である。
あった瞬間にこの人だと思い、赤い糸で繋がっていたなどと感じる人もいる。
運命とは偶然的な出来事を必然的に感じることと定義すれば、自分の知らないところで、必然的に物事を決定しているのは、何なのか、誰なのかということになる。
武蔵と小次郎が戦うのは必然だったのだろう。
それ以外の道はなかったに違いない。