ドラマ「仁」の再放送をすこし見ていたら、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が出てきた。
ぱっと聞くと、なかなかいい言葉だなぁと思うが、よく考えてみると、どういう意味なんだろうか。
だって、乗り越えられない試練っていっぱいあるから。
聖書の一節。コリントの信徒への手紙 10章・偶像への礼拝に対する警告 13節
12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
14 私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像崇拝を避けなさい。
すこし分かりづらい。多分、こういう事だろうと思う。
もし神が乗り越えられない試練を人間に与えたら、人間は自分で解決しようとせず、何か超越的なものにすがってしまい、その象徴である偶像を崇拝してしまうだろう。だから、神様はそういう厳しい試練は与えないのだ、という意味だ。
そうすると、ドラマで使っている言葉は、ちょっと違う使い方になる。
つまり、ドラマでの使い方は、今この瞬間に厳しい試練が立ちはだかっている。その危機的状況の中で、勇気を振り絞るために、「神は乗り越えられない試練は与えない」のだといい、自身を鼓舞するのだ。
確かにそういう気持ちはよくわかる。
しかし、乗り越えられないことなんかたくさんある。特に勝負事なんて、勝つ人がいれば負ける人もいるのだから、両者が試練を乗り越えるのは不可能である。
ただ、もう一歩深く考えてみよう。さっきの例でいえば、勝負事をして勝ったほうは無事に試練を乗り越えたといえるだろう。では負けたほうはどうか。負けたら精神的にきついこともあるだろうし、いろいろ大変なことが起きてくるかもしれない。それ自体がまた別の試練である。
たしかに、勝負という試練は乗り越えられなかったが、その負けてしまった後の厳しい状況を乗り越えれば、それは乗り越えられる試練だったのではないだろうか。
そのように考えれば、どんな状況だって乗り越えられることができる。
まさしく、「神は乗り越えられない試練は与えない」のである。一回くらいの失敗で、くよくよするな、それくらい乗り越えられることができるよ、という意味なら、個人的に納得がいく。
ドラマを見ながら、あれこれくだらないことを考えていた。