仏教には聖道門と浄土門の違いがありますが、仏教の根本である慈悲についても、聖道門と浄土門には違いがあります。
聖道門の慈悲といいますのは、われわれが他の生きとし生けるものをかわいがり、その生けるものをいとおしく思い、それを育てようとする慈悲であります。
しかし、われら無力な人間の世界にありましては、われらの思うがままに、徹頭徹尾他の生けるものをたすけることはきわめて困難なことであります。
逆に浄土門の慈悲といいますのは、念仏をして早く仏さまになって、仏の持っている大きな愛の心、大いなるあわれみの心でもって、思うように生きとし生けるものを救いとり、生きとし生けるものに利益を与えることをいうのでありましょう。
この世の中でわれらがどんなに他の生けるものをいとおしい、かわいそうだと思ってもわれわれの思いどおり、いとおしいものを救うことができませんので、そういう慈悲は結局首尾一貫しない慈悲であります。
だから、この世のことは業にまかせて、ひたすら念仏するのが、首尾一貫した大きな慈悲でありましょう。 (梅原猛訳)
「歎異抄」は親鸞の弟子の唯円が親鸞の言葉をまとめたものである。
3条の悪人正機説が有名である。
「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのは当然ではないか
非常に奥が深い。
親鸞は鎌倉幕府ができる前に生まれた。
時は戦乱の世であった。
そこらじゅうで殺戮がおこなわれ、死体がごろごろしていた。
その中で人を救うことはできない親鸞は自分の無力を嘆いたに違いない。
だから、大きな慈悲の心をもって、ひたすら念仏することを選んだのだと思う。
私も人を助けたいとおもうが、自分の無力さゆえ何もできないときがある。
その時、この4条を思い出す。
ただ、祈る。
それしかできないから。