岩手県議が自身のブログで病院に対する批判をして炎上したようだ。その内容の一部を引用する。
「ここは刑務所か!。名前で呼べよ。なんだ241番とは!と受付嬢に食って掛かりました。会計をすっぽかして帰ったものの、まだ腹の虫が収まりません」
「本日は有難うございました。と、カウンターの外に出て、長椅子に座ってる患者の方に来るべきだろうが---。デパートでもどこでも、1万円以上のお買い物客に、精算書を取りにこっちへ来い。と顎でしゃくって呼び寄せますか?」
私もブログをやっている。私は公的な立場にもないし有名ブロガーでもないので炎上したことはない。しかし、その可能性は常にある。だから、人ごとではなくここから何を学ぶべきか考えておいたほうがよさそうである。
ある事件や出来事について批判することがある。その批判が的を得ていたら、炎上することはない。しかし、批判を超えてしまうと炎上してしまうことがある。では、この「批判を超えて」とはどういうことなのだろうか。
それは、立場をひっくり返してみて、自分がそのことを言われて納得するかどうかで判断するというのが1つの方法だと思う。それで、こんな事を言われたら自分でもむかつくだろうなぁと思ったら、公共の場で発表するのはやめたほうがいい。
今回の例でいえば、自分が病院事務をしていて番号で呼ぶように指示されていたとする。それで患者に突然このような態度に出られたらどう感じるだろうか。この県議のことだから、ムカッとくるに違いない。
私たちは自分が激しく怒ったことだから他人も共感するに違いないと思いがちである。特に愚痴なんかはそうである。愚痴を聞かされる方は、別に共感しているわけではない。その人の溜まったことを気のすむだけ言わせ、それで精神を安定させようとしているのである。つまり、優しさ故である。
ネット上では、皆が私の友人でもないし支持者でもない。だから、愚痴を聞いてくれない。
ネットである出来事について批判をするつもりなら、本当に相手のことを思って、その相手を良くしてあげようという優しさで批判をするべきである。そうすれば、簡単には炎上しないのではないかと思っている。
YouTubeの映画配信サービスで「グラン・トリノ」を観た。傑作とのうわさどおり素晴らしい映画だった。ラストシーンで泣いた。男泣きで、まったく恥ずかしくない涙だ。
逆に、あれで泣けない男は信用出来ない。
「グラン・トリノ」はフォードの自動車である。映画では、アメリカの魂というか男の魂を象徴している。
その魂がアメリカ人からアジア人に受け継がれる。熱い魂は人種の壁を超えるのである。
映画を観てなくて、あらすじを知りたい人は、「一分で分るネタバレ」というサイトへ
クリント・イーストウッドは監督であると同時に主人公のウォルト役でもある。
ウォルトはポーランド系アメリカ人(それ故カソリックである。カソリックはアメリカでは差別される)で朝鮮戦争の帰還兵である。
それからデトロイトに住み、フォードの自動車工になり、定年まで勤めあげる。二人の息子とその孫がいる。しかし、二人の息子とその孫とはうまくいっていない。
映画は長く連れ添った妻の葬儀から始まる。
彼はアジア人が大嫌いである。朝鮮戦争で戦ったからだ。その戦争でアジア人を何人も殺している。
しかし、彼は心のなかで人を殺してしまった自分自身を許せずに生きている。たとえそうせざるをえなかったとしてもだ。
アメリカにはgrass root rightsという言葉がある。訳すなら「草の根右翼」だ。
いろんな意味合いがあると思うが、私の解釈だとこうである。
暴力を私的に行使することを否定しない考え方である。つまり、自分の仲間を守るためには、国家権力に任せるのではなく、自分の力(暴力)で守るという考え方である。
なぜそのような行動に向かうのか。それは自分の家族・仲間への深い愛情ゆえである。私が愛する者を本当に守れるのは、国家ではなく、愛する私自身だという考え方なのである。
彼は、アジア人を嫌いながらも、近所のフン族(アジア人)との触れ合いによって、少しづつ彼らに心を開いていく。そして、隣の娘とその弟に家族同様の愛情を注ぐことになる。
映画はそこでアットホームで温かな雰囲気に包まれる。
しかし、そう簡単に話は終わらない。近所のギャングたちが、まじめに働こうとする少年に暴行を加え、娘はレイプされる。
そして、ウォルトはギャングと対決するため一人でアジトに乗り込み、衝撃のラストシーンへと向かう。
ダーティーハリーや許されざる者からグラン・トリノへ続く一連のクリント・イーストウッドの作品に通ずるテーマは、暴力である。
平和主義的な考えをする人は「暴力はいけない」という。私もその意見に同意する。暴力は悪い。しかし、例外はある。じゃあ、その例外は良い暴力なのか。
そもその悪い暴力と良い暴力にどのような線引ができるのだろうか。善悪は立場や視点が違えばその結論は真逆になる。だから、その問いにかんたんに答えることはできない。
しかし、私自身、男として愛する人を守るために暴力を行使することにためらいはない。命を捨てられるかどうかは微妙だが、その覚悟があったらかっこいいなぁと思っている。まさしく男の死に場所としてふさわしい場所ではないか。
しかし、クリント・イーストウッドは最後の最後で暴力は使わなかった。自己を犠牲にしたキリストのように振舞った。その自己犠牲の精神に涙が止まらなくなってしまうのだ。
キリスト教はきらいだが、キリストには感動する。そういうことだ。
何年も前の映画だが、もし観ていないのならおすすめする。特に男に。
ニュースを見ていたら、家にこっそり忍びこんで、妻の横で寝ている夫を殺すという事件があった。被疑者は若くてイケメンの男だ。なぜこんなアホなことをやったのだろうか。
被害者の妻と野村という被疑者は同じバイト先で働いていたという。だから、二人に何らかの関係があった可能性もある。本当のことはわからない。ただ、ニュースの報道によれば、被疑者が付き合ってくださいと交際を申し込んで、それを断られたあとに、ストーカー行為が始まったようだ。
私もある程度歳をとってきたので、女性についてはいろんな経験がある。もちろん失敗も。そのうえで、アドバイスするなら、女性は告白するのではなく、口説かなくてはならない。
告白は、自分の気持ちを一方的に伝える行為である。それに対し、口説く行為はコミュニケーションであり、言葉のキャッチボールをしながら気持ちを近づけ親密になっていく行為である。だから、根気とテクニックが必要である。
若い男は、性欲が強すぎて早くやりたいから、口説いている手間が面倒くさい。それが問題なのである。
この事件のニュースをきいて、グレートギャッツビーを思い出した。本当に夫から奪い取るつもりなら、ギャッツビーくらい努力をすれば、人を感動させられるのにと思う。
このような事件を防ぐためには、自分を客観視する訓練が必要である。思い込みが激しく熱くなっている自分を、別な場所から笑い飛ばす精神である。それがあれば人を殺すところまで発展しない。
しかし、男女関係は、付き合い始めより、関係性をうまく維持していくほうが難しい。恋愛くらいで犯罪をおかすのは馬鹿馬鹿しいと思うが、度を超し狂ったような恋愛をしてしまうのが人間なのだろう。
梅雨入りしたが、ほとんど雨が降らない。晴れたほうが気持ちがいいから、嬉しいといえば嬉しい。しかし、水という観点からは、なかなか厳しい状況になりそうだ。利根川水系の8ダム平均貯水率が67%になっている。
去年、アメリカは史上最悪の干ばつに見舞われた。それゆえ、大豆・トウモロコシの値段が高騰した。この干ばつが一時的なものなのか温暖化の影響なのか分からない。ただ、長く続くとすれば大変な時代がやってきそうである。
世界の人口はまだまだ増加している。その状態でこの干ばつが続くとすれば、確実に食料不足が起こる。したがって、私たちが今のような飽食を続けることは不可能になるだろう。
ただ、日本はまだマシだ。石油・鉱山資源はないけれど水資源が豊富だからである。水があればなんとか農作物ができる。しかし、水がなければアウトである。
このブログを書いている今、テレビでいつものように年金不安を煽っている。しかし、それどころではない。年金で20万円貰えても、キャベツ一個が1000円なら、何の意味もない。
将来はいつの時代だって不安定なものである。だから、何がどうなっても不安を解消することはできない。できることは、自分の体力を維持し、様々な問題に対処していく能力を磨くことだ。