先日の朝日新聞にこんな記事がありました。
「傍芽更新」という書き方ははじめて見ましたが、検索するといくつか出てきます。わざとなんでしょうね? 僕らはふつう「萌芽更新」を使いますが…。文語的な表現なのかな?
→分室の近所の雑木林を語るブログでは「いいですね~」とだけしましたが、実際どうなんだろう? 企業が地域の里山保全をするのはべつに悪いことではないのですが、気になるのは記事の中身というか、そこに醸し出されている空気というか、ステレオタイプな思考がどうなんだろう?とちょっとだけ思うのです。
記事では「燃料などに使われなくなって数十年がたち、竹やササがはびこって荒廃している雑木林」を「傍芽更新」「竹の伐採」などで「多様な生きものが暮らす豊かな里山」に再生するそうです。
正しいと言えばまったく正しくて、否定する人は誰もいないと思うのですが、なんだかそういうイメージって、すでに「脳内里山」で、そうすることの意義や維持することの意味がどれぐらい考えられているんだろう?と思うのです。
7年で再生して、その後どうするつもりなんだろう? この数十年の「荒廃」は、そんなにひどいことなんだろうか? その竹林の奧にタヌキの巣穴があったりするんじゃないだろうか? ウグイスだって、人が入らなくなったアズマネザサの奧でホクホクと繁殖してるんじゃないだろうか?
里山に限らず、森…だけでもなく、すべての自然の現状は、今の僕らのその自然に対する関係性の鏡のようなもので、いいとか悪いとか、生物が多様であるとかないとか、そういうことで判断するものでもないと思うのです。そんな価値観はどんどん変わっているしね。
たしかに竹林が広がったり、アズマネザサ地獄になるのは、どうかと思うことはあるけれど、別に「悪」じゃないですよね。数十年をかけて、その場所なりの生態系ができあがっているのも事実だし。
すでに断片化された雑木林は、萌芽更新もやがて限界が来て、鳥散布系の樹木だけになり、最終的に荒れ地と変わっていくことも充分あり得る未来なので、べつにほっとけとは言いません。でも、だれも「照葉樹林に戻そう」とも言わないですよね?
いろんな選択肢を考えた上で、いわゆる「里山管理」をする選択もあると思うのですが、ただ「アズマネザサで荒廃」→「刈る」→「多様な生物」っていうステレオタイプな雑木林のあり方が、今後も社会の中で位置づけられ、維持されていくとはとても思えないのです。
それはブームだった市民による里山管理の現状を広く見れば、残念ながらたいした影響がなかったのは明確なので。
薪・炭が木質バイオマスという名で置き換えられ、原発問題も含めたエネルギー政策のなかでどう動くかによっても、この里山の環境は大きく変わる可能性があります。逆にそのレベルでなければ、里山管理は、一部の都市近郊のおやじたちの趣味でしかない…というと言い過ぎですが、まぁ、そんなもんですよね。それが悪いと言うことではなく、その人たちにとってのは豊かなことですが、世代が変わったら誰もやらなくて、また雑木林は放置ですね…。
うーん、これぐらいにしておこうっと。。。