一九九〇年頃のトップアイドルといえば、やはり宮沢りえさんを挙げないわけにはいかないだろう。とくにファンというわけでもなかったけど、テレビや雑誌で彼女の姿を見るときれいだなと思ったものだった。
一九九一年秋、彼女の写真集『Santa Fe』が出版された。ヘアヌードのはしりの写真集だ。人気絶頂のアイドルのヘアが写っているということで話題沸騰。社会現象までになった。今はヘアヌードなんて当たり前だけど、当時は驚くべきことだった。出版部数は一五〇万部。芸能人写真集では今でも総出版部数第一位なのだとか。
当時学生だった僕は、友人が買ったのをすこし見せてもらったのだけど、ため息が出るくらいきれいだった。
ワイドショーでは、「宮沢りえさんは日本人と白人との混血なので、歳をとったら太ってしまう。だから今撮影した」などとリポーターが言っていた。この身体がいつかほんとうにぶくぶくに太ってしまうのだろうかと思うと不思議な心持ちになった。そんなことがあっていいのだろうか。
眺めているうちに僕もこの写真集が欲しくなった。いやらしいなどと言ってはいけない。『Santa Fe』はれっきとした芸術写真集だ。男はみんな芸術を愛するものなのだ。僕が手元に置いておきたいと思ったのは、芸術を愛するがゆえであって、ほかの意図はない。信じてくれないかもしれないけど、ないと言ったらないのだ。ほかの使い道などありえない。
買いたいなと思ってはみたものの、この写真集は一冊四千五百円もした。当時、アイドルの写真集はたしか二千円前後のものが多かったと思う。通常の倍くらいの値段だ。とても手が出ない。
悶々と過ごしているうちに耳寄りな話を仕入れた。
なんでも大学の図書館の研究書庫に『Santa Fe』があるという。大学の図書館には一般書庫と研究書庫があって、一般書庫は学部生も自由に本を借りることができるけど、研究書庫は大学院生しか借りることができない。学部生は閲覧のみ可能だった。
借りられないのは残念だけど、見るだけでもと思って図書館の地下にある研究書庫へ行くことにした。
階段を下りてからバッグをロッカーに預け、受付で登記。研究書庫へ入る理由を書く欄があったので、ロシア文学関係の研究書を閲覧するとかなんとか適当に書いた。僕の心にやましいところはひとつもない。だけど、誤解する人がいるかもしれないから、用心するに越したことはないだろう。
窓のない研究書庫はコンクリートがむきだしになっていて味もそっけもなかった。なんだか秘密組織の秘密研究所のようで、白衣を着たマッドサイエンティストでも出てきそうだ。
パソコンの端末で検索すると、やはり美術書のコーナーに置いてあるようだ。メモに控えた番号を見ながら写真集がずらりとならんでいる本棚を調べた。
あった。
表紙はいささかいたんでいるけど、まぎれもなくあの『Santa Fe』だ。
誰にも見られないようこっそり小脇に抱え、廊下の奥のほうの隅にある一人用の机に向かって坐った。さあ、芸術の秋を心ゆくまで堪能しようではないか。
ところが、表紙をめくった僕は目が点になった。
なんと、写真集はあなぼこだらけではないか。
芸術的なあまりに芸術的な美しい裸体の写真は、むざんにもカッターで切り取られ、誰かに持ち去られてしまった。どこもかしこも切り取られた跡だらけだ。
あせった僕は次から次へとページをくった。服を着た写真や風景のなかで彼女が小さく写っている写真ばかり残っていて、もう一度見たいと思っていた芸術的なショットはまったく残っていない。これでは魚のあらみたいなものだ。おいしいところがごっそり抜けている。
やれやれ。
くるのが遅かった。
もっと素早く情報を仕入れて、『Santa Fe』の入荷直後に閲覧すべきだったのだ。
僕は、生協で買ったばかりのミニカッターをそっとポケットへしまった。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第44話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/