中国語訳の聖書を初めてぱらぱらとめくった時、「あれ」と思ったことがあった。
日本語訳のヨハネ福音書の冒頭には、
「初めに言ことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。」
と記述してあり、この宇宙が始まる前に「言ことば」があったとしている。
ところが、中国語訳では次のようになっている。
「太初有道、道与神同在、道就是神」
(天地の開けた初め、道があった。道は神と同じところにあった。道こそが神である)
日本語訳では「言ことば」としているところが、中国語では「道タオ」になっている。
「言ことば」と「道タオ」ではずいぶんと違う。もちろん中国語の「道」には「言葉」という意味はない。「道タオ」ではなんだか道教のようだ。どうしてこうも違うのだろうと首をひねった。
日本語訳の「言ことば」はどうやら英訳版聖書の「ワード(Word)」からきたようだ。ただし、もともとのギリシア語聖書では、そこは「ロゴス(logos)」となっている。もしギリシア語の聖書を直訳すれば「初めにロゴスがあった」となる。そして、その「ロゴス」を中国語に訳すと「道タオ」になるのだとか。「道タオ」に「ロゴス(logos)」という意味を当てたのだ。「道」と訳したのは、このほうが中国人にはわかりやすく、受け入れやすかったということもあるのだろう。上海人の奥さんに「キリスト教の『道』ってどういうどういう意味なの? 」と問いかけたら、すぐさま、「神さまが話した言葉よ(道就是神的话语)」という答えが返ってきた。「道」は「言」、「言」は「真理」ということらしい。
中国語訳の聖書を通して回り道にはなったけど、ひとつ勉強になった。
(2018年10月13日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第432話として投稿しました。
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