夕方、5時頃だろうかグラウンドにイスラム教徒が集まり始めた。グラウンドの中から大きな木に向かって横一列に並んだ。その方向がメッカを指しているのだろう、普段は被らないが礼拝用の白い帽子を全員が被っていた。足元には各自が持って来たカーペットを敷きその上で礼拝が始まった。インドは長い独立運動の末イギリスから独立を勝ち取った、しかしその後、宗教戦争が続いた。仏教徒はスリランカへ、イスラム教徒はパキスタンとバングラディシュに分かれた。シーク教徒は今、パンジャブ州の分離独立を考えている。ハイデラバード、アラハバードと語尾にバードが付く地名はイスラム教徒が集まっている都市だ。カルカッタはベンガル語が主要言語でありマドラスはタミール語だ。デリーから同じ列車でマドラスに着いたインド人のヒンディー語をタミール人は理解出来なかった。ぼくは通算6年半くらいインド、ネパールを旅しているがぼくが知っているインドはほんの一部分にしか過ぎない。夜、アミーゴがしつこく壁を叩いて火を回してくれと催促しているが無視した。自分の事は自分でやれよ。
2月12日(日曜日)
毎日、7房で過ごす時間が多くなった。7房に入ると右側に備え付けのベッドがありそれはジュドゥが使っている。その奥にある旧Bバラックから運んで来た木製のベッドはチョコマ用、入口の左側にある木製のベッドがダイク用だ。ダイクのベッドの下は中が見えないように広い布で被われていた、頭を屈めれば中に入れる。刑務官が外から見ても中で何をしているか分からない為だ。日中、ぼくとダイクはそのベッドの下に潜り込みチェーシングをやっていた。第5収監区に替わってからスタッフの効きが良いチェーシングをやるようになった。旧Cバラックは大部屋でそれが出来なかった。チェーシングをやっていく上での問題はシルバーペーパーの確保だ。バザールだったら巻いたアルミホイールを売っているがそれのは持ち込み禁止されていた。チョコレートの包装は間違いなくシルバーペーパーだ。インドではまだかなりの食品、調味料の包装にシルバーペーパーを使っていた。一部は同じ銀色の包装紙だがビニール製もありダイクはどの包装紙が使えるか良く知っていた。