
先日女島神社に行って来ました。
女島神社は仲哀天皇崩去後、神巧皇后が竹内宿祢や大友氏などを従えに熊襲征伐に来ました。
葦北の野坂の浦の鷺の浦に行在所を設けました。
その際に住民が軍船、兵器、兵糧の準備に住民が大いに協力したのを喜ばれ、
その労に報いて鏡と鉾を授けられた。
村人は神社を建ててそれを祭り、女島八幡宮と称したという。
祭神は本社に神巧皇后、摂社に竹内宿祢を祭る。
また、ここは美景を添える歌会所として京の都に聞こえ、
九条大臣尚実公の口添えにより、次のような短歌が添えられている。
「年ふるや女島の松の深緑 下枝(しずえ)は浦の波に浸して」 詠み人は短歌の達人風早公雄(かぜはやきみお)
現在大潮の満潮時にはかなり水没すると聞いています傷みがなければいいのですが。
大潮の時に水没する事は知りませんでした。
今度大潮の時に気が付けば行ってみます。
貴重な情報ありがとうございました。
私たちが子供時は小学校の遠足が鶴木山の神社でした。
その時はうたせ船の事を「海賊船だあ。」と言っていました。
その折は、ありがとうございました。
早速ですが、Wikiの三韓征伐について読んでおりましたら、仲哀天皇崩御後に神功皇后が自ら神主になって齋宮(いはひのみや)に入り熊襲討伐を行ったとありました。
この、齋宮とは、女島神社のことなのでしょうか。
気になりましたのでここにお尋ねさせていただきました。
よろしくお願いいたします。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90
齋宮ではないと思います。
なぜならば、褒美でいただいた鉾と鏡を祀ったとしか書いてないからです。
史実に基づきながら歴史の扉を叩くことが重要であることを改めて認識いたしました。
ありがとうございます。
史実に基き書くものと、伝説や言い伝えを伝えることは在りだと思います。
いろんな言い伝えがあるのは事実ですから。