赤松太郎を下りてくると、目に着く票木があります。
合戦場の首塚と書いてあります。
文禄はじめ(1592年)に加藤清正、小西行長らが、朝鮮出兵中、
島津藩の部将梅北宮内左衛門が、佐敷の城を襲った。「梅北の乱」
梅北の同僚である東郷甚右衛門春貞と矢崎内蔵助常時は、これと同時に海路城、八代麦島城を攻略し始めたが、
梅北軍が敗亡したとの情報で、陸路転戦した。
東郷、矢崎軍が赤松峠を下りた時、待ち受けていた田浦城主檜前助兵衛が、
槍で突き、鬼塚(井上)飛騨が首をはね、矢崎は大仁田玄蕃が討ち取り、
その二人の首がここに埋められているそうです。(蜜柑山の中です)
このような史実から、今でもこの地を「合戦場」と呼び(今でも地名になっています。)
この迫を「トクジンネンガ迫」「東郷甚右衛門迫」と呼ばれているそうです。
その仕返しと言われているのは、その後田浦の村人が何人も島津の地へ連れていかれたそうです。
ですから、もともと先祖は田浦の出だという人が、かなりの数になるそうです。
最後の締めで、赤松太郎を下りてきて、蜜柑山をバックに記念撮影をしました。
長々お付き合いいただいた、赤松太郎編は今日で終わりです。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
ブログは明日からも継続していきます。
どうぞよろしくお願いします。
途中パソコンの調子などで、更新が遅くなったり画像添付出来なかったりしました事をお詫び申し上げます。
合戦場の首塚と書いてあります。
文禄はじめ(1592年)に加藤清正、小西行長らが、朝鮮出兵中、
島津藩の部将梅北宮内左衛門が、佐敷の城を襲った。「梅北の乱」
梅北の同僚である東郷甚右衛門春貞と矢崎内蔵助常時は、これと同時に海路城、八代麦島城を攻略し始めたが、
梅北軍が敗亡したとの情報で、陸路転戦した。
東郷、矢崎軍が赤松峠を下りた時、待ち受けていた田浦城主檜前助兵衛が、
槍で突き、鬼塚(井上)飛騨が首をはね、矢崎は大仁田玄蕃が討ち取り、
その二人の首がここに埋められているそうです。(蜜柑山の中です)
このような史実から、今でもこの地を「合戦場」と呼び(今でも地名になっています。)
この迫を「トクジンネンガ迫」「東郷甚右衛門迫」と呼ばれているそうです。
その仕返しと言われているのは、その後田浦の村人が何人も島津の地へ連れていかれたそうです。
ですから、もともと先祖は田浦の出だという人が、かなりの数になるそうです。
最後の締めで、赤松太郎を下りてきて、蜜柑山をバックに記念撮影をしました。
長々お付き合いいただいた、赤松太郎編は今日で終わりです。
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