田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

腰痛

2008-03-18 17:31:14 | Weblog
3月18日 火曜日
腰痛 (随筆)
 顔真卿の『争坐位稿』の臨書をしていた。このところ俗事にかまけて、創作のほうの筆がさっぱりすすまない。それでいて、きれぎれにやってくる余暇をもてあまして、毛筆を手にした。原稿を書くだけのまとまった時間がないので書道に励んでいた。というと書を専門としている方には不謹慎ととられるだろう。なんとか生活をたてなおし、創作にもどらなければいけないのだが、つれづれのなぐさめとおもってはじめた書にとりつかれてしまっていた。良寛さんではないが、「我と筆硯と何の縁がある」といった心境で飽くことなく反古の山をつくっていた。ともかく、けっこうのめりこむ質なので、冬の朝から硯にむかい、する墨がふいに霙のように凍ったのに心をおどろかせたり、運筆の中途で筆まで凍てつき半紙にすれてがさっと音をたてるのをおもしろがったりしていた。
 そして、ある朝この二階の書斎で書の筆を置き、日光連山の雪をみようと立ち上がったところ、ふいに、尾骶骨のあたりに激痛がはしった。覚えのある痛みである。
 俗にいう、ギックリ腰。椎間板へルニヤである。背筋にそって稲妻の痙攣に切り裂かれた。それは遠い過去のなかに封じこめ、まるでそんな痛みにみまわれたことなど嘘のようにわすれてしまっていたものだった。天災とギックリ腰は忘れた頃にやってくる。などと警句をモジッテ嘯いたところで、この痛みからは逃げられない。おもうに、正座するのが億劫で長いことあぐらをかいて硯にむかっていたので、背筋に過労が凝固し、痛みとなって醗酵してぎくっということになったのだろう。たしかにこの痛みには覚えがある。いままでにも二度ほどおそわれている。そのつど、気が弱くなり、人生の軌道修正をしたものであった。
 痛みとは非情なもの、無情なものである。こちらが誤って塵界に堕ち、金のからんだ雑事においまわされていようが、なんとか生活を立て直し創作に精進したいと悶々と苦しんでいようが、容赦なくおそってくるものだ。
10年ほど前に快癒したときには、散歩などして背筋を鍛えたりしていたものの、いつしかそれもやめていた。これほどはげし痛みに再度やられるとはおもってもみなかった。そういえば、あのときも、やむなくひきうけたレストランを存続するかどうかで悩んでいる最中だった。なにか重大な岐路にたったときにこの痛みにおそわれるような気がしてならない。
 しびれのきた左脚をいたわりながらゆっくりと部屋を横切った。妻が「動かないでいればいいのに……」と掘炬燵から上目使いにいった。  
 石油ストーブが朝からつけっぱなしなので、上のほうの空気がかさかさにかわききっている。錆鉄みたいなとげとげしい感じだ。刺激的な臭いといがらっぽさをともなっている。気分が悪い。びっこを引きながら玄関をでた。枯れ庭を眺める。
 動きがとれないので露縁に座った。座るといっても、尾骶骨が縁板に触れると痛みが頭頂までひびくので、そっと片側の太ももだけで座り、体を支えるといった姿勢をとる。
 そういえば、初めてこの痛みにおそわれたとき、あれは父の死後まもなくであったが、やはりこんなぶざまな座りかたをしていた。妻が石を並べて庭木の周りを囲っていた。
「腰をおとして、背筋はそのままでもちあげるんだ。起重機みたいに石をもったまま上半身を起こすとおれみたいにギクッとやられるぞ」
 小柄な妻に働かせて露縁から痛みを押さえた低い掛け声だけをかけていたものだ。

 もちの木の周囲の石は歳月を経て、苔むし、かすかに大地に沈みこんでいる。あるべきところに配置されているといった風情はなかなかいいものだ。囲いのなかには枯れ落ち葉がかさなり、うらさびた感じをかもしだしている。
 時雨がきて落ち葉や石をたたいている。この侘しい音は、ひととき、痛みをわすれさせてくれる。ボケっと雨音に身をゆだね、このたびの腰痛はいかなる天の啓示なのかとかんがえていた。
 あらゆることを勿論書道もふくめてだが、ほどほどにして、小説を書くことにうちこめよ、ということではないのだろうか。もう若くはない。なにもかも途中で途絶えてしまったら死の床についたとき、恨みつらみでとても往生はおぼつかないだろう。
 鹿沼はもうじき春、千手山の桜が咲くころにはこの痛みも消えていることだろう。
 そうしたら……小説書くぞ。書くぞ。

                      平成5年 全作家33号より転載