3月21日 金曜日
観世縒 (随筆)
草稿を起こすまでの不安といらいらした気持ち。書きだせば書きだしたで、作品の成功に対する過剰な期待感。物書きに絶えずつきまとう、こうした苦労については、おおくの作家が書いている。
では、作品が完成して、最終の終止符を打ち終わったあとは、どういうことになるのだろうか?
寡聞にして、その辺の経緯を書いた文章にはまだおめにかかっていない。
流行作家であったら、バーへでも出かけて、美女をはべらせお酒を飲むのだろうな。それで、ひとくぎりつけて、明日からの作品のために英気をやしなうのだろう。と、なかば羨み、なかば妬んでおもってみる。
ぼくの場合は観世縒を撚る。
観世縒(かんぜより)。紙縒(こより)ともい。観世縒を、カンジンヨリ、とぼくの家では発音していた。<麻屋>を代々世過ぎとしてきた。ともかく古風な商売だった。古いわりには一般には知られていない。結束した一束四貫目の野州大麻をみたことのあるかたはないでしょう。おそらく、いないでしょうね。
一束の精麻は乾燥の度合いによって、かなり目減りがある。出荷するときには、再貫(もう一度目方を計量)して、荷札をつけかえる。
この荷札を<貫札>と呼んでいる。ハリガネのついた荷札を父はきらっていた。ハリガネのとげとげしさと西洋紙のがさつな感触が、麻の風味を傷つけるというのだ。それで、カンジンヨリが使用されてきた。和紙を細長く切って、撚ったものを、前はあらゆる商店や会社で、綴じ紐として使っていたはずである。
いま、カンジンヨリを撚れるひとはいないだろう。
普通の和紙では弱い。ちぎれてしまう。麻屋が貫札として使うには、目方を書きこむ箇所だけは、撚らないでおくので、そこからちぎれる。水にも弱い。
そこで栃木の「カミヤ灰」という会社の、懐炉バイの巻紙を廃物利用していた。断ち落しだった。とぼくは記憶している。実は、新しい紙を裁断してもらったのかもしれない。
小学一年生のころから、ぼくはカンジンヨリの撚り方を父から仕込まれた。厳格だった。左右の親指と人差し指をこすりあわせるバランスがくずれると、ピンとかたく撚り上がらない。ぶくぶくして撚り上がるべき部分が笑ってしまう。
「なんだ。このぶくよりは」
厳しく叱責された。冬の夜などは、指先がかじかんでおもうように動かない。息を吐きかけながら撚り上げたものだった。
明日は麻の出荷でいそがしい時には、百本近く撚り上げた。麻屋の全盛期には、百
束、四百貫の精麻をわが家では一日に出荷したことがあった。驚いてしまう。
いまの金額に換算したら、たいへんな売上高になる。
後年、原稿を書くようになってからも、こうした習慣のなかで育ってきたので、ホッチキスや綴じ紐を使う気にはなれなかった。
初めて作品を書き上げたときのことだった。カンジンヨリの内側に細字で<般若心経>を書きこんだ。どうぞこの原稿が採用されますように。活字になりますように。雑誌に載りますように。そんな願いをこめた。そのお陰か、処女作「眠られぬ夜の底で」は久保書店の「灯」載った。
あのころは、原稿が雑誌に載り活字になるということは、ぼくにとっては夢のようなことだった。いまは、カンジンヨリに心経を書きこむ客気はない。ああこの作品を書き上げた、くるしかったな、などと感慨をこめて、カンジンヨリを撚り上げている。
父は用意がよすぎた。
麻屋として十年分の用紙を買い置いてくれた。ぼくがこれから生涯原稿を書き続けても、カンジンヨリの和紙にはことかくことはあるまい。冥府の父は、ぼくがカンジンヨリをこうしたことに使うのを知って苦笑していることだろう。
原稿に千枚通しで穴をあける。カンジンヨリが尖っていれば一回で通る。きゅっと結ぶ。
原稿を机上に置く。
つかれた。
もう一字も書く気はしない。
ああ、やっと書き終わった。
大封筒の紙質は万年筆をうけつけない。ぼくが書くと、字がかすれる。かすれた字では先方に失礼にあたるからと、もっともらしい理由をつける。
宛名は妻に書いてもらう。実際は最後の終止符を書きこんだ段階でもう一字も書けなくなっている。書きたくない。困ったものだ。
郵便局にもでかけない。Yさんのように原稿を投函に行った帰りに車禍にあったらどうする。ということで、「おい。全作家の随筆上がったよ」と、妻に声をかける。ご本人は、どっと横になる。目を閉じる。貧者の楽しみである惰眠をむさぼることになる。
作品が完成したあとは、ぼくの場合、毎度こんな具合である。
昭和57年 全作家11号より転載。
観世縒 (随筆)
草稿を起こすまでの不安といらいらした気持ち。書きだせば書きだしたで、作品の成功に対する過剰な期待感。物書きに絶えずつきまとう、こうした苦労については、おおくの作家が書いている。
では、作品が完成して、最終の終止符を打ち終わったあとは、どういうことになるのだろうか?
寡聞にして、その辺の経緯を書いた文章にはまだおめにかかっていない。
流行作家であったら、バーへでも出かけて、美女をはべらせお酒を飲むのだろうな。それで、ひとくぎりつけて、明日からの作品のために英気をやしなうのだろう。と、なかば羨み、なかば妬んでおもってみる。
ぼくの場合は観世縒を撚る。
観世縒(かんぜより)。紙縒(こより)ともい。観世縒を、カンジンヨリ、とぼくの家では発音していた。<麻屋>を代々世過ぎとしてきた。ともかく古風な商売だった。古いわりには一般には知られていない。結束した一束四貫目の野州大麻をみたことのあるかたはないでしょう。おそらく、いないでしょうね。
一束の精麻は乾燥の度合いによって、かなり目減りがある。出荷するときには、再貫(もう一度目方を計量)して、荷札をつけかえる。
この荷札を<貫札>と呼んでいる。ハリガネのついた荷札を父はきらっていた。ハリガネのとげとげしさと西洋紙のがさつな感触が、麻の風味を傷つけるというのだ。それで、カンジンヨリが使用されてきた。和紙を細長く切って、撚ったものを、前はあらゆる商店や会社で、綴じ紐として使っていたはずである。
いま、カンジンヨリを撚れるひとはいないだろう。
普通の和紙では弱い。ちぎれてしまう。麻屋が貫札として使うには、目方を書きこむ箇所だけは、撚らないでおくので、そこからちぎれる。水にも弱い。
そこで栃木の「カミヤ灰」という会社の、懐炉バイの巻紙を廃物利用していた。断ち落しだった。とぼくは記憶している。実は、新しい紙を裁断してもらったのかもしれない。
小学一年生のころから、ぼくはカンジンヨリの撚り方を父から仕込まれた。厳格だった。左右の親指と人差し指をこすりあわせるバランスがくずれると、ピンとかたく撚り上がらない。ぶくぶくして撚り上がるべき部分が笑ってしまう。
「なんだ。このぶくよりは」
厳しく叱責された。冬の夜などは、指先がかじかんでおもうように動かない。息を吐きかけながら撚り上げたものだった。
明日は麻の出荷でいそがしい時には、百本近く撚り上げた。麻屋の全盛期には、百
束、四百貫の精麻をわが家では一日に出荷したことがあった。驚いてしまう。
いまの金額に換算したら、たいへんな売上高になる。
後年、原稿を書くようになってからも、こうした習慣のなかで育ってきたので、ホッチキスや綴じ紐を使う気にはなれなかった。
初めて作品を書き上げたときのことだった。カンジンヨリの内側に細字で<般若心経>を書きこんだ。どうぞこの原稿が採用されますように。活字になりますように。雑誌に載りますように。そんな願いをこめた。そのお陰か、処女作「眠られぬ夜の底で」は久保書店の「灯」載った。
あのころは、原稿が雑誌に載り活字になるということは、ぼくにとっては夢のようなことだった。いまは、カンジンヨリに心経を書きこむ客気はない。ああこの作品を書き上げた、くるしかったな、などと感慨をこめて、カンジンヨリを撚り上げている。
父は用意がよすぎた。
麻屋として十年分の用紙を買い置いてくれた。ぼくがこれから生涯原稿を書き続けても、カンジンヨリの和紙にはことかくことはあるまい。冥府の父は、ぼくがカンジンヨリをこうしたことに使うのを知って苦笑していることだろう。
原稿に千枚通しで穴をあける。カンジンヨリが尖っていれば一回で通る。きゅっと結ぶ。
原稿を机上に置く。
つかれた。
もう一字も書く気はしない。
ああ、やっと書き終わった。
大封筒の紙質は万年筆をうけつけない。ぼくが書くと、字がかすれる。かすれた字では先方に失礼にあたるからと、もっともらしい理由をつける。
宛名は妻に書いてもらう。実際は最後の終止符を書きこんだ段階でもう一字も書けなくなっている。書きたくない。困ったものだ。
郵便局にもでかけない。Yさんのように原稿を投函に行った帰りに車禍にあったらどうする。ということで、「おい。全作家の随筆上がったよ」と、妻に声をかける。ご本人は、どっと横になる。目を閉じる。貧者の楽しみである惰眠をむさぼることになる。
作品が完成したあとは、ぼくの場合、毎度こんな具合である。
昭和57年 全作家11号より転載。