田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

随筆クラゲ

2008-03-28 22:48:04 | 随筆
3月28日 金曜日
クラゲ (随筆)
 クラゲが浮いていた。ふんわりと浮かんで、まるで水の表面に薄い皮ができたようだ。その半透明体のクラゲがゆらりゆらりと動いている。クラゲは水の面いっぱいに漂っていた。クラゲは<海月>ともかくが、まさに水面に浮いて揺れ動く白い満月のようでもあった。その動きが生々しくておもしろかった。フワフワとした動きには艶さえかんじた。まるで生きているように揺らいでいる。トイレットペーパーだった。妻が水洗で流し忘れたのだ。トイレの水に浮かんでいる紙のクラゲにわたしは妻の老を感じとっていた。「トイレ流し忘れているぞ」とテレビをみている妻に呼び掛けることは容易だった。だがさいきんでは、妻の物忘れの頻度がかなり高まっていたので、声をかけることは、憚られた。
 几帳面なひとほど老いてから物忘れがはやくやってくる。それを意識した時のショックは激しい。とどこかで読んだ記憶がある。
 わたしが風呂にはいると、きまって下着類は奇麗に洗濯したものとかえてくれる。脱衣籠にパンツ、丸首のシャツ、ステテコ(冬であったらモモヒキ)が、順番にかさねられていなかったことはない。それは見事にかかさず洗濯をする。塾で教壇に立つおりに締めるバンダナも、まだ汚れていないからといっても、そのつど洗濯機に放り込む。すぐにうす切れてしまうほどよく洗ってくれる。
 食後の食器類もかならずその場で洗う。こうした妻の負担を軽くしてあげようと
食器洗い機はもうかれこれ25年くらいまえから使っている。洗濯機も全自働で、乾燥機も別にある。
 若い時から妻は見事に忘れ物をしていた。見事にというのは、おたがいに若かったから物忘れにも愛嬌とかんじて「かわいいな」ということですんでいた。
 スーパーに自転車で買い物にいく。「ああ重かった。自転車でいけばよかったわ」と小柄な妻が両手にずっしりと重そうな白いビニール袋をさげてかえってくる。「あら、そうだったかしら」とケロッとしている。「またいくなら、ついでに牛肉かってきてよ。今夜はスキヤキでビールのみたいな」。「わかったわ」ところが帰りがはやすぎる。「あっ、わすれた」自転車をとりにいっただけで、悠然と帰宅したものだ。
「おれの顔だけは忘れないでな」そんなジョークで締めくくり、まいにち平穏に仲睦まじくすごしてきた。
 ところが、さいきんではどうもジョークもいえない心境にわたしは至っている。
 妻が若い時から物忘れがひどかったので気付くのがおそかった。娘たちにも、ときおり電話ではこぼしていた。「お母さんはむかしからよ。お父さんの心配し過ぎよ」という返事がいつも、もどってくるので、それもそうだなと思ってきた。
 おれの顔は、忘れないでよ、などとジョークをいってきたが「あなたいつからそんなに白髪になったの。お幾つですか」などと真面目な表情で聞かれると不安になってくる。「あなたいつからわたしのそばにいるのですか。だぁれ?」なんて聞かれたらどうしよう。そうした日が間近に迫っているようで心細い。隣家の老婆は嫁にきておそらく70年ちかくなるのだろうが、わたしの家はここではない。と毎日いいつづけているらしい。自分の実家の記憶はあるのに、嫁にきてからの記憶がぜんぶ消えてしまっているのだろう。それでも、毎夕、同じ時間に『夕焼け小焼けの赤とんぼ』と哀調ある調べをさいごまで歌っている。
 老いるとは寂しくも不安なものだ。とくに男よりも美意識の強い女性にとってはそうであるらしい。
 こうした痴呆への、関心と、わたしと妻のどちらかにそれが始まったらどうしょうという不安は、さいきんとみに知り合いの訃報に接するようになったからだ。そのなん%かは痴呆による死である。痴呆になったからすぐ死ぬというわけではない。家族がいやがって痴呆老人となった親を特別養護老人ホームに入れてしまうからである。お金はだすが、痴呆になった親の面倒をみるのはイヤだという子供がおおいい証拠である。わたしなどは、30年間病気の父母の世話をした。しかしあのころからそろそろ家族が年老いた父母の面倒をみるのを嫌がり始めていたような気がする。
 できることなら、子供たちに、負担をかけずポックリと死にたいという会話を公園のベンチでよく聞く。寂しいものだ。寂しいと同時に恐怖すら感じる。
 老人ホームでの生活。周りにだれもしっているひとがいない。清潔なべットに寝起きしているからしあわせだなどとだれがいうのだ。

 今朝もわがやのトイレにはクラゲが浮かんでいた。
                                 未発表。



くたびれて

2008-03-28 03:29:44 | Weblog
3月28日 金曜日
くたびれて (随筆)
春の埃っぽい風が、いく日も吹いた。大気のなかに塵の微粒子がふくまれて、眼がちくちくする。そして、いつもの年のように小糠雨が人としれずふりだしていた。
 わが家の大谷石の塀の上で、藤の花が咲きだした。生まれつき不器用にして怠け者。藤棚などつくれるはずもない。鋸や金槌や釘など手にする気もないのに、日曜大工を推奨する店「カンセキ」に行くと、おかしなことだが、その気になる。既製品の藤棚は展示即売されている。だがそのうちに、独創的な藤棚作りに挑戦する、などといって妻をよろこばせている。
 花は石塀の上でゆったりと垂れ、咲くとともに長く大きくなってこそ風情がある。
 垂れ下がることのできない花房は、淡紫のままで朽ちてしまう。それがどうしたことか、庭に面した側に伸びた枝に、今年は一房だけ花が咲いた。
 芭蕉の「草臥て宿かる此や藤の花」に因み……。春たけなわ。濃い藤色にかわり、みごとに垂れ下がる大輪の花房をながめる。わが身を能のワキ僧とみなし、暮れいく狭い庭をいきつもどりつ……とぼとぼあるいて春愁の情にひたっているうちに……目がつかれた。めがねをはずし、目頭をおさえた。藤の花に目を転じた。視界がきえていた。
「失明したぞ」と、おもわず妻によびかけていた。一瞬脳裏にうかんだのは、行き暮れて民家に宿を乞うワキ僧のすがたではなかった。杖をついた座頭市だった。わが風流もこれだけのものかと慙き。
 白内障。東京女子医大の眼科でくだされた診断だった。右目はひどい。ものの形をみきわめることができなかった。目頭をおさえたときに、左目を無意識につぶってしまったので、ふいになにもみえなくなったと錯覚したのだった。
 庭木の花々の季節もすぎ、インパチエンスが咲きだした六月末に入院した。わたしは生涯かけて白い紙の升目に文字をならべていく作業をつづけてきた。それがワープロに、筆記具からキーをたたくことにかわっただけで、文字をつらねることは、かわりない。文字のひとつひとつは、わたしの血の一滴々々なのだという、極めつけ古い思いにとらわれている。だから、わたしにとって目がみえなくなるかもしれないということは、死の恐怖をともなうものであった。
 大袈裟すぎると妻にしかられたが、それがいつわらざる心情だった。病院という近代的な建造物。事務はコンピューター。電脳空間にはりめぐされたネットにとらわれた昆虫のように身動きもならず、規則正しい生活をしいられた。幽閉の時。手術までの不安な時がながれていく。いくらでも時間があるから、天井をみあげながら絶望的に不運な自分の作家としての来し方をおもったりして過ごした。
 右白内障超音波乳化吸引術及びレンズ挿入術を受けて退院したのは一週間後だった。帰りの車窓からみると緑に光る関東平野が展望できた。遥か彼方の林の群葉。利根川の緑の土堤。田植えもすみ青田波が光っている。稲のやわらかな葉のさきがとがって光の雫をたたえたような小波をたてている。
 美しかった。緑が眩しい。光がよみがえった。風景に立体感がもどってきた。
 茅舎では花はすぎてしまったが、葉脈の透いてみえる藤の若葉や石塀一面においしげった青ツタの葉がそよ吹く風にひるがえって、わたしを迎えてくれた。薔薇の棘のさきまでよくみえる。明るい。……書斎にすわった。視力も回復したことであり、モノ書きとしてのわたしも心をこめて文体をつづっていこう。ハタと庭の緑に目をすえた。
 ところが、口をついてでたのは……。「おい、退院後の注意書きがみあたらないぞ」と台所でいそいそと食事の用意をしている妻に呼び掛けた。女子医大だからノンベイはいないのだろう。お酒は一、二杯いいでしょうと書いてあった。これは猪口でと解すべきか。グラスかな?
 むろん前者であろう。医者のいうことも妻の警告もきくわけのないわたしに、なみなみとグラスにつがれた冷酒がわたされた。まず芳醇な匂いをかぐ。それからおそるおそるおちょぼこ口で一杯、二杯ていど啜った……というのはうそだ。
 光のよみがえった目が酔眼朦朧、妻がひさしぶりのわたしの帰還をよろこんでいのか、酒飲みの亭主にあきれはてているのか、みてとることはできなかった。
 老境。これを機に、くたびれたモノ書きに一条の光が差しますように、などと神妙なことはねがわない。百歳まで生きたら無制限に飲む。
 酔生夢死、酔いのうちに藤の花咲くわが家から旅立ちたい。

 
                     平成13年 随筆手帳39号より転載