田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

雪の夜

2008-03-23 14:03:45 | Weblog
3月23日 日曜日
雪の夜 (随筆)
 雪になった。
 降り積もっているのだろうか。
 まったく無音の世界である。これが雨であったら古いトタン屋根をうつ雨音に悩まされるのだが、雪にはなんの気配もない。なんの気配もなく、音が途絶えているから、かえって、ああ雪になったのだ、とわかるようなものである。そこがおもしろい。 
 わが家のトタン屋根は古い。60年は経っている。ウネトタンの、かなり厚い番手のものだそうだ。いまは既に製造していない厚さ のものだ。2年おきにコールタールを塗りにきてくれる職人が「こんな分厚い、ごついトタン屋根はいまいまどきありませんぜ」とくるたびに感嘆の吐息をもらす。
 消費は美徳という考えが一世を風靡した。厚すぎてながもちするトタンなど製造するはずがない。裏庭に増築した塾の屋根などもういたんでいる。
……母屋のほうでトタンをひっかく音がした。
つづいて、擦過音。
わが家の放蕩息子、夜遊びにでていた雄猫のムックがご帰還になったのだ。雪にすべったのだろう。「ニヤッ」というなきごえが、かすかに伝わってくる。そしてもとの静寂。
いや、ムックの帰宅の気配を感じ取った後だ。前にもまして田舎町の雪の夜の静けさが身にしみる。
寝床でねがえりをして……うとうとしてしまった。
熟年? になってから、寝床にもぐりこんでもすぐにはねつかれない。うとうとゆめうつつの状態がながくつづく。夜中になんどもめざめてしまう。
まくらもとに菊地秀行などの本をうずたかく積んでおく。夜半にめざめてしまつたときは、手をのばして最初にふれたものを読むことにしている。ところが、若手の作家の語り口はなかなかのものである。ついつい夜明けまで読んでしまう。
ムックのなきごえが……している。玄関の外だ。
まえからないていたのだろう。うとうとしていて気づかなかった。
二日も家を空けて、とおこってみてもはじまらない。恋のあいてをもとめて夜っぴてさまよっていたのだよな。かわいそうになってしまう。野良猫がこのあたりにもすくなくなった。
ポリ容器やビニールぶくろでごみをだすようになった。それにいまの家の建築様式では、台所にもしのびこめない。例えうまくしのびんでも、逃げるのに苦労する。おこりっぽくなっている若い主婦につかまったら、ねこの運命は!
恋をするにも雌ねこがいない。雄ねこムックが青春を生きるには、周囲の環境はあまりにきびしい。幾夜もさまよいあるくことになる。
恋人? をもとめテリトリーからでる危険もおかす。傷だらけになる。オシッコをひっかけてあるいているらしい。このマーキングの癖を家に帰ってもやらかす。尻尾をピピッとやって、ところかまわずオシッコをひっかける。
西早稲田から帰宅するワイフはくさいくさいと大騒ぎである。あまりこの臭気は気にしないようにしていたのに。ぼくにまで臭いが鼻についてしまう。いくらねこずきでもあまりありがたくない臭いだ。
ムックの呼び声はきこえていた。起きるのは億劫だった。ためらっていた。離れのガラス窓が開く。静かな音だ。
「ムック」と受験勉強でまだがんばっていた娘の声がする。音をたてないように静かに窓を開けた。ご近所に迷惑をかけまいとする心くばりがうれしい。
 ムックが台所に入ってくる気配がする。
「なんだ、パパも起きていたの」
 いつものように恋やつれ。疲労憔悴。それでもムックは体をすりよせてきた。おなかの肉がげっそりとおちている。
「だいじょうぶよね」と娘。
「ああ、ねこだからすこし古くなっていても……」
 銀食器に盛ったままになっていたキャット・フードのことをいっているのだ。ムックがからだをブルッとふるわせる。体毛についた雪がとけていた。あたりにとびちる。前足を交互にぐっとのばす。背中をなべ底のようにそらせる。一瞬開いた口はまさに獣のものだ。銀食器にちかよる。飢えていたのだろう。わき目もふらずたべはじめた。
 カーテンを開いてみる。闇に雪がまっていた。虚空からとめどもなく降りしきる雪に、もちの木やツバキの枝がすでにたわんでいた。見つめていると脳裏に明日の雪の景色がひろがる。
「あしたは、自転車にのれないわね」
 娘は娘でべつのことをかんがえていた。
「もう、ねるといいぞ」
 それで言葉はとぎれてしまう。
 雪はさらにつよくなった。窓のそとは吹雪いている。 
 たてつけのわるい雨戸が音をたてている。娘が大学にはいってしまうと、来年の雪を独りでのこされたぼくは、どんな気持ちでみることになるのだろうか。
                     昭和62年 全作家21号より転載。