田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

下痢

2019-11-01 08:31:31 | 純文学
   

 直腸癌で家族を失った人に。まだ、老人医療の保険1割負担がなかった時代に、医療費の支払いのため借金地獄に落ち込んだ苦行からの……魂の、家族の再生の……死の悲しみを詩に昇華させようと苦労した夫婦の記録です。


第一章

 1


 関東平野を流れる小川は白い川床をみせて凍てついていた。
気象庁はじまっていらいの異常乾燥だと、今朝のテレビは報じている。列車の窓から眺める景観では寒さもかなりきびしいらしい。
 暖房のききすぎたロマンスカーの窓ガラスごしでは、白い流れも、寒風に砂ホコリをまきあげる大地の存在も、飛翔する鳥と空すらも遠いものに思えてならない。

 昨年の夏、父が逝ってからというもの、ぼくは、他者の苦痛はつまるところそのひとだけのものであって、はたでとやかく心配したところで、どうしょうもないものだという実感を、なにかことあるごとに思いおこす。

 父の死因は直腸癌。
 
 人口肛門をつける手術をしてから四年、黄泉の国への旅立ちであった。

 その間、父はうめきつづけ、直腸癌を患いわき腹に肛門を穿ったもののあの異臭が、家の中に充満し、ぼくら家族は巨大な糞ツボに閉じ込められた生活を余儀なくされた。
 ぼくは日々の糧と医療費を得るために働きづめ、心労の果てに言葉を失い、ついに一行も書けなくなった。
 正方形の四百字のマス目に、たった一片の単語すら定着させることができず、白いままの紙を凝視して千と幾百かの夜と昼を過ごすことになった。
 
 言葉を喪失したぼくの肉体はすでにぼくのものではなかった。
 もはや思考することもなく、ただ労役の淵を旋回しながら下降運動をはやめていた。
 
 不意に襲いかかってきた災難、このむとこのまぬとにかかわらず、ぼくら家族を巻き込んでしまった災難からは抜け出すことも拒否することもできなかった。
 
 病名すら知らされていない父だけが、陰険にぼくらを自壊作用へと追い落とす渦の中心にあって奇蹟の「神」の救済のみ、ひからびた唇で訴えていた。
 
 小説を書こうとして、どうしてこうした文章になってしまうのだろう。
 
 ぼくは関東平野の冬景色の描写から、芯縄の販路拡張ため、関西に出張するので挨拶にいった部屋で寝ている母の面貌にうつり、昨年の夏にやってきた父の死、悲しい体験を写実的に書くはずであった。
 それが車中で書き出した文章は、すっかり創作の文章らしい体裁を整えることができないのだった。
 ぼくはまだすっかり回復しているわけではいのだから、と自分のことを慰めた。





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