田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

下痢9  麻屋与志夫

2019-11-08 07:37:13 | 純文学
9

ある夜、みた夢。……からだに痙攣がはしり、ぼくはなにかにすがろうとしていた。だが、虚空に手を伸ばしただけだった。父がときおりみせる苦痛の姿態そのままだった。あらゆる穴から血をふきだした。……血はとびちり、ぼく自身が消滅してしまうといった悪夢だった。めざめると、全身に汗をかき、寝床はぐっしょりとぬれていた。背筋には夢のなごりのふるえがのこっていた。夢の世界により鮮明なリアリティを覚えた。そうした感覚が、こんどは車内でよろめいたときに、まったくだしぬけにやってきた。とてもたのしく肥満し、にぎやかな声を上げて、なんのためらいもなくからだをおしつけてきた若い女の……女らしくつきでた部分に圧迫されていた。もちろん、文句を言うはずはない。だが何も感じないのだ。異臭をはなち、死んでいく肉と生活を共にした。地獄を見た、あとでは、なまなましい女すら、とける肉、腐臭をはなつ肉と意識してしまう。
電車がゆれるたびに、女の乳房もゆらいで、その揺れをぼくは胸でうけとめていた。
彼女はぼくのほうを見てはいなかった。見ようとしなかったのか、あるいは見られたくなかったのか。わからない。このたあいのない遊戯がぼくには気になってしかたなかった。もし電車がどこまでも走って行くのだったら、いや、あと二十分程度でも彼女のそばにいられたなら、事態は、もっと猥雑になったはずだ。
じつに適格に女の乳房にふれているのに、ぼくのからだはなにか不快な異物にふれているような悪寒におののいていた。ふれたいという欲望といういこじなほどつきあげてくる妄想と、現実の肉を拒絶する生理的嫌悪に悩まされていた。

――なにかんがえていますの?
――どうしてきみは……ぼくをおいかけてきたの……?
――あら……わたしをさそったのは、あなたよ。大阪までのヒカリの切符二枚買ったのはあなたではなかったかしら。
女はいたずらっぽく、ぼくをみて笑っている。
ぼくは何も応えることができない。
おそらく彼女の言っていることはほんとうなのだろう。
女を眺めていると、その背景に冬の富士が白く光っている。
――となにかんがえているの。さきのつづきがしたいのでしょう。
実際には、すでにぼくの手は……彼女のふっくらともりあがった乳房にふれている。
どのていど彼女が本気なのかたしかめるように、しっとりとしめってひややかな感触の肌にふれている。
こしゃくにも乳房はかたくつっぱる。乳房へのぼくの描写力を誘いこむような変容しめす。すべすべして調和のとれた両の乳房への接触、もりあがり……妨げるものはなにもなく艶麗とした……。胸元にそっと頬をおしつける。少年らしく、あるいは幼児のように彼女の肌の匂いを確かめる。お乳の匂いがしていた。
いくら乗客がすくないからと言って、車中で発散できる衝動はここまで、ひとにみられないようにという配慮から……彼女は上半身を前屈させた。ぼくの頭はそのために、彼女の胸からずりおちる。
――こどものようなことしないで。
懇願するように、あるいは挑発的な男の手をたしなめるような口調で彼女は言った。
微笑すらうかべた彼女の横顔の後方を、冬の樹木がながれる。あいかわらず、枯渇した風景。
乳房は白くもりあがり、白い暈のようにみえる。それは昨夜、ぼくを拒んだ妻の乳房のようだ。ぼくに授乳してくれた母の乳房のようでもある。

――もう耐えられない。こんな生活がづくならわたしは、逃げだしい。
――逃げる。……どこへ?
軽くあしらっておけば、妻の感情は沈静するはずであった。ぼくはいらいらしていた。愚かにも切りかえしていた。

いまや、乳房は、窓枠いっぱいにひろがった。すでに富士山をおおいかくしていた。



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