田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

下痢22  麻屋与志夫

2019-11-20 08:51:43 | 純文学

22

 拒むことのできない手術から父は逃れようとしていた。青白い顔。くぼんだ眼窩の奥の鈍い虹彩。涙。血。涙。血のイメージ。
 くぼんだ皺じわのあつまり……肛門から一滴の血液がたれ便座に付着した。あの赤い一滴の血のしたたりがぼくの運命をおおきく変えてしまった。医師は直腸癌であると診断した。U市にある病院を紹介してくれた。

 父のヒゲをそってやったことがあった。石鹸の泡でびっしょりとヒゲをぬらした。それでもまだやわらかくならない。タオルで蒸した。熱い湯のなかからとりだしたばかりだった。白髪混じりのヒゲをシャリシャリとそった。ぼくは父が病に倒れたショックと看病の過労で、こちらが先に死ぬのではないかというところまで追いつめられていた。
 父は化粧品の匂いが嫌いだった。ヒゲソリあとに乳液をつけたことがなかった。すこし赤みをおびた肌に牛乳を軽くたたくようにしてつけていた。それがあの年の梅雨の季節には、乳液をつけてやっても、文句をいわなくなっていた。どうしちまったのだ。お父さん。文句をいってよ。牛乳でなければダメだ。とわめいてよ。おやじ。なとかいってよ。息をひきとる二月ほどまえのことだった。
 ほほがこけ、いくら指でつまんでも、きれいにソリあげてやろうとしても、皺のなかに埋没したヒゲはなかなか剃れるものではなかった。

 石鹸と乳液の匂いがよどんだ部屋の空気の中に漂っていた。うめき声をあげ……すっかり言葉を発声しなくなった父を眺めていた。東京にもどって小説を書きたい、文学の朋に会いたい、この街から家から脱出したいという意思は全て砂地すわれるように、乾いて白濁した彼の眸に消えていく。

 ここは仮象の世界。これらすべてはリアルではない。ぼくはここよりほかにいるのだ。そう思いこむことで現実から逃れようとしていた。
 横っ腹に穿たれたバラ色の人工肛門からジュクジュクとシミデル便の臭いや、苦悶にぬれた眼でぼくを見上げる父を見ていると、しかし、ぼくはどこへも逃げこむことはできないのを悟った。


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