田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

わが庭の秋

2008-03-22 16:42:29 | Weblog
3月22日 土曜日
わが庭の秋 (随筆)
 裏庭の竹林が風に鳴っている。五坪ほどの庭である。竹林といってもだから、ていどがしれるというものだが、これがなかなかどうして風情がある。
 書きものをしていて、ふと顔をあげるとそこに竹が乱立している。そり間を覗いてみても見通しがきかない。緑の群葉が風にそよぐ。葉ずれの音がかすかにつたわってくる。静寂をさらに深めるような葉音だ。はてしなく広大な竹林のかんがある。
 実際に、広い場所であったら、孟宗竹でもうえたかった。春の筍を楽しみたい。食いっけがさきだっ無風流なことをおもっていた。狭い庭なので黒竹にした。
 黒竹というのが学術名かどうかはしらない。花鳥風月とは縁遠い、商人の生活に半生をささげてきたので、草木や鳥、魚の名にはとまどってしまう。
 小説を書いていて、それらの名詞に弱くて難儀する。はっきりいって、無知にひとしい。それにしても、春先、黒竹の細く小さな筍がおもわぬ地点にぽつんと現れるのをみるのは楽しいものだ。あれよあれよというまに、屋根の庇にまでとどいてしまう。
 夏のあいだは緑であったカンが、初冬のころになると、黒味を帯びてくる。黒というより濃紫色にかわる。その光沢がなんともいえず好ましい。
「カンが黒くなるのは、霜があたるからだんべ」そう教えてくれたのは、妻の小学校の同級生のTさんだった。讃岐うどんの店をやっている。文化財修復士という肩書もある。仁王門とか神社仏閣の塗り替えをもっぱらやっているという珍しい人だ。
 彼のうどん屋の店先にも黒竹の群生があった。
 わが庭の竹は四年ほどまえに、花市で買った。これほどはやく増殖するとはおもわなかった。 
 竹は地下茎で増える。どこにカンが成長するかわからない。びっしりとカンを起立させた黒竹は裏庭をおおい、見通しがきかなくなった。
 このすき間がなく、ほのぐらく……竹の葉とカンしか存在しないというところがいい。そのさきには、古びたトタン塀があることなどわからないのだ。さらに、塀のそとには生臭い人間の営みがある。朝風呂にはいってこの裏庭を眺めていれば、静寂な時だけがながれていく。
 残暑とはいえ、目にはさやかにみえない風が吹きだすと、深山の幽渓の温泉にひたっている感じがする。
 それに、この季節には、どうしたわけか、風呂場のガラス窓が湯気でくもらない。湯気があまりたたないからなのか。室温と外気温の差がほとんどないためなのか。化学音痴のぼくにはわからない。そのわからないことがいっぱいあるのが、この年になってみると楽しい。
 ぼけっとして狭い裏庭の風にそよぐ竹を観想していると浮世の憂さをわすれることができる。この空間に宗和形の灯篭を置きたいところだ。
 門をはいって、すぐに無花果の木がある。すぐ、と書かないとわが家を訪れたことのないひとは、裏庭があり前庭もあるのかとおもつてしまう。あることはあるのだが、これが俗にいうところの、うなぎの寝床という細長い庭だ。庭などといえるものではない。
 幅一間半、奥行き十二間だ。だから、無花果の枝などは門の屋根にかかり、塀からおおかたははみだしている。
 この秋、この無花果に異変がおきている。へんにしわがれた、ギっというような鳴き声とともにひわがやってきた。出入りの職人がひわだというのだから、ひわなのだろう。もっとも、おなが、だというひともいる。
 まだ成熟しない実をつつきにきているのだ。毎年とりきれなかったものが、収穫が皆無だ。妻は籠をもって庭をうろうろしている。
 鳥がよろこべばそれでいいじゃないか、と鷹揚にかまえてはみたものの秋の味覚をうしなったのはなんとも惜しい。幽寂閑雅としゃれこんでも食い意地だけはまだのこっている。酒をあまりのまなくなってからは、口がさらに卑しくなっている。
 野鳥のくるのが増えたのは、付近の山の木が切り倒されたからだ。坂田山の雑木林が切られ宅地が造成されたときも、一時期鳥が里までおりてきたものだった。
 これからは、二階のベランダから紅葉をたのしむこともできない。裸になった山は切り崩されやはり宅地になるのだろう。紅葉をみたかったら、庭に植えるほかはない。いままでのように借景を楽しむわけにはいかないのだ。鄙びた田舎町にも時代の波はいやおうなく押し寄せてくるものだ。
 あれほど渇望していた都会での生活。青春時代から、都会で仲間たちに囲まれ作家として生きることに憧れていた。夢は遠いものになってしまった。
 田舎暮らしにもだいぶなれてきた。自然をたのしむことも覚えた。それなのに自然が壊されていくのは悲しい。散歩にでれば自然があった。いたるところに、林があり樹木があった。紅葉もみられた。栗も道端におちていた。柿もおのずから色づき熟した。そういう風景が消えていく。
 ささやかな庭で自然を味わう。それでよしとしなければならないのだろうか。

               平成3年 全作家30号より転載。

千屈菜(みそはぎ)

2008-03-22 00:10:34 | Weblog
3月21日 金曜日
千屈菜(みそはぎ) (随筆)
 あいかわらず独り野歩きを楽しんでいる。独りとは、傍目にはそう映るだろうということである。心には、物書きとしての幻のようなわたしがいる。だから、同行二人というところか。
 故郷鹿沼の近郊、「黒川」の河畔や「押し原」の野をさまよい歩くわたしには、この物書きとしての意識がついて回る。
 季節は秋。
 野には草花が咲き乱れている。その仄かな花々のそよぎすら、もうひとりのわたしは言語化しようとしている。いつかこの情景を小説のなかで描出しようなどと、さもしいことをおもっている。
 この性癖のため苦労する。
 このため、風景の中に同化できない。自然にとけこめない。真に、遊歩を楽しめない。そんなわたしを救ってくれたのは風だった。
 幽玄の、趣のある秋の風だった。枝葉をふきぬけ、竹林をながれ、野の花をそよがせる風だった。野末をふく風にはことばにおきかえられることを拒む風情があった。
 風は風。目にはさやかにみえない。
 わたしにできることといったら皮膚で風をとらえ、感じるだけだ。それでいてこの風にはあらゆる芸術の感動に通底するものがある。だが、あくまで皮膚感覚に訴えかけてくる快さで、ことばにはできない。
 肌をかすめる風のもたらす快感に歩みは遅くなる。
 野に佇む。わたしは一歩もさきに足をふみだせないでいる。
 一面に千屈菜が咲いている。一心に眺めているうちに……わたしは周囲の風景のなかにとけこむ。わたしのからだは、野の草花の香りと共にたゆたゆと浮遊し、風にのってひろがる。女郎花の淡い黄色の波頭をゆれ動かす。
 野に佇み、不動の姿勢のわたしから離れて幻のわたしは糸遊のように野をながれていく。
 自然にとけこみ、歌うことができないのなら、言語化できないのなら、いっそ、風になったほうがいい。野の花々や、樹木の群葉や竹林をふきぬける風になりたい。わたしは風。ことばをすてて、風のような存在となって、生き続けたい。
 故郷の山河はそれほど美しい。堤から河原へおちこむ斜面に林立するくぬぎ、ならの繊枝の葉をゆらし、いま咲き乱れる千屈菜の群落にふたたびもどりつく。
 わたしは野に佇んだままでいる。
 花の形姿が萩に似ているところから、溝萩の文字をあてることもある。わたしは「行き行きて倒れ伏すとも萩の原」という、奥の細道は山中温泉で師芭蕉との別離の折、曽良が詠んだ句にでてくる萩を、この千屈菜とおもいこんでいた。
 紅紫色の穂になって開花する小さな花だ。旧盆のころ咲くので盆の花、あるいは精霊花ともよばれている。この花は、たしかに母が庭先から取ってきて仏前に供えていた。
千屈菜を手にした母がいま目前に、いやわたしとともに風に結びついている。
 小説家になろうという志なかばで、病死した友もいる。彼も風になっている。
 小説が書けないからと……自殺してしまった友もいる。彼も風になっている。
 みんなみんな、風にとけこみ、風となっていまここにいる。風と生きている。
 虚空を吹く風となって花々とたわむれている。見回せば、スモスも、シュウカイドウもしおらしく咲いている。河原や野に秋の七草が咲き誇っている。そういえば、さきほどの曽良の句の発案は「跡あらむたふれ臥とも花野原」であった。猿蓑の所収は「いづくにかたふれ臥共萩の原」で再案。このほうは手元に資料がない。どこか、記憶違いがあったらごめんなさい。
 跡あらむ、もいいな。いづくにか、という言霊のひびきもいい。花野原といった華麗な花の野が、現実のものとなる。幻の野ではない。いまここに在る。
 わたしはただ茫然と佇み続けていた。千屈菜の花の穂が初秋の風にゆれていた。そよ風が吹きすぎる。千屈花の群落をぬけて、わたしはさらに歩をすすめることにした。

                      平成9年 全作家40号より転載。

観世縒

2008-03-21 19:47:01 | Weblog
3月21日 金曜日
観世縒 (随筆)
  草稿を起こすまでの不安といらいらした気持ち。書きだせば書きだしたで、作品の成功に対する過剰な期待感。物書きに絶えずつきまとう、こうした苦労については、おおくの作家が書いている。
 では、作品が完成して、最終の終止符を打ち終わったあとは、どういうことになるのだろうか?
寡聞にして、その辺の経緯を書いた文章にはまだおめにかかっていない。
 流行作家であったら、バーへでも出かけて、美女をはべらせお酒を飲むのだろうな。それで、ひとくぎりつけて、明日からの作品のために英気をやしなうのだろう。と、なかば羨み、なかば妬んでおもってみる。
 ぼくの場合は観世縒を撚る。
 観世縒(かんぜより)。紙縒(こより)ともい。観世縒を、カンジンヨリ、とぼくの家では発音していた。<麻屋>を代々世過ぎとしてきた。ともかく古風な商売だった。古いわりには一般には知られていない。結束した一束四貫目の野州大麻をみたことのあるかたはないでしょう。おそらく、いないでしょうね。
 一束の精麻は乾燥の度合いによって、かなり目減りがある。出荷するときには、再貫(もう一度目方を計量)して、荷札をつけかえる。
 この荷札を<貫札>と呼んでいる。ハリガネのついた荷札を父はきらっていた。ハリガネのとげとげしさと西洋紙のがさつな感触が、麻の風味を傷つけるというのだ。それで、カンジンヨリが使用されてきた。和紙を細長く切って、撚ったものを、前はあらゆる商店や会社で、綴じ紐として使っていたはずである。
 いま、カンジンヨリを撚れるひとはいないだろう。
 普通の和紙では弱い。ちぎれてしまう。麻屋が貫札として使うには、目方を書きこむ箇所だけは、撚らないでおくので、そこからちぎれる。水にも弱い。
 そこで栃木の「カミヤ灰」という会社の、懐炉バイの巻紙を廃物利用していた。断ち落しだった。とぼくは記憶している。実は、新しい紙を裁断してもらったのかもしれない。
 小学一年生のころから、ぼくはカンジンヨリの撚り方を父から仕込まれた。厳格だった。左右の親指と人差し指をこすりあわせるバランスがくずれると、ピンとかたく撚り上がらない。ぶくぶくして撚り上がるべき部分が笑ってしまう。
「なんだ。このぶくよりは」
 厳しく叱責された。冬の夜などは、指先がかじかんでおもうように動かない。息を吐きかけながら撚り上げたものだった。
 明日は麻の出荷でいそがしい時には、百本近く撚り上げた。麻屋の全盛期には、百
束、四百貫の精麻をわが家では一日に出荷したことがあった。驚いてしまう。
 いまの金額に換算したら、たいへんな売上高になる。
 
 後年、原稿を書くようになってからも、こうした習慣のなかで育ってきたので、ホッチキスや綴じ紐を使う気にはなれなかった。
 初めて作品を書き上げたときのことだった。カンジンヨリの内側に細字で<般若心経>を書きこんだ。どうぞこの原稿が採用されますように。活字になりますように。雑誌に載りますように。そんな願いをこめた。そのお陰か、処女作「眠られぬ夜の底で」は久保書店の「灯」載った。
 あのころは、原稿が雑誌に載り活字になるということは、ぼくにとっては夢のようなことだった。いまは、カンジンヨリに心経を書きこむ客気はない。ああこの作品を書き上げた、くるしかったな、などと感慨をこめて、カンジンヨリを撚り上げている。
 父は用意がよすぎた。
 麻屋として十年分の用紙を買い置いてくれた。ぼくがこれから生涯原稿を書き続けても、カンジンヨリの和紙にはことかくことはあるまい。冥府の父は、ぼくがカンジンヨリをこうしたことに使うのを知って苦笑していることだろう。
 原稿に千枚通しで穴をあける。カンジンヨリが尖っていれば一回で通る。きゅっと結ぶ。
 原稿を机上に置く。
 つかれた。
 もう一字も書く気はしない。
 ああ、やっと書き終わった。
 大封筒の紙質は万年筆をうけつけない。ぼくが書くと、字がかすれる。かすれた字では先方に失礼にあたるからと、もっともらしい理由をつける。
 宛名は妻に書いてもらう。実際は最後の終止符を書きこんだ段階でもう一字も書けなくなっている。書きたくない。困ったものだ。
郵便局にもでかけない。Yさんのように原稿を投函に行った帰りに車禍にあったらどうする。ということで、「おい。全作家の随筆上がったよ」と、妻に声をかける。ご本人は、どっと横になる。目を閉じる。貧者の楽しみである惰眠をむさぼることになる。
 作品が完成したあとは、ぼくの場合、毎度こんな具合である。
                      昭和57年 全作家11号より転載。


大麻

2008-03-20 17:07:10 | Weblog
3月20日 木曜日
野州大麻 (随筆)
<大麻卸商>と名刺に堂々と刷りこんで、わたしは商売をしている。あいつぐ芸能界のマリファナ(大麻の葉)汚染がおきて、在京の作家仲間からたびたび取材の電話がかかってくる。新聞記者がインタビューにきてくれたりする。とくに昨年はいそがしかった。文教大学の社会研究室の学生さんが、鹿沼と大麻の歴史について調査に訪れたりした。まだまだ鹿沼と〈麻〉という関係はなりたっているのだなと感慨無量である。                                
 わたしが家業を継いだ昭和二十七年前後には、みわたすかぎりの大麻畑が東武日光線鹿沼近辺にあったが、いまでは鹿沼の西北部にいかなければみられない。
 わたしたち業者のいう大麻とは、大麻の葉ではなく、その茎からとる繊維のことなのである。合成繊維(ビニロン、ポリプロピレン)が三十年代にいたって大麻の需要分野を侵食した。業界は壊滅の危機に瀕した。その間のドラマをわたしは今書いている。大麻をその茎からとる繊維としてだけ考えていられたよき時代の物語である。
 書きつづけているうちに、わたしが人間の内面性とか一般サラリーマンの日常を描写するための語彙や文体は所有しているが、麻の栽培、生産、販売にいたる過程の言葉にはいかに無知であったか、思い知らされた。
例えば、「カカチコ」という言葉がある。もちろん辞書などには載っていないはずだ。<麻ひき>をするときにかぶら(根もと)の固い繊維の部分を、ヒキゴで何回もたんねんにひく。そのときの音からきている言葉ではないかと思うのだが、わからない。要するに<一さっぱ>の麻の根にあたる幅広い部分をいう。先にいくほど天然繊維であるから細くなっているのである。
 五歳になったばかりの学が独楽まわしに興味をもちだしていたことを、書斎にこもりっきりのわたしは知らなかった。西早稲田にある仕事場で雑文を書いて鹿沼にもどってきた夜のことである。父親の二日にわたる外泊がこたえたとみえ、都会の夜の余韻ののこっているわたしにしがみついてきた。
「こんどわせだにいくとき、学もつれてってネ……」
「ああいいよ」
「とうきょうでコマ紐かうんだ……。これじゃまわせないよ」
 みせられて驚いた。ビニロン製の三ッコ(片よりの三本あわせ)の三ミリほどのロープをぶつ切りにしただけである。切り口を熱処理してあるが、そのためにかえって固すぎて独楽の心棒にはなじまない。まきはじめると、すべってしまう。
 幼い息子は、東京にいけば何でも売っていると信じている。
「これじゃパパだってうまくまきつけられないな」
 学はわが家が代々麻商の家系を守りつづけているなどということは知らない。
 わたしは麻に口で霧を吹きかけた。よくもみこんでから、カカチコを足の親指にまきつけた。独楽紐をないだした。麻綱をない、芯縄をない……こうして子どもを育ててきたご先祖様を想った。そしてわたしの代で確実に終わりをつげるはずの麻商の歴史をふりかえってみた。
 父親のめずらしい仕事ぶりをみて、学は目を輝かせた。
 撚り合わせおわってから、先の細くなった部分をすこしなめて心棒にまきつけた。紐は木目にすいつくようにぴったりとしている。
 大地に独楽をたたきつけるように、釣り針の形に右腕を回す。独楽が紐をはなれる瞬間、ピシっという、なつかしい、むち音がした。野州大麻だけがもつ柔軟性のためになる音である。そしてさらに、ふさふさとしたカカチコの箇所で止まりそうになった独楽を回転方向にそってたたくと、いきおいをもりかえし、際限なく回りつづけるのであった。
 独楽紐を垂直にたらして一気にふる。冬の寒気を断ち切るような激しいむち音がする。
自然の繊維だけがあげる、なつかしい音だ。外灯をつけて、庭で独楽を回しつづける親子にさらに夜はふけていった。
                       昭和54年全作家4号より転載。


2008-03-19 22:15:00 | Weblog
3月19日
瓦 (随筆)
 瓦への憧憬は幼少の頃からあった。
 明治維新のあと、士魂商才という言葉があるが、母の実家は瓦屋になった。
 剣をもつ手で粘土をこね始めたわけである。そうした、父の苦境におちた環境の激変について、母はぼくによく話してくれた。
 朝の陽光をあびて働く父や瓦職人の姿を実にリアルに話してくれた。 
 まんじゅう型の瓦窯から立ち上る紫煙を、庭先にでて家族全員で眺めたときの感慨など、明治を生きた人々の姿が、強烈な印象となって、ぼくの幼い脳裏にやきついた。
勿論、武器をふりまわすより、土をこねまわすほうが平和でいい。
自然に慣れ親しんで生活したほうがより人間らしい。だが当時は、これを没落といった。ながく停滞した武家政治が崩壊したわけで、悲劇がいたるところで派生した。          
後年、母方の祖父が焼いた鬼瓦をみせてもらったが、素朴ななかにも武士の気魄のこもった重量感あふれるものであった。
未知の未来に向って何か形ある存在を残すのはいいことだ。ご先祖様との繋がりを子孫が親しみをこめて思いだしてくれるではないか。
ところで、わが家の板塀はシロアリにくいあらされてしまった。基底部はすでにボロボロになって塀に片手をかけただけで、ゆさゆさ揺れていた。雨水を吸った部分などは、にぎりしめると角材であったものがまるでミソのように一握りの塊になる始末だった。
 大門さんに頼んで、深岩石の石塀にすることにした。このときになって、瓦のことがふいに脳裏をかすめた。門の屋根には瓦を葺いてもらおう。
雨にうたれた瓦の質感、わびた風情。
 昔、京都を旅したとき、気ままに街を歩き回るぼくの目前にいつまでも広がっていた瓦屋根。母の話してくれた瓦屋の生活。瓦を焼く苦労と製品ができたときの喜び。そうだ、狭い屋根だが門は瓦にしよう、とおもったものだ。
 陶器の色瓦はどうもすきになれない。あまり光沢がありすぎる。色調もけばけばしい。軽薄に映る。祖父の作品である灰色の鬼瓦を初めに見たためなのだろう。
 門の屋根にのせられた瓦は、役瓦もいれて、わずか30何枚かのものであったが、ぼくにとっては、この上もない贅沢であった。
 豪華におもえる。緑の群葉ごしに、朝の陽光が瓦にさしてくる。瓦は光を反射せずに、柔かくうけとめてほのかに光っている。
静寂がしみこんだような光りかただ。
風化のなかでさらに光りは渋さをますだろう。
雨が降ると、湿気によってそのつど様々な表情をみる。 
楽しい。
さっそく、雀がやってきて巣を作った。こ雀の小さなくちばしから鳴き声がもれるようになった。
パパ。
スズメの赤ちゃんだよ。スズメが鳴いてるよ。
小さな舌のさえずりを、耳ざとくききつけた息子の学を抱き上げる。石塀の上にのぼらせる。顎を前方につきだして、門の庇をのぞいている。
パパ。
うごいている。
うごいているよ。
 ぼくは形あるものを、それはぼくにとって完成された小説だが、未来に残せないかもしれない。だが、学の心を通して未来にメッセージを送ることはできる。自然を愛したぼくの心は学ぶに受け継がれるだろう。
 パパ、スズメが巣からはいだしたよ。と学の声がひびく。


腰痛

2008-03-18 17:31:14 | Weblog
3月18日 火曜日
腰痛 (随筆)
 顔真卿の『争坐位稿』の臨書をしていた。このところ俗事にかまけて、創作のほうの筆がさっぱりすすまない。それでいて、きれぎれにやってくる余暇をもてあまして、毛筆を手にした。原稿を書くだけのまとまった時間がないので書道に励んでいた。というと書を専門としている方には不謹慎ととられるだろう。なんとか生活をたてなおし、創作にもどらなければいけないのだが、つれづれのなぐさめとおもってはじめた書にとりつかれてしまっていた。良寛さんではないが、「我と筆硯と何の縁がある」といった心境で飽くことなく反古の山をつくっていた。ともかく、けっこうのめりこむ質なので、冬の朝から硯にむかい、する墨がふいに霙のように凍ったのに心をおどろかせたり、運筆の中途で筆まで凍てつき半紙にすれてがさっと音をたてるのをおもしろがったりしていた。
 そして、ある朝この二階の書斎で書の筆を置き、日光連山の雪をみようと立ち上がったところ、ふいに、尾骶骨のあたりに激痛がはしった。覚えのある痛みである。
 俗にいう、ギックリ腰。椎間板へルニヤである。背筋にそって稲妻の痙攣に切り裂かれた。それは遠い過去のなかに封じこめ、まるでそんな痛みにみまわれたことなど嘘のようにわすれてしまっていたものだった。天災とギックリ腰は忘れた頃にやってくる。などと警句をモジッテ嘯いたところで、この痛みからは逃げられない。おもうに、正座するのが億劫で長いことあぐらをかいて硯にむかっていたので、背筋に過労が凝固し、痛みとなって醗酵してぎくっということになったのだろう。たしかにこの痛みには覚えがある。いままでにも二度ほどおそわれている。そのつど、気が弱くなり、人生の軌道修正をしたものであった。
 痛みとは非情なもの、無情なものである。こちらが誤って塵界に堕ち、金のからんだ雑事においまわされていようが、なんとか生活を立て直し創作に精進したいと悶々と苦しんでいようが、容赦なくおそってくるものだ。
10年ほど前に快癒したときには、散歩などして背筋を鍛えたりしていたものの、いつしかそれもやめていた。これほどはげし痛みに再度やられるとはおもってもみなかった。そういえば、あのときも、やむなくひきうけたレストランを存続するかどうかで悩んでいる最中だった。なにか重大な岐路にたったときにこの痛みにおそわれるような気がしてならない。
 しびれのきた左脚をいたわりながらゆっくりと部屋を横切った。妻が「動かないでいればいいのに……」と掘炬燵から上目使いにいった。  
 石油ストーブが朝からつけっぱなしなので、上のほうの空気がかさかさにかわききっている。錆鉄みたいなとげとげしい感じだ。刺激的な臭いといがらっぽさをともなっている。気分が悪い。びっこを引きながら玄関をでた。枯れ庭を眺める。
 動きがとれないので露縁に座った。座るといっても、尾骶骨が縁板に触れると痛みが頭頂までひびくので、そっと片側の太ももだけで座り、体を支えるといった姿勢をとる。
 そういえば、初めてこの痛みにおそわれたとき、あれは父の死後まもなくであったが、やはりこんなぶざまな座りかたをしていた。妻が石を並べて庭木の周りを囲っていた。
「腰をおとして、背筋はそのままでもちあげるんだ。起重機みたいに石をもったまま上半身を起こすとおれみたいにギクッとやられるぞ」
 小柄な妻に働かせて露縁から痛みを押さえた低い掛け声だけをかけていたものだ。

 もちの木の周囲の石は歳月を経て、苔むし、かすかに大地に沈みこんでいる。あるべきところに配置されているといった風情はなかなかいいものだ。囲いのなかには枯れ落ち葉がかさなり、うらさびた感じをかもしだしている。
 時雨がきて落ち葉や石をたたいている。この侘しい音は、ひととき、痛みをわすれさせてくれる。ボケっと雨音に身をゆだね、このたびの腰痛はいかなる天の啓示なのかとかんがえていた。
 あらゆることを勿論書道もふくめてだが、ほどほどにして、小説を書くことにうちこめよ、ということではないのだろうか。もう若くはない。なにもかも途中で途絶えてしまったら死の床についたとき、恨みつらみでとても往生はおぼつかないだろう。
 鹿沼はもうじき春、千手山の桜が咲くころにはこの痛みも消えていることだろう。
 そうしたら……小説書くぞ。書くぞ。

                      平成5年 全作家33号より転載


鹿沼のマロニエ並木

2008-03-17 12:31:35 | Weblog
3月17日 月曜日
鹿沼のマロニエ並木 (随筆)
 妻の母校、鹿沼高校前の通りに栃の木が植えられたのは、いつの頃であったろうか。いまでは晩春のやわらかな日ざしをあびて円錐花序の白い花を咲かせる並木となった。
 わたしは肥満体におおきなリックを背負っている。買物をつめこんで、かなりのおもさになった。妻は日傘をさしている。
 こうしてマロニエの並木を二人して散策していると異郷で生活しているような錯綜した心のときめきを覚える。生涯出不精。旅などしたこともないが、パリにだけはいきたかったというのが偽らざる感懐だ。
 日傘をくるくるまわすような若やいだ動きはしないが、わたしにとって妻の姿は夢二の絵のように大正ロマンをかきたてる。
「今年は暦どおりに咲いたわね」
 小柄な妻がわたしを見あげ、その頭上の白い花々に視線を遊ばせている。マロニエの花が、といわないのは妻の気くばりだ。パリにだけはいきたかった。わたしのそうした悔恨をかきたてないための配慮だ。夫婦も四十年もおなじ空間で生活をしていると、相手のかんがえていることがわかってしまう。わたしはセーヌ河畔を妻と歩いているつもりになっていた。セーヌ河畔にマロニエの街路樹があるかどうかはしらない。白い花房の群れはまさに花盛りだ。濃い桃色や黄色がまざって風の動きにみえがくれしている。全体としては白い花霞みだが、風のながれや見る角度によって花の色が変化して美しい。
「去年は狂い咲きがあった。秋にもういちど栃の花がみられた」
「栃の花を二度もたのしむことができて、2年ぶん生きたここちがしたわ」
「今年はああした陽気にはならないだろう」
「またあるといい。毎年二度咲きしてくれればいいのに。人生をこれから倍も生きたことになるわ」
 日常の中で、心の生活の密度を濃くしようというのが、わたしと妻のねがいだ。いつの日かこうしてつれだって歩くということはできなくなるだろう。すこしでも、この時間をひきのばしたいという気持ちがふたりにはある。
 日傘をさした妻の姿がわたしは好きだ。夢二の女たちの世界だ。すんなりとしたうなじから背にかけて、木漏れ日が揺れている。木陰がつづくので、日傘をたたんだのだ。
(お葉さん、そこのけそこのけうちの美智子さんがとおる)
 人にきかれないように、ざれ歌のように小声で唇にのせ、妻とつれだってあるく。不運つづきの身にとって、唯一の安堵と心の高揚をともなう時である。……いつまでつづくだろうか。
 両親の看護のため故郷鹿沼にもどった。妻と出会わなかったら……。初デートで街をぶらついた。あれからふたりして、どれほどの距離をこの鹿沼であるいたことだろう。由あって文学浪人。などと、粋がっていたのは、四十歳までだった。売れたり売れなかったり。コンスタントに書き続ける筆力もない。非才の身にとっては、両親の死後、おもいきって東京にもどることもできなかつた。そして、今では病んでいた父母の歳にわたしがなってしまった。無常迅速。年月のながれが急に速くなった感じがする。妻が病んでいるとわかったのは、去年の返り咲きの栃の花をみた季節だった。病に倒れる不安をかかえた妻はいっそう美しくかがやきだした。まさにもどり咲き、若やいだ感じだ。
 マロニエの並木が尽きた。妻が日傘をひろげた。わたしは絵描きでないことを悔いていた。
「もうそろそろ栃の花も散りはじめるころね」
 校庭からは、高校生の歓声がきこえてくる。
 華やいだ声が春の空にひびく。
 マロニエ。パリ。青春。昔の春。小説。マロニエの並木。

                      平成12年 全作家50号より転載。


大和と思へ

2008-03-16 12:07:13 | Weblog
3月16日 日曜日
大和と思へ (随筆)

早春の朝まだき、散歩にでる。JR鹿沼駅を眼交いにみて左折。コスモ石油の角をさらに左折する。風景がふいにひらけて、野趣豊かとなる。遠景にいままさに木の芽がふく雑木林が見えてくる。大和は立野をおもわせる、おだやかなもりあがりをみせた丘稜地帯の林は、薄淡い茶緑色にけぶるようなつらなりをみせている。
 商用で若いころ毎月おとずれていた、奈良県生駒郡三郷村立野のあたりは、還暦をすぎてにわかに万葉集を読みだしたわたしには、懐かしい土地となっている。万葉の歌に青春の初めの季節から馴染んでいたなら、と悔やまれる。あの日々にもどるこはできないが、立野をふくめた大和の地を再訪してみたいと思う。
 それまでは、故郷鹿沼の野をあるこうと思い立っての彷徨であった。ところが、故郷の野にでてみると、記憶にある立野の近郊の風景とさほどかわらない素朴な田園風景がひらけているのを知った。
 ただ、残念ながら歌枕としての地名をなしてはいない。文人がいなかった。歴史にのこるような歌人、俳人との交流もなかった。
 まったく土地のひとだけの自然、そして地名ではあるが、ここちよい万葉の歌枕のような呼び名の山や林や川がいたるにある。自然に基ずいてなずけられた地名は、言霊をやどしている。おりから、梅の花びらがちらほらと散っている。鶯のさえずりもしだいに鶯らしくなってきた。地図を片手にそうした地名をたしかめ、鳥の鳴き声に耳を傾け、花をながめ、ひとり歩きを楽しんでいる。
 春霞いよいよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ
 という、前川佐美雄の下の句をもじって、……春霞いよいよ濃くなる真昼間の故郷の景色大和と思へ……大和と思へ、とお題目のようにとなえつつ歩を進める。
 畦道に踏みいる。おもいがけず、丘の裾を小川が流れていた。いまどきめずらしい、人の手の加えられていない流れだ。つつましやかな川音に佇む。自然と朽ちたような樹木が横たわっている。腰をおろす。ひび割れた朽木色がいい。苔むした樹肌もいい。倒木に腰をおろしたわたしの影が川面に映っている。せせらぎは、JR日光線に沿って流れている。両側の土手から枯れたすすきが<立ちよそいたる>、とおもわず万葉調で表現したいように流れを飾りたてている。小川におおいかぶさるすすきや枯れ草のなかで小鳥が鳴いている。
 風のそよぎにはすでに春の風情がある。ここは武子川の源流である。
 さらに北に向かって歩き出せば、前方に古賀志山がせまってくる。この山がすきで、わざわざ都会から描きにきた友とはいまは、音信がとだえている。山はごつごつとした岩肌を露呈している。そのうち新芽におおわれてやさしい表情をみせることだろう。
 人とのつきあいは年々うとんじられる。あれほど饒舌にたたかわした芸術論議もいまは、むなしくさえ思われる。還暦をすぎてから、人のつきあいが億劫になった。まさに、偏屈ジジイへの坂道をころがりおちるような日々である。
 この年頃になって、故郷の自然と出会ったことは、さいわいだった。このところむきになって、野を歩いている。もうじき鹿沼の里も桜の季節。朝の散歩がさらに楽しくなる。


春の朝

2008-03-15 07:31:53 | Weblog
3月15日 土曜日 晴れ
春の朝 (随筆)
 わたしを目覚めさせたのは、春猫の異性に甘える鳴き声だったのだろうか。新聞配達のバイクの響きであったのか、さだかではないまま二階の書斎にあがる。
 季節は春の兆しをみせていた。みはるかす北、古賀志山の中腹に朝霞が麻布を川で晒すようにたなびいていた。曇ったようなどろっとした青空のもと、家々の屋根からは陽炎がもえたっているようであった。
 また鹿沼の里に春が巡ってきた。故郷に隠棲することにきめ、「物皆な幻化」といった無常迅速をしみじみと……体感しながら、自然の山野をともとして生活するようになって、はや二十年、全作家の創立から今日にいたる年と重なる。わたしにとっては、不惑から還暦へと変転した歳月でもある。
 全作家の七号に「人間もどき」を載せていただいたのが昭和五十六年の冬。散文芸術の三十四号に「故郷とても鬼の棲家」を発表したのが、同じく五六年の春であった。純文学としてはそれだけである。あとは、故郷で「現代」誌を再興し「下痢」を連載半ばで挫折、商業誌には幾多のペンネームでおはずかしい作品を書きつづけている。おおくの仲間がわたしを追い越し「賞」を取り、有名になっていった。あまり気にはならなかった。文学だけで生きていこうとはおもわなかったし、文学そのものに、大した価値もおいていなかった。田舎住まいが長引き過ぎたためだろう。
 書き急ぎ、はや鬼籍にはいった友もいる。文学だけに半生を賭け、無名のまま憤死したものもいる。観念として理解していた死や無常観を身をもって体得してきた。
 全作家でお世話になった先輩の何人かにも、お礼の一言も言えぬまま去られてしまった。おもえば、全作家があり、その存続がたいへんな励みとなってきた。
 田舎にあっては、あるいは都会であっても文学青年という言葉は死語にひとしい。
まして、文学中年、老残とも呼ばれる日々がすぐそこまできている。残念ではあるが、文学に命を賭ける、などということも、もはや、あまり聞かれない言葉となっている。
 神田の古本屋街がスポーツ運動具店に変わってしまう。
 早稲田でも、息子のマンションからぶらり高田馬場まで散策したところ、「テレビは本屋の敵だ」などと過激な文句が墨痕鮮やかに垂れ幕にかかれて下がっていたりした。馴染みであった古本屋が消えていたりした。そして、細々とつづけていても、ああ劇画の古本の山なのであった。
 活字文化はどこへいったのか。文学はわたしが、田舎でやれ方法論だ、ヌーボロマンだなどと、十年一日のごとく悩んでいる間に、どこにいってしまったのだろうか。売れればいい、そういった作家はいる。すごくおもしろい物語をかく作家はいる。それはそれで素晴らしいことだと思う。文学だ、芸術だとこだわる作家は大学の先生でもなければ、生活が成り立たないらしい。文士気質の作家の生息の地はもはやこの日本には無いのであろうか。この世でもっとも希少価値がある種族としての文士といわれるような物書きはもういないのかもしれない。などと考えながら馬場まで出て、モンテールでコーヒーを飲みながら、レフトアローンをきいた。出来過ぎた話しではないか。
 こうなってくると、全作家の存在が輝きだしてくる。
 詩人が詩では食えないように、純文学の作家が小説では食えない時代がきているのである。
 売れれば貴族。無名であれば乞食。といったような、芸術性など無視した、悲しい言葉をなんどもあびせられてきたことか。
 しかし、全作家のような形態で雑誌を発刊しつづけるということは、既存のいかなる商業ジャーナリズムに毒されるともなく、悠々と作品を書き発表したいとねがっている全国の物書きにとつては、なにか最後の砦のようにおもえてきた。まるで、文学の今日を予感したような雑誌になってきた。
 読書をする人がすくなくなっている。ますます先細りになっていく純文学。全作家のような組織と雑誌は力強いかぎりである。
 そして、文学にそれほどの価値を見出せないできたわたしが、半生の苦境を癒すにはやはり書くこと、「ああ、やはり文学だ」とおもうようになった。
 ときあたかも春、古賀志山にたなびく霞をみながら、死と再生についてかんがえることしきりである。
                 平成6年発行 全作家第三十五号より転載。


蛸壺

2008-03-07 20:46:20 | Weblog
3月7日 金曜日 晴れ

蛸壺 (随筆)
 明石は「柿本神社」の前に小さな句碑があった。震災後のことで、ゆがみや凹凸のはなはだしい石畳の参道の脇にたっていた。
丸っぽい自然石に夏の日が照りつけていた。蝉の声もする。向こうに倒れかけたさんもんがみえる。天災にたいしていかに人の世が無防備であるか、脆弱なものであるかをおもいしらされた。句は、
蛸壺やはかなき夢を夏の月
と、読めた。そういえば、芭蕉、「笈の小文」の旅の西の極みがここ明石であった。淡路島が明石の海の彼方、いがいと近くにみえていた。夏の温気のなかに霞み夢幻泡影の感懐をもたらす。明石大橋をかける工事がなされていた。そのためか、わびさびの感銘にはいたらなかったが、海青色の波のきらめきがまさに夢幻の趣をそえていた。
半世紀も昔のこと、戦争が終わり野州麻が軍の納品から解放された。そのころ、藁縄ではすぐ腐るからというので、蛸壺の引き上げロープの注文がわが家にもたらされた。
むろん健在だった父がこれで平和になるんだ。平和になる、とくりかちえしていたのを覚えている。
軍馬の轡や軍需のロープの製造にしかまわせなかった麻が民間の需要にこたえられるようになったのだった。その記憶があった。後年この句を知った時、えらく感動したものだった。
しかし、いまはまた、ちがった読み方をしている。稼業である「麻屋」を不本意ながらも継いだ。すでに斜陽産業であった自然の繊維を原料とする芯縄と「大麻商」をつづけて還暦がすぎた。その間、小説を書き、商人と物書きの相反する悩みをかかえてきた。
頭髪も抜け落ち蛸まがいの頭になっている。芭蕉翁よりもすでに、馬齢をいたずらに重ね俗世にどっぷりとつかっている。物書きとして生きていきたいとは思っても、才能も時間ももう私には残されはていない。こんな訳ではなかった。これもわが性のつたなさとただなげくのみである。
蛸壺の中のように身動きができないほど日常の生活圏がせばまり、このままさらに老いていくのかと嘆く身にとっては、はかなき夢が実感としてとらえられるようになっている。
芭蕉は江戸にでる際の夢であったろう市井の俳諧宗匠としての小市民的な生活をこばんだ。苦労のすえ獲得した職業俳人としての生活を捨て、専門俳人たることを望み、ただひたすら芸道に励むことを志し、三十七歳で深川の草庵に隠棲する。上野をさるにあたって、望んでいたはずの宗匠となる夢をはたしたはずなのに、それをいともあっさりと捨ててしまった。その情熱と決断はどこからきているのか。
その後、十数年「笈の小文」の旅では西をめざし、この明石にたどりついた翁が蛸にたくした、はかない夢とはどんな夢だったのだろうか。そして臨終にいたるまで、かけめぐった夢とは……なにか。旅と草庵の生活にあけくれ、たえず流行をもとめ、新しさは俳諧の華といった翁の俳諧にかけた捨て身の構え。野晒し覚悟でみた夢。たえず脱皮変身して新しさを求めた芭蕉の夢をかんがえていると「ジィチャン」と孫娘が境内から呼び掛けていた。西宮に住む娘家族のところに、遅れ馳せながら震災の見舞いを兼ねてやってきた。それは建て前で、本音は孫に会いたさがこうじての旅であった。
明石まで足をのばして出会った芭蕉の句碑である。
妻をうながして鳥居をくぐる。
孫がよちよちとちかよってくる。
わたしの夢は、……夢はとかんがえてみても、なにも浮かばない。翁の句をもういちど舌頭にころがした。

「蛸壺」は日本作家クラブのその年の随筆賞をいただた。賞品のモンブランの万年筆は大切に使っている。孫娘は中学二年生になっている。 「随筆手帳」より転載。