パッシブな戦い
暑い。
汗が額をつたう。蒸気が視界と呼吸を阻む。目の前にでっぷりとした腹を蓄えるおやじが座っている。
(こいつより先に退室してたまるものか)
サウナ我慢勝負を一人密かに始めてしまった。
当たり前だが暑い。
ここは週末のサウナ。仕事帰りに利用しているが、駅から遠い立地の悪さからなのか、人気は無く、閑散としている。誰もいない空間を独り占めできるはずだった。しかし、今夜は先客がいた。
俺は後からこのサウナに入ったのだ。負けるわけにはいかない。この熱気うずまく空間から先に出た者が敗者だ。
十分経過。おやじは微動だにしない。
「明日は雨らしいですね」
私はたまりかねてどうでもいい事を話しかけた。
「……」無反応。表情一つ変えない。その対応から私はさらに闘志を燃やす。(絶対にこいつより先にここから出ない)
さらに十分経過。
もう限界だ。目の前がちかちかしてきた。私は奥歯をかみしめて立ち上がり、ドアを目指す。敗者が歩む道だ。急に立ち上がったことと、我慢しすぎた事で私の意識が一瞬とぎれた。
おやじの方によろめく。衝突する。瞬間的に身構えた。何の感触も無く、私はベンチにひっくり返った。おやじをすり抜けてしまった。
何事も起こっていないかのようにおやじは無表情のまま座っている。
私は暑さと恐怖で部屋から転がるように外に出る。
ロビーの光景に私は再び声を失った。室内でみたままの格好のおやじがロビーにいた。ただし、頭は下にあった。コマの支点の様に頭の頭頂部が床に接して上下反対になっている。しかも作り物のマネキンだ。
その姿が壁に開いた小さな穴を通してピンホールカメラになっていた。
蒸気をスクリーンに反転した像を結んだのだ。この場合元々が反転しているマネキンなので反転の反転で正位置の映像を形成していた。
人寄せマネキンにしては心臓に悪い。