-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

自動押切(藁切り機械)

2014-10-04 17:23:19 | 民具

 もう約60年も前のお話です。牛、馬、山羊などの飼料は、主食用に先ずは藁(わら)を2cmぐらいに細かく切りまました。それに台所から出た残飯、野菜くず、米の研ぎ汁を混ぜて、最後に両手で小糠(こぬか)をまぶせば出来上がりです。とても私には美味しそうには見えませんが、牛などは喜んで食べていました。

 ところで、藁を細かく切るには、普通は「押切り」という刃物を使いました。押切りを土間に置くか飼葉桶(かいばおけ)の上に置きます。土間に置く場合はさほど問題はないのですが、飼葉桶の上において押切を使うのは、小さい小学生には大変でした。左手で藁を掴み右手で刃を向こう側に押し出します。実に危なっかしい作業でした。

 その大変な作業を自動的に行うと言うのが、この写真の道具でした。箱の中に藁を1、2束入れて箱から突き出た棒を上下します。すると、箱に内蔵されている大きな歯車が作動して、藁を少しずつ刃の方に押し出してくれます。棒を何度も上下するだけで危険なく藁が細断されるはずでした。しかし、実際は切れ味がすこぶる悪かったのです。殆ど使われることなく小屋の隅に眠っていました。

 その機械は、平成3年ごろに家屋を解体した時に処分してしまいました。この写真の機械はその時の物ではなくて、後年、義兄が興味を持ってもらってきたものです。

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ハンガーでもえもんかけ(衣紋掛け)でもありません

2014-06-26 18:16:44 | 民具

 何やらごっついハンガーのように見えますが、人間様には関係がありません。「ベゴ(牛)」が荷車を引くときに使いました。今から50年ごろ前までは、畑沢の主要な運搬車両は、牛がけん引する荷車でした。当時の牛は、大変な働き者でした。荷車をけん引するほかにも、田んぼや畑での耕運、代掻き、堆肥の元となる糞尿の排泄までやりました。一家の大事な働き手です。

 今は使わないのですから、残しておく意味がないのですが、中々、捨てられません。

 この写真の道具は、牛の肩あたりに掛けて、ベルトを首の下に回します。左右に伸びた棒の端には、金属の輪が取り付けられており、ここに荷車から伸びた取っ手を結びつけます。牛と荷車を結びつけるその外の道具もあったような気がしますが、どうしても思い出せません。何しろ、年端もいかない可愛いただのスビタレでしたからしょうがありません。それでも、この道具だけでは、牛は背中か首が痛いような気がします。きっと何かがあったと思います。

 牛が荷車を引かなくなったのは、耕運機が入ってきてからです。耕運機のお蔭で、牛は田畑の耕運もしなくなりました。しばらくは、堆肥の元を出して肉牛として売られるだけになりましたが、さらに肉牛の飼育もなくなり、各家から牛が消えてしまいました。

 でも、牛が引いている荷車に乗った記憶は鮮明です。中畑(なかばた)から荷車に乗って沼澤へ行き、夕方は山のように積載した収穫物の上に私たちが乗っていました。牛ですからゆっくりと動きます。家に着くころは、大分、暗くなりました。今、考えると異次元の世界のようです。のどかな風景です。あれから日本の経済が鰻上りに大きくなり、各家の収入が増えたのですが、誰もが忙しそうに動き回り、なんのための経済向上なのでしょうか。労働時間は長くなるばかりで、おまけに政治は懐古主義(時代錯誤)のオンパレードです。サイコパス的な人たちによって、いいように踊らされているようです。踊らされるのを止めて、ちょっと一息入れましょう。本当の自分を取り戻しましょう。

 リタイアすると、言いたいことを言えます。現職の方はそうはいきません。

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「おごさま」の網?、篭?

2014-06-19 14:14:24 | 民具

 今、桑の葉がグングンと成長していますので、昔のこの季節には、既に蚕を飼育していた(おごさまかってえだ)ような気がします。蚕が小さいうちは、食べる量も少なく、スペースも狭くて済みますが、やがて成長するととてつもなく食べ始めます。スペースもどんどん広がり、私たちの居間さえも占領されてしまいました。何しろ蚕は「偉い」ので、おご様と「様」付けで呼ばれていました。それに比べて、私はスビタレと呼ばれていたのですから、蚕よりも下に見られていたのでしょう。

 写真の丸い網の様な篭の様なものは、蚕がまだ大きくなる前に使われました。ただし、昭和30年代の初めごろまでは、大きくなってからも、ずっとこの網が使われていました。30年代半ばごろからは、蚕が大きくなると床又は地面で直接、飼われ始めました。網で飼育する場合は、蚕が落した糞尿を桑を与えるたびに取り除きますが、床又は地面で飼育する場合は、糞尿を片づけずにそのまま桑を上に積み重ねていきます。それだけ省力化できたようです。

 この網は、「網」と言うには目が大きく、材質も硬い笹です。材質から言えば、「篭」と言うのが適当かもしれませんが、平べったいので篭とも呼べません。でも、何かの名前があったはずです。ここでいつものようにお願いします。名前を教えてください。できれば畑沢語でお願いします。

 

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石臼も畑沢製だと思います。

2014-03-12 18:36:08 | 民具

 ブログへの投稿も大分、久しぶりのような気がします。何せ、恥ずかしながら大きな勘違いをしていて、gooブログでのお別れをしていました。それ以来の投稿です。

 ところで、このたび、尾花沢市内に住んでおられる方々と、NPO法人を設立しました。「特定非営利活動法人おもだか水辺の生き物保全会」と言います。大変に長い名前ですので、ニックネームが必要な気がします。山形県内には、まだまだ誇るべき生き物が生息しています。しかし、環境の変化で風前の灯となっている所があります。故郷の大事な宝物を守ろうとして、仲間が立ち上がってくれました。

 

 さて、今日は我が家に伝わる宝物を紹介します。石臼です。畑沢で使ったことがあるようなないような、曖昧な記憶です。存在していたことだけは記憶しています。今から15年ほど前に、愚息の保護者会で「ソバ打ち教室」を行いました。それから、つい、ソバ打ちにのめり込んでしまい、栽培(畑沢で)、脱穀をして、石臼で製粉することにしました。石臼は畑沢の小屋で転がっていたものを、適当に組み合わせて持ってきました。上と下がちぐはぐです。苦労して脱穀までしたソバを石臼にかけました。なんとか粉にしてソバを打ちましたが、食べるとざらざらした物が入っていました。どうも、石臼から欠け落ちた石屑でした。それでも家族を騙しながら、全てを食べてもらいました。二度とソバ打ちはしなくなりました。

 この石臼は何だったのでしょう。よく見ると、普通の石臼ではないようです。普通の石臼は、花崗岩や玄武岩でできていて、硬くて緻密な構造です、ところが、この石臼には粒状のものが入っています。石英か長石の礫が混じっている凝灰岩のようです。とすると、石材の産地は畑沢と考えられます。昔、畑沢の奥に「ろうでん」という石切り場がありました。そこで採石された石材で石臼も作っていたようです。その石切り場では、「米突き(昔の精米方法)」に使う大きな石臼を作っていました。精米だけでなく、製粉用の石臼もありました。

 

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昔の多人数用の弁当箱です。

2014-02-07 21:46:01 | 民具

 昭和30年代の田植えの時、わが家にも何人かが手伝いに来ていました。家族も総出ですから全体では、十人ぐらいになりました。お昼は、田んぼの脇で食事を取りました。大勢の人が食べるおにぎりの量は、半端なものでは足りません。この大きな樽型の容器にいれてありました。この容器は横幅が50cmぐらいはありますが、びっしりとおにぎりが詰まっています。

 おにぎりと言っても、当時、まだ高価だった海苔は使われていなかったような気がします。胡麻をまぶした塩おにぎりの記憶があります。今の時代から見たら、お粗末なものですが、労働の後の食事は何でも美味しく感じられました。

 もう長年の間、使われなくなり、木を食べる虫が入り込んでいます。もう少し時間ができたら、虫を退治して剥げ落ちた漆も塗り直し、「復活」を試みるつもりです。

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