前回の返答書の現代語訳は、訴訟内容の確認でしたが、いよいよ「返答書」の内容は、反論部分になります。具体的事例を挙げて、徹底的に反論していきます。反論はかなり長い文章です。今回も途中で疲れてしまうかもしれませんので、御勘弁下さい。なるべく頑張ります。今回は、先ずは歴史から見た背中炙り峠の「天下の公道」の説明と周辺の村々の峠との関わり方を説明します。
今日の応援は、背中炙り峠付近の弘法清水に祀られている水の守です。
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このことについて、惣内の外七人が返答申上げます。右背中炙り峠の道というものは、はるか昔、奥羽の太守であった藤原秀衡公の平泉居館へ、羽州の諸侯が往来した街道に相違なく、故に日本道中記行程記にも明らかです。かつ、最上出羽の守義光が山形に城を構えていたころは、延沢能登の守が右背中炙り峠を行き来し、その後、寛永年間、鳥居佐京亮様の御領分だった時は、延沢銀山が大いに盛りの山だったので、家の数は四万八千軒余り、延沢村には月に六日も市が立っていました。延沢銀山から産出される銀は、背中炙り峠を通って江戸表へ搬出・駄送されました。それから引続いてこれまで、商人の荷物は勿論のこと、村々から産出される物を駄送してきた仕来たりがあり、横道などでは全くありません。
なお、楯岡村は鳥居佐京亮様が転封されて以来、幕府直轄地になっていて、田口五郎左衛門様が支配されるまで、尾花沢と楯岡は同じ御支配でした。尾花沢も楯岡も同様に続いていて、村々から楯岡村へ睦まじく売買をして、その利益で村々は年貢を納めてきた仕き来たりがあります。ところが、このごろになって、新たに背中炙りの道を差し止められては、百姓は相続できずに転出する者も出てくるのは歴然としています。そもそも、村山郡は穀物その他の物を相互に融通しなければ、一郡が穏やかならざる基になる恐れがあります。特に延沢村については、松平清右衛門様十万石の陣屋だったところで、楯岡その外の上郷方面は延沢村陣屋付でした。年貢金その外は江戸表へ背中炙りから駄送していました。なお、仙台その他の諸国から御家中方が背中炙り峠を通行されているのに、横道などと言われるのは心外至極です。
かつ、お上から言い渡されたことには、田舎から送り出す品々は誰へも勝手に送ることができ、並びに、川岸のことについてはこれまでの仕来たりにも拘わらず、どこの川岸であっても都合の良い所で船積み・水揚げができることを天保十三寅年の六月中に日本国中へお触れがありました。寛政十年以降では、米津越中の守様が背中炙り峠を通られて、御巡検されたときが時々ありました。御領地の米穀、産物等はこれまで日々、背中炙り峠を長瀞表へ駄送されていました。訴訟人たちが横道などと言うのは、不法千万のことと申し上げます。
もっとも、背中炙り峠は、前に申上げましたとおり畑沢地内にありまして、右の村々は東西が険しい山になっていて、平山と言えるのは背中炙りの山だけで、百姓には農作業第一の草刈り共同の場になっています。日雇い人馬が行き来して楯岡の市へ行き来して百姓は相続しているような村です。もっとも、山寄りの村ですので、農作業の手が空いた時は山に励んで市場へ上郷辺りへ運送し、産出した品物と交易することによって朝暮れには煙が立てられる相続をしている者が多くいる村でございます。
なお、細野村につきましても畑沢村と同様に極めて深い山の谷間の村で、村の生産量は、六百四十八石七升、戸数八十五軒あります。石高が戸数に相当しないのは、普通の年でも百姓が食べるものが不足し、他に金銭を得る品物もないので、山仕事に励んで生活しており、畑沢村同様に楯岡村の市場へ運送して交易することによって、お金の上納に差支えないようにやってきた慣習の村だからでございます。
大貫治右衛門様が治められていたころ、既に穀物その外の産物等を背中炙り峠へ通すことを差止めされたことについては、畑沢・細野村・延沢村へ仰せ渡しがありませんでしたし、はるか昔からこれまで、穀物その外のものも背中炙り峠を滞りなく駄送することを仕来たりにしてきました。特に、荒町組には近辺に野山がなく、草刈りをする秣場(共同の草刈り場所)がないので、はるか昔から畑沢村へお金を払って背中炙り峠へ罷り越して、日々、通って草刈りをしていた組でございます。然(しか)るに、右の道筋を差し止められては、田んぼを相続していくこともでき申さず、難渋至極でございます。