早春と言うか冬の終わりに、毎年のように畑沢の山へ山スキーで遊びに行っています。令和4年は、3月11日になりました。この日は東日本大震災の犠牲者に毎年、黙祷を捧げてきたのですが、今回はどうしても11日以外の日を選ぶことができませんでした。登るのに良い天気は、朝が冷え込んで雪が固くなり、その後は晴天となることです。予報が的中し、朝はマイナス6度、日中は10度まで気温が上昇しました。
登る山は畑沢で三番目に高い山(442m)です。名前は知りませんが、子ども時代から「いつかは登りたい」と狙っていました。畑沢の最高峰、大平山(813.6m)から1,840m北に位置しています。何万年か何十万年かは知りませんが、ずっと昔には大平山と一体だったと見られる地形です。恐らく、大平山の山腹が地滑りなどを起こして、さらに大きく侵食されて二つの山に切り離された雰囲気があります。
登り始めの時間は11時近くになっていました。下の写真の正面がとりあえず目指す山です。最終目標の山頂は、この山の奥です。私の進路方向には動物の足跡があります。イノシシ、カモシカ、ウサギでないことだけしか分かりません。
登り始めが最も急傾斜です。さらに一年に一度しか使わない山スキーですので、中々、リズムを掴むことができずにハアハアしながら登り続けました。
急傾斜はまだ続いていますが、杉林の上に出ると妙に解放感が湧き、まだ30分しか経っていないのに、休憩することにしました。スキーを履いたまま下の方を斜面に突き刺して、どかっと腰を落としました。
高くなって視界が開けてきました。屏沢を挟む向かいの山が浮かび上がっています。手前の杉木立は不動尊があった場所です。5年ほど前に雪に押しつぶされて、今は屋根だけが残っています。その屋根をイノシシが根城にしています。イノシシは、冬はそこから向かいの斜面に登り、地面を掘り返して餌となるミミズや植物の根などを食べているようです。何度も同じルートを通りますので、雪面が泥で汚れています。
ようやく尾根の上に着きました。中畑沢では、「タイラ」と呼んでいる場所です。「平」の意味です。なだらかな斜面は貴重です。昔はここも畑として利用されていたようです。そして私たちの小学生時代には、極上のスキー場でもありました。100mぐらいの直線コースを作れました。蔵王スキー場ならば、上ノ台ゲレンデの緩斜面程度です。長い滑降コースでは、当時、常盤小学校の朝会で教わった「山はしろがね、朝日を浴びて滑るスキーの風切る早さ……」を口ずさんだものです。小さなジャンプ台も作りました。そして頭から転んで雪の中に突っ込みました。
ここまで小学生だけで登って来ました。その経験が私に力を与えてくれます。
どういうわけか、ここにはカラマツがあります。昔、植林したものでしょうが、建築材料になりませんし、製紙用のパルプとしても使われない様です。私は、これを使ってここに山小屋を建てたら面白いだろうなあと空想してみましたが、いつもの下らない妄想の類です。
ここまで登ると、遠くの山々も見えます。右の方には二ツ森と翁山、左には神室連峰です。
さらに登って思いがけないものが見えました。葉っぱが落ちて、尾根の形がくっきり見えます。黄色の楕円で囲まれた中心は、戦国時代に村人の城であった「上畑沢の楯跡」です。こんな小さな尾根の一角に造られています。発見は2年前でした。
とうとう山頂に到着です。南へ大平山が見えます。
畑沢と細野の境をなしている大平山の尾根を見ると、畑沢側には木が茂っていますが、細野側は疎(まば)らになっています。細野地区は働き者だから、木を切ったのかなと思いましたが、望遠にして拡大すると別の理由でした。この尾根は山の東西を分けています。尾根の東側には雪庇が出来ていて、東側が雪の吹き溜まりになっていることが分かりました。東側が積雪量が多いので、雪が木を覆っているのです。朝日連峰、飯豊連峰、神室連峰でも東側には大量の雪が積もって、樹木が上へ伸びることができません。この大平山でも似た現象があるようです。
展望の素晴らしさは、さらに面白いものを見せてくれました。下の写真は背中炙り峠の楯跡がある所です。黄色の丸の中には堀切が見えます。木々に葉が生い茂っている夏は見通しできないのですが、この日ははっきりと段差を確認することができました。この堀切は5mぐらいの深さです。現場では、この形を確認することはできません。
頂上に着いて一番の楽しみは昼食です。握り飯、みそ汁、ジュースとささやかですが。最高の御馳走です。
登りに1時間半、下り30分の行程でした。未熟な山スキーの技術ですが、それでも下りはスキーらしく瞬く間でした。