-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢出身の高齢者 スキーを履いて蔵王に立つ

2025-01-07 14:21:05 | 近況報告

 令和7年1月5日(日)、同年代の友と二人で蔵王ライザ・スキー場へ行きました。もう一人にも誘いをかけたのですが、一言。

「無理」

 私は毎日、標高差が約百mの近くの山家城址へ登っているから大丈夫だとの自負がありました。

「スキーぐらい。ちょろいものじゃないか」

 何しろ、この年でも畑沢出身者としての意地があります。尾花沢市立常盤小学校のスキー大会では、畑沢の男の子は全員が一位であることが当たり前でした。スキーで逃げる訳にはいきません。でも、高齢者としての自覚はあります。若い時よりも少しだけ大人しく振舞うよう心がけています。

 リフト1回券は八百円、11回分の回数券は五千五百円、シニアの一日券が四千円。この後、今シーズンは来ることがないので、一日券を購入しました。昼近くに来て一日券ではもったいないのですが、それでも、一回券や回数券よりもぐっとお得です。

 新型コロナ禍が過ぎてスキー客が昔のように賑やかになっていると思っていたのですが、もうリフト乗り場に大きな列を作って待っているような光景はありませんでした。ガラガラ状態で、いつでも直ぐに乗れます。日曜日でゲレンデ到着が午前11時ころだったのに、駐車場にもしっかり余裕を持って停められました。私たちには嬉しいことですが、スキー場の繁栄を知っている者としてはすこぶる寂しい気持ちです。

 

 スキーの滑り初めは、慣れるまで少しぐらつきましたが、何度かして慣れることができました。しかし、息がハアハア、昔ほどには戻りません。でも、まあまあです。

 とまあ、リフト3回分ごろまではそんなところですが、その後が大変です。急斜面でターンしていると、カーブ外側の太腿への荷重が半端でないほどに感じます。痛いほどです。まさか、こんなことになろうとは。一緒の友だちは息も切れていないし、足も何ともなく余裕しゃくしゃくです。さらに私のことを気遣ってくれます。

「昼食にしましょうか」

 私に異存がある訳がありません。食堂では多くが親子連れでした。大きな窓からのリフト乗り場とゲレンデを眺めることができます。暖かい場所で外を眺めているのは気持ちのよいものです。

「ずっと、こうしていたい」が、正直な気持ちでした。

 

 勇気を振り絞って食堂からゲレンデに出ました。二、三度滑ってから最上部へ行きました。樹氷原の標識の前で記念写真を撮ってもらいました。

 そこから降りるところには災難度の「かもしかコース」があります。ここで、初めて恐怖感が湧きました。できるならここを避けたい。昔の私なら喜んで斜面に突入したのですが、今回はもう疲れて膝に自信を持てません。這々の体で何とか下に降りました。

 結局、合計リフト回数は8回ぐらいでした。最終回の滑りは、滑りとは言えなく、ただ降りて来ただけです。完膚なきまで叩きのめされたような状態でした。それでも、何度も転倒しましたが、自分が怪我をしなかったし、他人にも怪我をさせませんでした。これは、高齢者であっても畑沢出身のスキーヤーとしての誇りです。


久し振りに「背中炙り峠の楯跡」へ行ってきました(その3)

2025-01-03 16:56:27 | 歴史

 主要部の地図に示した「堀切A」へ向かいました。一帯が刈り払われていて、視界が開けています。私が調査を始めた10年前もこうだったらどんなにか楽だったでしょう。

 この先真っすぐに進んで、展望が開けた場合、どのように堀切が見えるのかと思うとわくわくしてきました。一段、下ると堀切があります。堀切の先端に小さな土塁が見えます。

 

 堀切の全貌を眺めるのは初めてです。これまで、何度もこの堀切を撮影しましたが、立木が邪魔しました。あらためて下から眺めると、この堀切の見事さを感じ取れます。背中炙り峠の楯跡は、全体的に未完成の楯だったと私は考えており、何処も彼処ももう一歩手を加えるべき部分が残っています。しかし、この堀切だけは完全な形になっており、下からの侵攻を十分に塞ぐことができます。空堀の中には伐採された大木が横になっています。

 斜面の長さは約7mあり、高さは約5mぐらいです。有難いことに堀切の上に人が立っていますので、高さを実感できると思います。たった一人で撮影していると、このような写真は撮れません。


久し振りに「背中炙り峠の楯跡」へ行ってきました(その2)

2025-01-01 14:58:18 | 歴史

 古道を通って峠を目指します。峠に近づくとこれまでと違って明るくなってきました。木々の間から明るい光が差し込んでいます。いつもですと、この時期は既に木々が青々と茂り森の中は薄暗くなっていました。しかし、尾根から向こうは奇麗に伐採されて明るい光が差し込んでいました。

 

 近づいて木々の間から東側を覗くと、向こう側が一面に伐採されています。足元は急角度の斜面になっていて、木のない斜面は足元がすくみます。流石は楯づくりに絶好な地形です。戦国時代はこのように木を伐採して敵の侵入を塞いだことでしょう。斜面には重機で切り拓かれたと思われる作業用道路が太くて白い曲線を描いています。このことについては、後ほど再び記述します。

 

 背中炙り峠に着きました。「峠のずんど様」と永年、信仰されてきた地蔵堂の土台部、屋根、床などが壊滅的です。10年以上も前に蜂が巣を作った時に、巣の幼虫を求めて熊が入り口部分を破壊したことからさらに破壊が進みました。

 堂の中に安置されていた2体の地蔵がありましたが、令和4年に畑沢の方へ移されました。お堂の荒れた状況に心を痛め、昭和42年に改築した時に世話した方の娘さんが、二人だけで人力で古道を通って運んだそうです。古道は車が使えません。地蔵に責任を感じて奮闘したということですが、私には到底できない頭の下がる思いです。私よりもかなり若い人たちですが、それでも大変な労力が必要だったことでしょう。

 

 地蔵堂の北側の少しだけ高い所には、大日堂があります。こちらは、栗材で造られた部屋の部分と大きな石造りの屋根です。栗材の部分は今から百年ほど前に新しくされたそうですが、やはり栗材は腐りにくく丈夫です。まだまだ朽ちることはないでしょう。恐らく屋根の部分に江戸時代辺りの年号が刻まれている可能性がありますが、まだ調べていません。

 

 二つのお堂の南側に石仏が二対あります。大きいのは「湯殿山」です。背中炙り峠越えの古道の通行に関して、嘉永年間に尾花沢村、本飯田村、土生田村が幕府にこの街道の通行止めを訴え、それに対して畑沢村、細野村、延沢村が対抗する形になりました。いよいよ、畑沢側が抗議文を幕府の奉行所へ突き出そうとした前の年(嘉永五年)に、湯殿山を畑沢から雪の上を橇で峠へ運び上げました。村人の不屈の精神と訴訟での勝利を祈念したものと私は見ています。最近、湯殿山を訪れる人がないようで、石仏の周囲に蔓性の植物が絡みついていました。

 もう一体の石仏は山の神ですが、案内したお二人に説明することを忘れていました。素朴な村人による手作り感一杯の山の神は、私の大好きな石仏です。