畑沢村における、江戸時代の中ごろから江戸時代の終わりまでの死亡者数に関する調査結果があります。昭和45年に山形県立楯岡高等学校の社会部が畑沢で合宿しながら調べ「郷土 Ⅱ」としてまとめたものの中にあります。
同書には、「畑沢年次別死亡者表」として、時系列を横軸にした折れ線グラフで掲載されています。残念ながら、横長のグラフはこのブログに掲載することができません。やむなく、グラフから実数を読み取った数字をパソコンに打ち込んで、縦長の棒グラフに作り替えました。
楯岡高校社会部は、延沢の竜護寺と畑沢にあった徳専寺という二つの菩提寺に残されていた記録を調べました。西暦1723年から1868年までです。単純に計算すると、156年分にになります。しかし、享和二十年(1735年)が欠落していましたので、正しくは155年分になります。それにしても、当時の高校生の頑張りには脱帽します。よくぞ、ここまでやってくれました。
死亡者数を見ていると、大幅に増加しているところが随所に見られます。これは、天候不順などによって農作物の成長が悪くて村人の食糧が不足してしまった結果によると見られます。江戸時代には何回も大飢饉がありました。全国的には四大飢饉と言われているのは、寛永の大飢饉(1642、1643年)、享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782~1787年)、天保の大飢饉、(1833~1839年)だそうですが、東北地方では、少し違いまして寛永と享保の替りに天保の大飢饉(1833~1839年)があげられています。
さて、畑沢の場合を見てみますと、宝暦、天明及び天保の大飢饉では、通常一けた台の死亡者数が15、16人に跳ね上がっています。当時の村の戸数は45、46戸と思われますので、1年間のうちに3軒に1軒の割合で亡くなっことになります。1か月に1回以上葬式があったようです。やはり大飢饉は村人を地獄のような苦しみを与えました。
ここで天明の大飢饉をもう一度見てみます。天明の四年に12人が死亡しましたが、宝暦六年及び天保八年の一六人の死亡者数よりは、大分、少ない感じがします。天明の大飢饉の時に畑沢の死亡者数が少ないのは、何故かと考えてみました。実は思い当たることがあります。当時、村の大金持ちが「窮民対策」をしていました。以前に古瀬吉右衛門という大金持ちが、畑沢村民の窮状を救うために、一大事業を実施しました。畑沢から尾花沢までの街道の橋を全部、石造りにしました。畑沢の奥には「ローデン」とちいう石切り場がありますので、ここからも石が切り出されたと思いますが、不要となった墓石も多数使われたとの伝説が残っています。石橋を造成する作業には、畑沢の村人が人足として働いたお蔭で、飢えから免れた村人が大勢いたものと思われます。
大飢饉に限らず、宝暦元年、享和二年、文政十一年、嘉永五年でも二けた代の死亡者数です。大飢饉以外にも、度々、天候不順があり凶作となりました。江戸時代は全体的に地球全体が寒冷化しており、小氷河期の中だったとも言われています。
ところで、今年も畑沢祭が近づきました。4月15日(火)です。下畑沢の熊野神社でお祓いが行われます。私は去年からお邪魔しています。畑沢流に言いますと「まじぇでもらってます」。私のように長い間、畑沢を離れていた者も温かく迎えてくれました。いろんなお話も聞くことができます。皆さんもどうかいらしてください。