令和2年11月8日(日)に村山市内の大倉地区が主催した「大倉ため池フットパス」に参加してきました。
「ん! 何で今ごろになるまで投稿しなかったの」とお叱りの声が聞こえそうです。私もそう思います。私は素直な老人です。投稿が遅くなったのは、私のヘボ大工作業が邪魔したからです。
年ごとに夜間にパソコン作業をすると睡眠に障害が出る様になりました。そのため日中にパソコンを使うようにしているのですが、ここ数ヶ月間、ヘボ大工に明け暮れてパソコンを使う時間がありませんでした。大工仕事は妻の友人から頼まれた棚作りです。簡単に請け負ったものの私の腕が未熟で、予定した期間の何十倍もの時間がかかっています。ようやく目途が立ってきましたので、ブログ投稿ができました。
ところで、大倉地区を取材する狙いは次の二つでした。
① 畑沢に残っている先達屋敷伝説では、「畑沢の先達(山伏または修験とも言う。)
である正学坊は甑岳参詣の先達役をやっていた」という事なので、甑岳修験につ
いて学ぶ。
② 「背中炙り峠(古道)から楯岡へ行く道は、大倉ため池の脇を通っていた」かも
しれないので、昔の道の跡などを探る。
①については、9月18日の「大倉修験と古の精霊たちコース」に参加し、甑岳修験の盛大さを感じ、さも畑沢から又は畑沢を経由した参詣者が多かったことが想像されました。畑沢の直ぐ隣でこんなことがあった事に驚きましたし、正学坊が先達したと言われていたことも納得できました。
②が今回の「おくら伝説コース」で確認しようとしたことです。
さて、肝心の「おくら伝説コース」に参加した様子を報告します。
先ずはフットパスのルートを御確認ください。次の写真でゴールド色の線です。畑沢は背炙り峠を越えれば直ぐそこです。でも今年も通れません。
大倉地域市民活動センターに10時に集合しました。前回と同じように、新型コロナの感染防止のために、参加者同士が距離を取っています。参加者も20人に限定したそうです。
堤の途中で周辺の説明がありました。次の写真のとおりです。溜池の水が抜けています。これから春に向けて貯水します。
次に大倉ため池の説明は、下の看板を御覧ください。随分と古い(戦国時代)ため池で、決壊もしたようです。ため池にはそのような危険性が潜んでいるのですね。私には想像できませんでした。
さらに石碑が建っていました。ため池の管理組織の変遷が刻まれています。
最初に見学したのは戦国時代の見附楯跡です。「見附」は「みつけ」なのか「みつき」と発音するかを確認しませんでした。保角里志氏の「南出羽の城」では「三月」と表記していました。漢字の表記が「見附」ならば、「見張り場所」の意味となるようで、全国の城跡でも見られます。
楯跡へ登る途中で下を見ると、次の班が近づいてくる姿が見えました。でもこの写真の狙いは人ではなくて、楓の黄葉を撮ったのですが、上手く表現できていません。
楯跡の主曲輪に着きました。櫓台跡も見えます。楯跡の外から見上げると、小さい山だけのように見えますが、上に登ると結構な大きさです。楯と言うよりも小さな城そのものです。主曲輪の周囲を曲輪が幾重にも取り囲んでいます。今回のフットパスに参加する以前から前述の「南出羽の城」を読んで大倉ため池の何処かに楯跡があるということを知ったのですが、背炙り峠へ向かう度にため池方向を見ても、「小さな山」しか見えないので特定できませんでした。小さく見えたのはため池の大きさに胡麻化されたからと樹木に覆われて階段状の曲輪が見えなかったことによるようです。やはり現場を確認することが大切です。
楯跡から南下して神明宮に到着です。ここも大部、古い神社の様です。巨大な灯篭がありました。この石材は周辺に産しないとのことでしたので、離れた場所から運んだことになります。山の上まで石材を運ぶのは大変だったでしょう。
山に秋の果実が残されていました。ツルリンドウとガマズミかもしれません。
前回に引き続き、「熊棚(くまだな)」を教えて貰いました。今年はブナや楢の実が不作だったので、熊は栗を食べようとして棚が多く作られているとのことでした。
ため池での最後の説明がありました。戦前に米国から「青い目の人形」が日本の学校へ贈られました。ところが米国との戦争が始まるとその人形を処分するよう命令されました。小学校のある先生は処分するのは忍び難いので、このため池に沈めたそうです。
草木庵で美味しい昼食を御馳走になってから、林提寺の紹介がありました。櫤山楯と所縁があり、昔は別の場所にあったそうです。
かなり端折った報告となりましたが、実際はもっと沢山の見どころと聞きどころがありました。しかし、ブログに投稿すると、折角の味わい深いものが私の拙い言葉で味気ないものになるようで、この程度にいたしました。特に私たちを案内して下さった大倉地区の皆さんの優しい心遣いは、言葉では表現できません。実際にお会いしてフットパスを一緒に巡ってお感じになってください。
さて、今回の狙いであった古道については、簡単に結論できないことが分かりました。古道はどこでも一本だけではありません。大倉ため池の脇を通る古道も複数あるとの説明をいただきました。また、江戸時代の初めに羽州街道が整備された後、山形方面へ行く主たる街道は大倉ため池を通らないで、背中炙り峠から直接、林崎の羽州街道へ出たものかと思います。背中炙り峠から大倉ため池の脇を通ったのは、羽州街道が整備される前のことだったのかもしれない考え始めています。それは遅くとも最上改易の前までのことだったのかもしれません。興味深いことですが、非力の私には解明できない気がします。
ところで、フットパスで頂戴した資料とさらに大倉地区の方々が私のために特別に御準備して下さった資料の中に背中炙り峠から中沢地区へ街道の付け替えがあった時期を示唆するものがありました。「寛永年間に背中炙り峠からの街道が開通した」と大倉地区で伝えられてきたそうです。以前から私が想像していたことを裏付けてくださいました。ありがたいことです。
2回のフットパス参加で、さらに意欲が出てきたことがあります。1回目の甑岳修験のコースにおける「甑岳」、2回目に大倉ため池のコースにおける「櫤山楯跡」、そして両コースで紹介があった「勝負平」です。どれも登ってみたくなりました。「山男」ならぬ「山ん中の男」の血が騒ぎます。それもただ登るのではなく、「お話を聞きながら」がいいと思います。我儘で贅沢なことかもしれません。