昨日のブログに引き続き、今回も畑沢以外の地区における石仏と比較します。
古殿及び細野地区には、明治以降の石仏が見られます。
古殿地区では昭和30年代にも庚申塔が造立され、細野地区の「馬頭観世音」は、大正年代に造立されています。
それでは、畑沢ではどうでしょうか。
御覧のとおり、明治維新(1868年)以降の石仏はありません。明治維新よりも少し前の時点で造立されただけで、明治になると石仏は全く造立されなくなっています。それまで、畑沢では戸数の割には甚だ多くの石仏が造立されてきました。私は、過去のブログでその理由を、背中炙り峠越え街道との関係で私見を述べさせていただきました。それを繰り返しますと、「背中炙り峠越え街道の運搬に関わる仕事によって、畑沢の人達の収入がかなりあり、その財力で多くの石仏を造立することができた」というものです。
一方、まだ紹介していませんでしたが、「畑沢の人達はとても生活が苦しいと見え、救いを求めるために、多くの石仏を造立した」という考えで書かれた文献もあります。しかし、この考え方は間違いであると思います。生活が余りにも苦しい状態では、とても石仏を造立する余裕はありません。ある程度の余裕があってこそのことだと思います。畑沢にはかなりの余裕があったと思います。
ところが、明治以降は背中炙り峠越え街道が急速に萎んでいきます。延沢から尾花沢への道路が整備されて、流れが大きく変わってしまいました。畑沢には、峠越えの運搬に関わる仕事がなくなってしまったでしょう。その結果、明治以降は畑沢で石仏を新たに造立する「力」がなくなったと考えられます。
その点では、古殿、細野地区は明治以降も大きな変化が生じずに、以前のように石仏を定期的に造立できたのでしょう。また、当然ながら、庚申塔などはその地区における庚申講に対する熱心さにも、大きく関わっていることも、もう一つの理由になりますことも付け加えておきます。