5か月ぶりの投稿です。怠癖がついています。今回は、「ユキツバキかなあ」シリーズの最終版です。でも、「閉店大セール」が同じ店で何回もありますので、「最終版」も何回もあるかもしれません。何しろ私のことですから。私の良いところは間違いを素直に認めて訂正することです。
さて、今回の投稿記事の内容は、昨年(令和5年)の5月に調査したものです。熊野神社周辺に群落状の椿が生育している一帯のうち、西斜面の畑沢地蔵庵から熊野神社の登り口までと、その登り口から神社までの参道(尾根部分)沿いです。
先ずは畑沢地蔵堂から神社への登り口までの椿です。
下の写真の椿は。かなり雪椿に近い姿です。花びらが横に開いているのが分かります。でも、右側の花の花びらは、ラッパ状(花の基部が筒状)になっていて「広がり」がありません。同一株でも花びらの広がり方にはばらつきがあります。
雄しべの基部が隣同士でくっ付いています。雪椿よりは藪椿に近くなっています。私は「くっ付いて」としましたが、植物学の専門的な言い方では「合着(がっちゃく)」となるようです。しかし、しっくりしないので、「くっ付いて」と表現します。
雄しべの軸(花糸 かし)が「もじゃもじゃ」していて、雪椿らしい感じです。藪椿の雄しべの軸はまっすぐ整然としています。これだけを見ていると、完全に雪椿と判断してしまいます。
熊野神社は尾根を平らげた場所に建てられていて、その北北西へ約30m下った所に畑沢地蔵庵があります。そこを出発点にして、県道からの登り口へ向かいます。今までと特に違わない花ですが、幾分、花びらが横へ広がっているように見えます。雄しべの軸(花糸)は基部で隣同士でくっ付き気味ですが、藪椿とは明らかに異なります。
葉脈は明るく浮き出ています。雪椿の特徴の性質です。葉脈のこの性質はどの椿にも共通していましたので、外は省略します。
少し若い花です。花びらが完全に開いていません。この段階だと雄しべの軸も直線的です。花びらが横へ開くときになってから、雄しべの軸も曲がるのかもしれません。
途中で如意輪観音を参拝して休憩です。
観音様は右頬に手を当てながら呆れ顔で一言。
「また、椿を見に来たのか。物好きだね」
如意輪観音の近くの椿も花びらも、さっきの椿と同様です。
熊野神社です。この周りに椿が群生している訳です。有路家の氏神として1655年に創建されました。今から約370年前です。参道の右側には杉の2本の見事な大木があり、神社とともに年月を経てきたと推定しています。神社周囲に最初に植えられた椿はこの辺りだろうと思います。椿の先祖もこの杉と共にここで始まって、周囲に大きな群落を形成するほどになっていったと考えています。
この花は花びらの広がりが少なくて藪椿のようですが、雄しべの軸は基部でもかなり独立している姿は雪椿に近さを思わせます。
次の花は花びらが横に開いていますので雪椿を思わせます。雄しべの基部は少し隣とくっついていて、藪椿の性質が出ています。
今回は以上とおりです。雪椿と断定できる椿はありませんでしたが、個体によって雪椿との近さはまちまちでした。つまり個体差がかなりあります。今回は熊野神社の中心部でしたので、熊野神社が創建された約370年前ころに植えられたかもしれない雪椿又は雪椿により近い状態が残っている椿を発見できることを期待していたのですが、残念ながら見当たりません。
ところで、雪椿が特別な方法で繁殖していることについての研究が幾人もの人たちで行われ、その報告がなされています。それを私流に雑なまとめ方をしますと次のようになります。毎度のことですが、拾いこぼれが多数ありますことを御容赦ください。かなり研究が行われていたようです。
- 雪椿は主にクローン繁殖(農園芸の技術で用いられる「取り木」「茎伏せ」と同じ原理)が行われ、種子による繁殖が極、稀である。
- 藪椿は鳥媒花を有していて、花びらが筒状になって鳥によって花粉が運ばれやすいようになっているが、雪椿は花びらが横に開いているために花粉が運ばれにくくなっている。
- 雪椿の気孔は、周囲が乾燥気味でも開口部を閉じる作用が弱くて、冬の乾燥に弱い。冬の風雪に晒されない雪の下でじっと乾燥しない生活スタイルがあっている。一方、雪椿は多雪地帯特有の環境に有利な生理的な特性を持っている。
- 形態的ことなどの解析では雪椿と藪椿に大別されるが、葉緑体の遺伝子の検査では、北日本藪椿、南日本藪椿及び雪椿に類別される。しかし、形態と遺伝子的な系統が必ずしも一致しない。また、長い間での交雑があり、生殖的に隔離されていない。
熊野神社周辺で「これぞ雪椿」と言える椿は見られませんでした。元々、雪椿が熊野神社周辺にあったとしても、クローン増殖では種子による繁殖と比べれば拡大速度は極端に遅くなります。そのため、昔、雪椿が植えられていたとしても、藪椿と雪椿のハイブリッドが圧倒してしまった可能性があります。それでも、熊野神社周辺の東側急斜面だけは、特に雪椿に近い形質を持っていたことを申し添えます。
私の実家の椿と下畑沢稲荷神社の祠の椿も、ほぼ熊野神社の椿の平均的な形質でした。ところが、畑沢地区おしぇど山の椿は、熊野神社周辺の椿よりも雪椿に近い感じがあります。それでも種子よる繁殖がかなりあるようですので、やっぱり雪椿とは大きな違いはあります。
さらに、畑沢地区から北東方向へ直線距離で約3kmの六沢地区繋沢の椿は、おしぇど山の椿と似通った雰囲気もありますが、次の点で数段も本来の雪椿を思わせるものがあります。
- 葉柄が短い。
- 種子による繁殖が見えない。
- 花びらが、より横に広がっている。
- 花びらの色が深い赤。
- 枝の伸び方が上よりも横である。
ここまで書けば、「繋沢の椿は雪椿」と断定してもいいのでしょうが、山形市大平地区の雪椿と完全に一致しているとも言えません。同一種であっても個体差かもしれませんが、それも断定できません。大平地区以外の雪椿との比較が欲しいところです。例えば、村山市葉山の山麓にある大円院跡の雪椿はどうでしょうか。大円院の椿は昭和11年(1936年)に柳田吉藏氏によって「ユキツバキ」として日本森林学会へ発表されたそうです。確かに大円院の一角にあった多数の椿の株を見たことがあります。しかし、もっと広い範囲の葉山山中での雪椿を見たことがありませんし、聞いたこともありません。あくまでも、ほぼ大円院境内に限られているようです。そのために、かなり古い時代に外の場所から大円院の境内に持ち込まれた椿と一般的に考えられています。大円院は西暦800年前後に始まったような伝説が残っているようですが、全国的にそのような伝説が溢れています。また、一般的にそのような伝説の内容が時代的に合わないことだらけであることなどを考えると、飛鳥時代から平安時代に創建されたと考えるのは難しいことかなと思います。神社仏閣の創建が古ければ古いほど宗教上はありがたいので、そのように伝説が作られたことでしょう。それでも、その境内に雪椿の純種か又はそれに近い椿が存在していることが、この二つの場所には共通点があり、伝説の信憑性だけでは言い切れない「古い創建」を感じさせるものがあります。
歴史学的と植物学的にも大円院跡と繋沢観音堂跡の両場所に存在している椿の出所を解明することは大変、興味深いことだと思うのですが、世の中にその気配がありません。もしも、私がどちらかの研究者ならば、もう片方の研究者に声をかけて共同研究したいテーマにしたいものです。現代は比較的手軽にDNA検査をできそうです。
さて、もう一度、畑沢の椿に戻ります。畑沢内の各地の時代を振り返ってみながら考察します。
先ず、熊野神社の創建は明暦元年(1655年)です。このころに椿が植えられた可能性がありますが、ここは村人たちが絶えず畑沢地蔵堂での観音講や神社の祭りなどで集まる場所なので、創建後も長期間にわたって新たな椿を持ち込まれたものと思われます。それだけ藪椿の遺伝子が多くなっている可能性があります。また、中畑沢の私の実家の椿も建築された昭和時代初期に熊野神社等から株分けしたようにそっくりです。
おしぇど山のおしぇ様(伊勢神宮)の造立は文化三年(1806年)ですが、その場所にある楯跡は遅くとも1500年代の半ばと考えています。まさか楯を作るときに椿を植えたかは分かりません。でも、延沢軍記には、野邊澤城の馬場に花木が植えられたとの記述があるのを見ると、おしぇど山でも野邊澤城に倣って椿を植えた可能性も否定できませんが、村人の楯にその余裕があったとは思えません。やはり、伊勢神宮祠が建てられた時代になってからと見るべきかと思います。そうすると、熊野神社よりも約150年後で椿が植えられたと考えるべきかと思います。では、椿はどこから持ってきたのでしょう。手っ取り早いのは、近くの熊野神社です。でも、明らかに熊野神社の椿とは異なります。繋沢観音堂跡の椿にかなり近い形ですが、実生で繁殖している点が大きく異なります。雪椿の繁殖方法とは異なります。さて、謎は深くなります。