-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

久し振りに「背中炙り峠の楯跡」へ行ってきました(その3)

2025-01-03 16:56:27 | 歴史

 主要部の地図に示した「堀切A」へ向かいました。一帯が刈り払われていて、視界が開けています。私が調査を始めた10年前もこうだったらどんなにか楽だったでしょう。

 この先真っすぐに進んで、展望が開けた場合、どのように堀切が見えるのかと思うとわくわくしてきました。一段、下ると堀切があります。堀切の先端に小さな土塁が見えます。

 

 堀切の全貌を眺めるのは初めてです。これまで、何度もこの堀切を撮影しましたが、立木が邪魔しました。あらためて下から眺めると、この堀切の見事さを感じ取れます。背中炙り峠の楯跡は、全体的に未完成の楯だったと私は考えており、何処も彼処ももう一歩手を加えるべき部分が残っています。しかし、この堀切だけは完全な形になっており、下からの侵攻を十分に塞ぐことができます。空堀の中には伐採された大木が横になっています。

 斜面の長さは約7mあり、高さは約5mぐらいです。有難いことに堀切の上に人が立っていますので、高さを実感できると思います。たった一人で撮影していると、このような写真は撮れません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久し振りに「背中炙り峠の楯跡」へ行ってきました(その2)

2025-01-01 14:58:18 | 歴史

 古道を通って峠を目指します。峠に近づくとこれまでと違って明るくなってきました。木々の間から明るい光が差し込んでいます。いつもですと、この時期は既に木々が青々と茂り森の中は薄暗くなっていました。しかし、尾根から向こうは奇麗に伐採されて明るい光が差し込んでいました。

 

 近づいて木々の間から東側を覗くと、向こう側が一面に伐採されています。足元は急角度の斜面になっていて、木のない斜面は足元がすくみます。流石は楯づくりに絶好な地形です。戦国時代はこのように木を伐採して敵の侵入を塞いだことでしょう。斜面には重機で切り拓かれたと思われる作業用道路が太くて白い曲線を描いています。このことについては、後ほど再び記述します。

 

 背中炙り峠に着きました。「峠のずんど様」と永年、信仰されてきた地蔵堂の土台部、屋根、床などが壊滅的です。10年以上も前に蜂が巣を作った時に、巣の幼虫を求めて熊が入り口部分を破壊したことからさらに破壊が進みました。

 堂の中に安置されていた2体の地蔵がありましたが、令和4年に畑沢の方へ移されました。お堂の荒れた状況に心を痛め、昭和42年に改築した時に世話した方の娘さんが、二人だけで人力で古道を通って運んだそうです。古道は車が使えません。地蔵に責任を感じて奮闘したということですが、私には到底できない頭の下がる思いです。私よりもかなり若い人たちですが、それでも大変な労力が必要だったことでしょう。

 

 地蔵堂の北側の少しだけ高い所には、大日堂があります。こちらは、栗材で造られた部屋の部分と大きな石造りの屋根です。栗材の部分は今から百年ほど前に新しくされたそうですが、やはり栗材は腐りにくく丈夫です。まだまだ朽ちることはないでしょう。恐らく屋根の部分に江戸時代辺りの年号が刻まれている可能性がありますが、まだ調べていません。

 

 二つのお堂の南側に石仏が二対あります。大きいのは「湯殿山」です。背中炙り峠越えの古道の通行に関して、嘉永年間に尾花沢村、本飯田村、土生田村が幕府にこの街道の通行止めを訴え、それに対して畑沢村、細野村、延沢村が対抗する形になりました。いよいよ、畑沢側が抗議文を幕府の奉行所へ突き出そうとした前の年(嘉永五年)に、湯殿山を畑沢から雪の上を橇で峠へ運び上げました。村人の不屈の精神と訴訟での勝利を祈念したものと私は見ています。最近、湯殿山を訪れる人がないようで、石仏の周囲に蔓性の植物が絡みついていました。

 もう一体の石仏は山の神ですが、案内したお二人に説明することを忘れていました。素朴な村人による手作り感一杯の山の神は、私の大好きな石仏です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(見解が間違っていました。)

2023-12-28 16:16:43 | 歴史

 間違っていました。

 令和5年8月4日から同年同月月9日にかけて、「繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。」のタイトルで(その1~6)を投稿しましたが、その後、地元在住の同級生たちから次の言葉がありました。

繋沢には、観音堂の外にもいろんな建物があった。

 さらに繋沢の入口付近には学校、

 その少し奥に鳥居、観音堂の前には山門があった

 この一言で、これまでの私の見解に大きな間違いがあることが分かりました。私は繋沢観音堂が明治初めに建てられて、その中に六沢小学校が設けられたものと考えていました。

 ところが、上述の同級生の言葉によって、小学校は観音堂とは全く別に建てられたことが分かり、観音堂がその頃に建てられなければならない理由が消失しました。観音堂がいつごろ建てられたのかを、あらためて考えることができました。そこで、最初に戻り、写真、資料及び同級生たちの言葉を今度は慎重に整理しながら検討した結果、私なりに次の推察に達しました。

① 繋沢観音堂と呼んでいた建物は、明治以前のかなり古い時代から存在していて、例えば一般的な寺の本堂というような寺の一部だったであろうと考えられます。

② 明治に入って、無住職であった観音寺は寺としての役目を終えて廃寺となりましたが、建物は六沢地区民と円照寺の手によって観音堂の名前で昭和52年まで保存されていました。

③ 明治7年に、六沢小学校が繋沢の入口付近に建てられました。「常盤小学校百年」に記載されている内容のとおりです。観音堂とは別になっていました。

 

 間違いの原因は、次のとおりです。

① 六沢地区で、きちんとお聞きすべきでした。一番肝心なことでした。六沢地区を知らない人間ならば、最初にすべきことでした。

② 資料を精読すれば、繋沢観音堂が如何に古いものだったかが分かるはずでした。資料を都合のいいところだけを拾い読みした失敗です。

③ 明治7年に小学校制度が始まったころは、世の中があわただしかったので、小学校を建設するなどは大きな負担になります。他村では寺やお堂で小学校を始めたのに、とても六沢村だけが建てるのは無理だと決めつけていました。しかも、繋沢観音堂が建てられたとすれば、そこを小学校の一部として使われたのであろうと勝手に思い込みをしてしまいました。

 以上のことを含めた内容をまとめて、これまで教えて下さった円照寺と同級生に12月26日に報告してきました。するとさらに、その方々から興味深いことを又もや沢山、教えてもらいました。六沢地区の歴史に係る豊富な宝物と素晴らしい人材を再発見できました。

 

 その日、色んな話をお聞きして有頂天になり、六沢地区を撮影するのを忘れていました。

 代わりに今年2月に撮影した六沢地区の風景写真です。

 一昨年の写真もありました。集落から西の方から撮りました。六沢地区が大きな平地にあることが分かります。地名に「沢」が付く理由がないみたいです。これも不思議な興味深いことです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その6)

2023-08-09 09:28:51 | 歴史

【繫川(綱木川)を堰き止め水堀】

 今回、延沢軍記を読んでいて、最も驚いたのは次のことです。「延澤鑑阿弥陀嶽濫觴記」から次の文章を抜粋しました。同様の事が「野辺沢記」にも書かれています。縦書きを横書きに変更しています。

搦大門に川をせき溜、惣堀ヲ廻シ、玉の原を人家とし、延沢を城廓となしけれハ、百万石の居城にも不足あらしと見ひけり

 

 私は下線した部分を次の様に解釈しました。

「搦手大門の所で、繫川(綱木川)を堰き止めて城をぐるっと守る堀にした」

 この記述には驚きました。野邊沢城の北側が水堀で大きく囲まれていたとは聞いたことがありません。しかし、至極、当然な気がします。繫川(綱木川)を堰き止めるのは簡単です。流れは緩やかですので、例えば繋沢で川を2~3mの高さで堰き止めれば、上流の円照寺近くまで水が溜まります。しかし、搦手門が円照寺の近くならば、そこを堰き止めても城を守る水堀としての役にはたちません。搦手門が繋沢にあることを意味しているようです。繋沢観音堂跡の敷地と綱木川の関係も異様です。綱木川はほぼ山の際に沿って流れているのですが、繋沢観音堂跡の敷地だけが山際からポッコリと突き出しています。どう見ても人為的に改変されています。野邊沢城を含む周辺の山並みは、その東の水田地帯とほぼ一直線に接していて、その境界が綱木川になっています。まるで、綱木川の東西で逆断層があるような不思議な地形です。これを綱木川の流れと直角な方向で断面図を作ってみました。地理院地図(電子国土web)の断面図ツールで制作したものに、地名を加えました。

図14 繋沢周辺断面図

 綱木川から北東(右側)に向かって緩く標高が高くなっています。六沢地区全体の水が綱木川に集まる地形です。そのため、何万年か何十万年も前から、山の麓を侵蝕して険しい崖を作り、綱木川は左岸を硬い岩盤に、右岸側は川に向かってくる傾斜によって立ちはだかれて、直線的な流れになりました。大きな地滑りで土砂が流れ込まない限り、繫沢の末端が川を遮って平地側に飛び出る地形は、とても自然の力では生じません。繋沢の飛び出た地形は人為的な力によるものと考えざるをえません。丹生川のような大きい川が近くにある場合は、大きい川に向かって地面が下がるものだと思いますが、六沢地区の侵食には、まだ効果を示してこなかったようです。詳しいことは分かりませんが、東西方向からの圧縮による褶曲や小さな逆断層のような何らかの地殻変動が関係しているのでしょう。ただし、今はこの平地に無数の農業用水路がありますので、降水が直ちに綱木川に流れることはありません。

 繋沢の下流約540mにも川の流れが山際から離れている場所があります。ここと、さらに繋沢との中間点辺りにも一つ堰き止めれば、繋沢までの流れを水堀にでき、唯一、城への出入りは繋沢だけに絞ることができます。綱木川の右岸に沿った地域が、周辺よりも低くなっていますので、そこに綱木川を堰き止めた水が満ちると図15のような水堀が出現します。

図15 水堀想像図

 これまで野邊沢城の東側に水堀があったという話は聞いたことがなく、奇想天外にも思えますが、城の守りを考えた場合は、至極、当然なことかと思います。城跡の調査に当たっては、古文書などの記録だけでなく、古文書を疑いつつ地形や城としての機能面からの検討も大事な作業です。私が素人流に楯跡を検討する場合は、攻める側の立場で考え、臆病な性格が役に立ちます。攻める場合の障害は、切岸や堀切の急斜面、頭上や側面からの攻撃などです。その外に水があれば、より体の自由が利かず厄介なことになります。水堀は大きな守りの役割を果たすので、作れる地形があるならば理にかなった防御策です。綱木川はその絶好の場所です。

 尾花沢市教育委員会が発行したリーフレット「延沢城跡縄張図」表紙の右下に「『羽州野辺沢霧山之城』図」があります。原図は不正確ですが、その中に表門と裏門らしき位置に水堀が描かれています。水堀として着色した中に「ホリハヽ五間」の文字が見えます。「堀幅五間」ということで幅は約9m、裏門の水堀は繋沢らしき所から円照寺らしき所まで描かれていますので、長さは約350mです。私の想像図での水堀は、幅30~50m、長さ700~800mになります。絵は小さ過ぎます。表門の水堀の絵は、三日町の東端から西へ背中炙りへの分岐点まで(約700m余り)で、「ホリハヽ十五間」(約30m弱)と描かれています。これは水源や地形を考えると絶対に無理でしょう。むしろ、このサイズは裏門側の水堀なら大凡、妥当なサイズです。この図面が証明になるとは思いませんが、地形を見る限りでは、「裏門側に水堀があった」と思います。

 

【大きな湖の伝説を探る】

 さて、城の裏門(搦手門)に水堀があったと思われることから、これまで「単なる作り話」と見ていた「延沢軍記」の次の文章が、俄然、光り輝いて見え始めました。

 片仮名本から抜粋し、縦書きを横書きに変更しました。

抑モ此観世音ノ來由ヲ尋奉ル、往昔最上郡ハ湖水ニテ、人民迚モ僅カニ峯ニヨリ、岡ヲ尋ネテ住居スル迠也、故ニ未ダ米穀ノ類モナク、唯湖水ノ魚ヲ取、山林ニ入テ禽獣ヲ食フ、其頃ヨリ此地ニ幾千歳ヲ経ル事モ知レザル椋ノ大木有、其枝湖水ヲ覆フ、舩ヲ繋クニ便アッテ舩人此木ニ舩ヲ繋ガスト云フヿナシ、故ニ此木ヲ舩繋木ト云ケリ、然ルニ三郡ノ神佛、佛陀人民ノ餓勞ヲ憐愍愍マシマシ、終ニ庄内ノ境羽黒山ノ北、板敷山ノ麓ヲ掘穿チテ湖水ヲ引テ庄内エ落シ給ヒシヨリ此地水湿ノ患ヲ免レ田畑開ケ繁昌ノ地ト成リケリ此ノ由来最上記ニシルス、 今ノ最上川是也

現代語訳

 そもそもの観世音の由来をお話ししましょう。昔々、最上郡は湖に覆われていました。人々は僅かで、山の峰に寄っていて、丘状の土地に居住しているだけでした。そんなわけですから、まだ米などの穀類もなくて、ただ湖の魚を取り、山に入って鳥や獣を捕えて食べていました。その頃からこの場所に何千年もの年を経たかも分からないほどの椋の大木があったということです。その枝は湖を覆っていて、船を繋ぐのに便利なので、人々は船を繋がないことはありませんでした。それで、この木を船繫木と言っていました。さて、三郡(最上郡、村山郡、置賜郡のことか)の神と仏は人民の飢え苦しみを憐れんで、遂に庄内との境に位置する羽黒山の北にある板敷山の麓を掘削して湖水を庄内へ引き落とし、それ以来この地方の湿地の害を免れるようになり、田畑が開かれ繁昌する場所になりました。この由来は最上記に記されています。今の最上川がこれです。

 

 「龍護寺本」と「塚田本」にも同様のことが書いてありますが、それぞれ字と表現に異なるところがあります。ただ、概して「同じ」と見てよいかと思います。

 さて、このような「昔は大きな湖が覆っていた」という話は、全国でも盆地の何ヶ所かに残っているそうです。水田に水が張られて盆地全体を山の上などから眺めると、一つの大きな湖を想像させることから始まったかと思います。山形県では、「藻が湖伝説」と言われているものです。延沢軍記におけるこの種の話は、そこから引っ張ったものでしょう。上記の「片仮名本」の文中では、「最上記(さいじょうき)」という最上家に係る軍記を根拠にしていると書かれています。そこで、片桐繁雄/訳編の最上記を調べましたが、湖の話はありませんでした。それでも、延沢軍記が書かれた時代には、既に藻が湖伝説が存在していて、何処かに何らかの書にあったことを示しています。しかし、藻が湖伝説では、現在の最上三難所の一つである碁点を切り開いて湖から水を引かせたということなので、その下流に位置する大石田町や尾花沢市内には、湖がなかったことになります。ところが、延沢軍記では、ずっと下流に位置する最上峡谷の入口で川が塞がれているとしています。いい所に着眼しています。これだと、繋沢などは十分に水浸しにできます。藻が湖伝説よりも規模の大きい湖です。

 もしも本当に湖だったとすれば、地形学なり地質学的にも説明できるはずですが、そのようなお話を聞いたことがありません。東根、西根、最上川などの名称と眺めまわした地形などから推論したと思われる楽しい物語です。ただ、湖があったと思わせる景観があることも事実です。最上川は吾妻山系から始まって、酒田市から日本海へ流れ出るまで、米沢盆地、山形盆地(村山盆地)、尾花沢盆地、新庄盆地、最後に庄内平野を経由します。それらの間には、五百川峡谷、三難所、最上峡谷などの狭隘部があります。かつて最上川は、それぞれの盆地の中で極端に蛇行し、さらに三日月湖を多数残しながら、湿地を広げていました。また、狭隘部は大水が出ると上流に洪水を生じやすく、その姿は湖が広がったような風景だったでしょう。藻が湖伝説が生まれるだけの理由がありました。ところで、昔は今の村山地方を最上郡、今の最上地区を村山郡と呼んでいたそうです。それが、江戸時代の途中で呼び方が逆転しました。

 さて、六沢の繋沢はどうでしょうか。繋沢の周囲が湖と思わせる風景があったのだろうと考えました。今回のブログに手を着ける前までは、「単なる藻が湖伝説に便乗して作られたお話」と片付けていましたが、どうもそれだけではない気がしています。伝説は真実を元にして出発したにもかかわらず、科学的な思考がなかった時代は、理解できない事柄を神仏や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が為せる業と想像し、さらに時代を経るに従い誇張されたものだと思います。ただし、民衆が有難がる話を意図的に作る場合もあります。繋沢の湖などは後者に含まれつつも、湖を髣髴させる風景が存在していたと思わせるものがありました。先述した水堀です。廃城後も水堀がかなり長い間残り、水が周囲を潤していたとも考えられます。「繋沢」の名称は、「船繋木」から生まれたものではなくて、「城と玉野原(六沢を含む。)を繋ぐ」場所、即ち搦手門があった場所と考えてみました。

 以上の様に自由奔放に繋沢に思うことを書いてみました。本当に最初は興味が全くなかったのですが、書くうちにあれこれと思索が巡り少々、深みにはまりました。それはそれで楽しい一時でもありました。しかし、真面にものを書くならば、欠点だらけでした。それは主に次の事です。

1 現地をあらゆる角度から丹念に調べていない。

2 地元の人からしつこいほどに聞き出すべきなのに、それがされていない。

3 資料があるのなら見せてもらうべきなのに、小心でかつ怠慢だった。

 

 以上で「繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。」シリーズを終了します。今度は繋沢を含めた椿の事について投稿しますが、時間がかかります。

 さて、私の作業は欠陥だらけでしたので、是非ともきちんとした調査をして記録を残してもらいたいものです。できれば、六沢地区の方々の手によって行われるべきものだと思います。六沢には人材が数多です。肩肘張る必要はありません。専門用語を使う必要はありません。誰からも分かってもらえる表現が一番いいと思います。複数の人たちで行えば、私のように独断に陥る危険を回避できますし、単純な誤りでもお互いに指摘できます。いつの日かに、私も見ることができれば幸いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その5)

2023-08-08 09:00:00 | 歴史

【搦手門はどこにあったのか】

 用語の説明です。搦手門(からめてもん)とは城の裏門のことです。正門は追手門(おうてもん)又は大手門(おおてもん)です。

 先ずは野邊沢城と梺との間の道です。「野邊沢城沿革略記」から抜粋しました。

梺より本丸ニ登る道筋四ッ、追手・搦手ノ道二ッハ屈曲巧ニなし道巾三間余にして馬上にて上下する様に造り為せり、ニノ丸の道四ッ、是又二筋ハ馬上にて上下自由す、…………搦手ハ繋河を限り、大門有、此内ニモ家中有て平地なり、円照寺ハ即大門ノ内にあり、

  • 漢数字の「二」と、片仮名の「ニ」がほぼ同じ形にみえますので、注意してお読みください。

現代語訳

 梺から城に登る道は四本ある。その内、追手(表門側)と搦手(裏門側)の道は巧みに曲がりくねり三間の巾があって馬に乗ったままで上下することができる。二の丸からの道も四本あって、その内二本は馬に乗ったまま通れる。……搦手の道は繫川(綱木川)までで、大門がある。この内側にも家中(家臣たちの居住地)があって平坦な地形になっている。円照寺はその大門の内側にある

 

 本丸から4本、二の丸から4本の道が梺へ繋がっているとあります。合計すれば8本もあることになりますが、それほどの道は航空レーザー測量による陰陽図でも確認できません。本丸から出ているとしている追手門へ通じる道は、実際は二の丸の桝形門から出ているのが事実です。本丸からとか二の丸からとかの表現は適切ではなさそうです。

 さて、搦手門へ下りる道はどこから出て、どの沢(谷)へ下りるのでしょうか。実は令和元年6月15日に尾花沢市観光ボランティア養成講座の現地研修を受けました。その時に、野邊沢城跡の馬場北端から東へ降りる幅広い道型について、「裏門へ行く道」と説明を受けたような気がします。その場で私は航空レーザー測量による陰陽図と照らし合わせて、繋沢へ通じているつづら折りの道に結び付け、それ以来、裏門(搦手門)は繋沢にあると思い込みました。それが図1のAルートです。延沢軍記で表現している、「曲がりくねった」「巾三間」「馬に乗ったままで上下できる」道に合致していると思ったからです。ただ、このルートを現地確認していませんので、頭の中だけの話です。

 ところが、繋沢に搦手門があるとすれば、上述の「円照寺はその大門の内側にある」という表現はおかしくなります。また、「野辺沢城 國指定史跡30周年記念誌」に掲載されている田村重右衛門氏作成の延沢城見取図には、搦手門が繋沢の東隣の沢(谷)を下った場所(円照寺の近く)に記されています。さらに同書に掲載されている延沢城字名集成図にも、円照寺側の沢が「字大門」となっていて、如何にも搦手門が地名になっているように見えます。そして、同書の資料2ページでは、指定地の現状としての説明で、北東字大門が裏門らしいとの表現があります。円照寺近くの橋辺りには、搦手門跡を示す物が立っているとも聞きました。これらは概略して図1のBルートで示しました。

図1 繋沢観音堂跡の位置図

 どちらが搦手門へ下るルートであるかは、道幅、傾斜度等を現地調査する必要があります。現在、どちらも藪になっています。調査には大変な労力が予想されます。

 どちらのルートであっても繫河(綱木川)までです。どちらの沢に大門があったとしても、内側に家中を設ける平坦な場所があります。もしかしたら両方にあった可能性があります。家中には、搦手門の守備を任されていた一族(近藤一族か)が住んでいたであろうと思われます。

 ここで、二つの搦手門の候補地について時代の経過を踏まえた考察します。二つの沢は、最上家改易後に大きく様変わりをしていることです。このことは、既に観音寺の衰退の一つとして挙げています。最上家改易後、山形藩の鳥居家が現在の六沢トンネル上部の鞍部に切通しを造って新道を開鑿しました。人と物の流れが円照寺側の沢に集中し、繋沢の通行量が極端に減少したと推察されることです。その道を大事な延沢銀山から金や銀が運ばれてきますので、綱木川を渡る橋の辺りに検問所が設けられ、その入口には門もあったでしょう。その後は明治を迎えるまでの約250年間、円照寺側の沢が主流になったままでしたので、人々の頭の中には道と言えば円照寺側だけがイメージに浮かぶようになったとも考えられ、また延沢軍記の執筆時は既にこのような状況になっていました。

 ここまで書くと、無理やり「搦手門は繋沢」説を強要しそうなので、この辺で留めておきます。このような事を考えるのも歴史の面白い面だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする