尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。
これまでと同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。
今回は、この中から常盤村の「農具の保有状況」を見てみましょう。
各地区の戸数に差がありますので、実数での比較では各地区の保有の程度を比較することができません。そこで、単位戸数当たりの保有数(百分率 %)にしてみました。畑沢のデータは、見やすいように矢印を付けておきました。年を取ると、小さい字や絵が見えにくくなります。
百分率にしてみたところで、昭和5年に私は生まれていませんでした。表に出て来る農具は、分からない物ばかりです。今さら悔やむのも何ですが、厄介な題材を挙げてしまいました。実に分かりません、昭和5年の農具は。それでも分からないなりに、恥をかくことを気にしないで、行き当たりばったりの方式で、農具を一つずつ取り上げてみます。
詳しく、かつ正しく認識したい方は、御自分で調べてください。私の役目は、題材を提供するだけにさせてもらいます。言い訳は何とでもなります。どうせ、その程度の男です、私は。
1 牛馬耕利用
昔、牛馬はすべての農家で農耕用に使われていただろうと思っていたのですが、意外な実態でした。牛馬の利用が極めて少ないのです。
私の記憶にある昭和30~40年代には、何処の家の中にも「まや」と言われる牛を飼育する一角がありました。「まや」とは「馬屋」又は「厩(うまや)」の意味だったのでしょうが、そこにいたのは馬ではなくて牛でした。何故、牛なのに「まや」なのかは、皆様が自由に考えてみてください。恐らく深い意味はないと思います。昔から「(う)まや」の言葉があっても、「うしや」なる言葉はなかったのでしょう。「うしや」は面倒なので「まや」を合理的に使ったとすれば、それも大した知恵です。私もその血が流れています。
何となく、久しぶりに話が脱線していますので、話を戻します。このデータを見ると、昭和5年ごろの牛馬は荷車や農業専用に飼育されていたと思われます。そのために、牛馬はお金持ちが飼育していたのではないかと考えました。
ところが、昭和30~40年ごろの牛は、食肉用が主だったのでしょう。あの時代は、小牛が家にやって来て、成長してから食肉用として売りに出されますが、その間に荷車や農具のエンジンの働きをしていたものと思います。でも、エンジンとしての役割は、昭和30年代の半ばまでで、その後は耕運機が登場してので、食肉用牛が外に出るのはあの世に行く時だけになりました。
2 回転式脱穀機(手動)
手動なる脱穀機と聞いて頭に浮かぶのは、千歯扱き(せんばこき)です。櫛状の長い歯が上を向いている農具です。そうすると「回転式」は単なる執筆者の誤りだろうと結論付けていました。私は理解できないと、人のせいにしてしまう能天気なところがあります。ところが、念のためにネットで検索しましたところ、あったのです、回転式で手動の脱穀機が。一応、ここにリンクしておきますので、御覧ください。私は全く見たことがない農具です。脱穀機を回すハンドルは機械の横についていますので、手動と言うよりも「手回し式」が適切な表現かと勝手に思いました。この機械では、稲を持って脱穀する人とは別に、回転させる仕事を専門的に行う人が必要なようで、効率がかなり悪く見えます。とても「機械」と言える代物ではありません。
3 回転式脱穀機(足動)
「足動」ではなくて、「足踏み式」が正しい表現だと思います。足で踏みながら稲を脱穀できますし、ドラムが連続的に回転する様子は、いかにも「機械」そのものです。結構、早い時期に開発されたようですが、私の家ではモーターを動力とする脱穀機と併用して使っていました。その時の機械は処分してしまいましたが、平成10年ごろにそばの脱穀に使いたくて、南陽市の友達から譲ってもらったのが下の写真です。
昭和5年でもかなり普及していたようで、中でも荒町と畑沢が飛びぬけていました。
4 籾摺り機(動力)
稲から籾を切り離すのが脱穀機で、籾から殻を剥ぎ取って玄米にするのが籾摺(もみす)りという作業です。籾摺りは脱穀とは全く異なる物理作用で行われますが、私の表現力では適切な説明をできません。一応、簡単に言いますと一種の摩擦作用みたいなものかと思います。
そのように説明できない難しい作用をする機械ですので、動力式だったのでしょう。その昔は臼のようなものでやっていたそうです。気の遠くなるような手間がかかっていたことでしょう。さすがに動力式となると保有する家は極めてわずかで、畑沢には全く存在していなかったようです。ところで、動力源は灯油を燃料にする発動機だったのではないかと推理しています。発動機は、昭和30年代は勿論のこと、40年代でも使われていたような気がしますが、どうも記憶が薄くなってきています。私の頭も危ないでしようかね。しかし、発動機のお陰でエンジンを勉強できました。プラグ、クランクルーム、ピストン、シリンダー、キャブとこんなものです。
5 籾摺り機(機械)
「機械」との表現をしていますが、現代人が見る機械とは大きく異なり、機械と呼べるようなものではないような気がします。手で木製の臼のようなものを回す道具だったかと思います。「思います」が多くて申し訳ありません。冒頭にも言い訳しておりますが、見たことがない物ばかりです。私は、これでも昭和5年を語るには若輩者です。この機械式の籾摺り機は、全体的にかなり普及していたようですが、不思議なことには細野地区が極端に少ないのが目立ちます。水車のところで考察します。
6 精米機
この道具には、「動力」の文字が入っていませんが、動力で動かしていたのでしょう。常盤地区でも限られた数しかありません。発動機という高価な動力を持っている家には、籾摺り機(動力)と精米機があったのでしょう。それらの作業を専門的に行っていたと考えられます。両者の保有状況が全く同じであることがそのことを裏付けています。また、私の昭和30年代の思い出もあります。畑沢から牛に引かせる荷車に籾(もみ)を積んで、九日町へ何度も行った記憶があります。九日町で籾摺りと精米をしてもらいました。昭和5年からずっとこの九日町の家が、この仕事をやっていただろうと思います。発動機、籾摺り機、精米機などは高価な道具ですし、元々、これらの機械は1軒だけの作業をするものではなくて、何軒分もの作業をするためのものです。
7 水車
何とも珍しい道具が出ています。今の常盤地区では全く見ることができません。今でなくとも昭和30年代でも見たことがありません。水車が回っている風景は、のどかで何とも言えません。それが畑沢にも1基あったというのですから、大いに興味が湧くところです。畑沢で千鳥川の近くに家屋がある場所は二か所あります。下畑沢の荒屋敷と上畑沢の北端です。川のそばだけでは水車は回せません。川に直接、水車を設置するのは無理でしょうから、川から水を引いてきて、ある程度の落差がある小さな崖の下の水車に流れ落とす必要があります。上畑沢には落差がある場所がありませんので、上畑沢では無理な気がします。荒屋敷ならありそうに気がします。
さて、隣の細野地区を見ると信じられないほどの水車があったとされています。25%の保有ですから4件に1基の割合で水車が回っていたというから驚きです。一体、何に使う水車だったのでしょう。水車は水が落下する位置エネルギーを回転の運動エネルギーに変える装置です。その運動エネルギーを杵の直線運動に替えて、再び位置エネルギーにします。位置エネルギーを持っている杵を落下させて、粉挽きなどに利用するのが普通です。この普通の利用の仕方ならば、考えられるのは籾摺りや精米などです。細野地区の籾摺り機は動力式も機械式も極端に保有が少ないようです。とすると、水車は少なくとも籾摺りに使われた可能性があります。籾摺りを手動で行うのは、大変な労働ですが、水車がやってくれれば大助かりです。さらに精米機は全くありませんので、精米にも水車が使われた可能性がありますが、精米機は細野地区に限らず何処でも極、少ないので、細野地区だけが精米に水車が使われたかは難しいところです。それにしても、細野地区に多くの水車が回っていたであろう光景を思い浮かべると、是非とも記録された写真でも見たいものです。
8 振馬鍬
この農具だけは、私の記憶にあります。畑沢で「ふりまぐわ(振馬鍬)」ではなくて、「まんが」と言っていました。馬(ま)による鍬(くわ)が訛って、「まんが」となったのでしょう。でも私の記憶がある時代においては、この農具は馬ではなくて、牛に引かせていました。ただ、この昭和5年の資料での振馬鍬は、牛も馬も使わないで人力によるものが多かったようです。
昭和5年では畑沢と六沢が他の地区と比して大変低い保有率ですが、私の記憶にある昭和30年代の初めには、大抵の家で使われていたような気がします。と言うのは、上記1のとおり昭和30年代は牛の飼育が盛んに行われていたので、牛を活用して振馬鍬が使われたのだと思います。
春に雪が融けると、直ぐに田んぼの農作業が始まりました。先ずは鍬で畔塗り(くろぬり)をします。モグラや鼠で穴だらけになった畔(くろ)の表面を鍬で掻き切り、そこに水で柔らかくなった田んぼの土を塗り込めます。これで漏水を止めることができます。並行するように四本鍬での田起こしと言う耕耘作業を行います。耕耘しただけの土は塊(かたまり)状になっていますので、それを細かく砕いてドロドロ状態にするのが代掻き(しろかき)です。振馬鍬はこの時に使われます。歯が所々欠けている櫛のような形をしていて、手でそれを激しく振り回して、土を細かくします。私の良い子だった時代、私が細い棒の先に牛を繫いで誘導し、牛が振馬鍬を引っ張ります。父は振馬鍬を振り回して頑張っていました。小学校1、2年生のころの思い出です。では小学校3年生以上なら手伝わなかったかと言うと、そういうことではありません。耕運機が普及しだしたのです。我が家に耕運機はありませんでしたので、持っている方にお願いすることになります。お願いするには現金が必要です。出稼ぎにも行けないために現金収入がない我が家のような農家は益々、苦しくなってきました。
9 除草機
恐らく手押し式の農具だと思います。がっちりとした木製の骨組みに爪がついた水車状の車がついています。除草するために手で田んぼの土を掻きまわすことから考えると、革命的な農具の一つだったでしょう。今でも結構、使われています。最近はエンジンが付いています。
10 縄なひ機
縄は各家庭の冬仕事で行われていました。手で縄を綯(な)うのが普通でしたが、手仕事では太い縄を作るのが大変でした。例えば、秋に出荷する米俵を巻き締める縄、稲を乾燥する「はしぇぎ」とい棒を組み立てる縄などは手作業での縄では何ともなりません。直径1cm以上の縄は機械で綯われました。各地区での保有状況はそんなには多くないようです。1台の機械があれば、何軒か分を綯うことができます。
11 大豆粕砕機
今回の農具の中で最も分からない農具です。「大豆粕」は、油を搾った残り粕(かす)であるのは分かりますが、それを何のために砕くのでしょう。細野地区が特に多く保有していました。細野地区でやっていたあることに関係があったと思われます。それは養蚕ではないでしょうか。蚕の餌は、畑で栽培する桑です。桑畑の肥料として大豆粕が使われた可能性があります。その養蚕の話は、今度の「農具の保有状況 その2」で見てみましょう。