現在は畑沢にお寺がありません。畑沢に最も近いお寺は、延沢の龍護寺(りゅうごじ)です。外に常盤地区では、六沢の「圓照寺」、三日町の「善法寺」と「金城寺」、鶴子の「龍泉寺」です。どの地区も畑沢よりもはるかに大きな集落です。畑沢は小さな集落なのにお寺があったというのも、畑沢を背中炙り峠越えの街道が走っていたことと関連があるような気がします。
お寺は、「山楯」の北側にありました。「徳専寺」という浄土真宗の寺でした。常盤地区の寺は、禅宗が多いのですが、浄土真宗と言うのは珍しいものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/71/6e97ebd3d4662f313242e0a72025212b.jpg)
徳専寺は、写真に写っている建物の左に建っていました。現在残っている建物は、元々は寺の小屋だったと思います。山形県教育委員会が発行した「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集(村山地域)」に、先ほど触れた「楯」の説明があり、昭和56年にこの寺が廃寺されたことが記述されていました。しっかりした人が調査して記録していますので、記述内容は間違いないと思います。
徳専寺に関する資料から紹介します。先ずは昭和45年に楯岡高校社会部が、「郷土Ⅱ」に「浄土真宗徳専寺縁起」を資料として掲載しています。以下は原文です。
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浄土真宗徳専寺縁起
当山開基之古事何之頃カ不分明惟五尊之御裏寛永、慶安之暦慶善、慶栄之住知其前後之暦代不相知惟往昔銀山之地何所カ当山之奇跡有之由人口不残而己其後中古当 地干寺寺跡建立之開基者荘内鶴岡従知敬寺入住従其次第相続弥付第四世之住恵了之代文政十一戊子弥生中旬等二日夜自坊及消失宝物等過去帳只灰塵ト也歎哉 往 昔事不相知悲之余檀越之法名取々調即知行而己相記等尚万延元庚申歳次暮秋下旬第六世住智海代此壱札改而記
万延元庚申歳次暮秋下旬
当山六世住釈智海(判)
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正直分からないところだらけの文章です。「背中炙り峠一件返答書」に関するものを投稿した時のあの意気込みはなくなりました。夏バテといつもの「熱しやすく冷めやすい」私の性格がなせる業です。それでも、強引さと恥を恐れない気持ちだけは持っていますので、大胆に次のように読下してみました。
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当山(この寺)の開基がいつであるかは分からないが、寛永(1624~1644年)、慶安(1648~1652年)の時代に慶善、慶栄……。ただ、昔々、銀山の何処かに当山の跡が……。その後、畑沢に建立したのは庄内鶴岡の知敬である。寺に入り住んでより、代々相続されている。第四世住恵了の時代、文政11年(戊【つちのえ】の子【ね】 1828年)3月の中旬…夜にお寺が火事になり、宝物と過去帳が灰塵になってしまい嘆かわしい。昔のことは相知らず、悲しみの余り…。…法名を調べて…記録した。なお、万延元年(庚【かのえ】の申【さる】1860年)…秋下旬第六世の住智海の時代に此の一札をあらためて記した。
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以上、穴だらけの読下し文と相成りました。失礼の段は重々承知しておりますが、この程度が私の実力です。まあ、それでも何となく分かったような気がしたと思います。要は「最初、銀山に建てられたが、その後畑沢に移った。ところが、1828年に火事になってしまい、寺、宝物、過去帳が燃えてしまったので、詳しいことが分からなくなってしまった」ということになります。でも、「江戸時代の中ごろから終わりまでの畑沢の死亡者数」で投稿しましたように、死者の記録が残っていたようですから、過去帳については、調べ直したようです。
寛永・慶安時代は、銀山はまだまだ盛りの時代です。銀山にはお寺もたくさんあったようです。しかし、1700年代の半ばになると、銀山は衰退してしまいます。その衰退の時期が、徳専寺の畑沢へ移った時期かと思います。
このころの銀山に関する三つの資料があります。「大銀山としての野辺沢銀山」「延沢銀山の話」「尾花沢風土記」です。これらの資料によると、1741年~1743年ごろに江戸の大戸伝右衛門が銀山の再坑を試みたが失敗したそうです。私はこの「大戸伝右衛門」が畑沢に最後に定着した「新しい大戸」一族であると見ています。畑沢にもそれらしい口伝が残されています。徳専寺が畑沢に移ったのは、この新しい大戸一族が畑沢へ定着した時期ではないかと思いますが、それを証明するものはありません。
ここで別の資料に目を向けます。尾花沢市史編纂委員会が発行した「尾花沢市史資料 第5輯村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」です。この中に畑沢の資料が二つ載っています。それぞれ次のとおりです。
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正徳四年 畑沢村高反別村差出帳(控)
一、 當村ニ寺無御座候
一、 當村堂 二ヶ所 地蔵堂・熊野堂 別當無御座候
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天明八年 畑沢村高反別村差出帳(写)
一、 浄土真宗 寺壱寺ヶ寺 谷地長楽寺末寺徳専寺
屋敷御年貢地
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この二つの資料によると、徳専寺は、正徳四年(1714年)に畑沢にまだありませんでしたが、天明八年(1788年)には畑沢にありました。徳専寺は1714年と1788年の間に畑沢に建てられたことになります。銀山が衰退した1700年代の半ばと一致しています。
畑沢における徳専寺の檀家はそう多くありません。やはり元々いた古瀬、有路、大戸(古い方)一族は、龍護寺の檀家が殆どです。それでも、徳専寺は単なる浄土真宗信者の菩提寺としての役割だけでなく、畑沢では江戸時代から教育でも大きな役割を担ってきました。江戸時代においては徳専寺の住職が寺子屋の師匠、明治になると畑沢分教場(おくまん様)の「教師」として村の子供達を教えてきました。
しかし、檀家が少ないということが時代の趨勢で「寺がなくなる」ということにつながり、昭和56年(1981年)畑沢から「お寺さま」がなくなりました。あれから30年以上も経ちましたが、今でも私の脳裏には、心優しい御住職一家の姿が残っています。