平成27年の正月三が日はブログをお休みにしていました。などと言うと、如何にも普通の日は真面目に投稿しているかのようですが、お休みはいつものことです。一昨年と比べて、昨年はいろいろと忙しくてブログが疎かになってしまいました。特にマイホームとなる家のリフォームでの大工仕事に夢中になっていたところがあります。大工仕事は子どものころからの憧れでした。
昭和30、40年代は、畑沢の生活も激変しました。薪が主役のエネルギー源が灯油に変わり、牛が主体の運搬が耕運機に変わりました。当然、住まいも変化を余儀なくされました。囲炉裏がある居間と土間と牛小屋が一つの空間でしたが、居間と土間の間に引き戸が立てられました。囲炉裏の煙が上る茅葺屋根の下に天井が必要になりました。勉強もしないのに子どもに部屋を与えるようになりました。その他の部屋もそれぞれを区切りました。あの時代のリフォームがありました。リフォームの工事は、私の家の場合は近所の大工さんが行いました。魔法の様に家の中が生まれ変わっていきました。私の家は農家でしたから、土をいじくることには慣れていましたが、木でちゃんとした部屋などをつくることはできません。その大工さんの見事さには、幼いながらも憧れを持つようになりました。仕事と言われた場合、常に大工さんの様な職人というものが私の根底にありましたし、今でもそれは変わりません。
周りくどくなりましたが、そのような訳でリフォームの大工仕事に夢中になっています。リフォームの内容は実に多彩です。最初は簡単なものから始めました。洗面台の取替え、筋交い設置、脱衣所の改装、天井梯子の設置、天井の火打梁と羽子板ボルトをボルト締め、鴨居の交換、アルミサッシの取り付け、トイレと物置を全面改装、壁の撤去と壁の新設、掘り炬燵の撤去が終了しました。これから、引き戸の作成と設置、玄関ドアの設置、外壁作成等々です。まだまだ先の見えません。十分に楽しめます。
だから、ブログ投稿が疎かになっています。あーあ、実に長くなりました。
さて、年があらたまっての初仕事は、大作です。と言いたいところですが、このブログと並行している「畑沢の総まとめ」から、久しぶりに抜き書きします。
上の図は、国土交通省が昭和54年に告示第2号土地分類基本調査図(都道府県土地分類基本調査)の「表層地質図(尾花沢)」を図式化したものです。
「表層地質図」というのは、その場所の表土を剥いだときの地質を表した図のことです。しかし、山に地質の境界になる線が引いてある訳ではありませんので、地質図のとおりに明瞭に区別されるものではありません。実際に山へ入って岩石を眺めてみますと、地質図とは異なる岩石が出てきます。地質図とはかなり「おおまかなもの」と見たほうがよろしいでしょう。
図の中央部に畑沢地区と細野地区を配置しました。図の下側が南になっており、千鳥川での上流部になりますので、畑沢の地質については図の下側から説明します。なお、地質に対してもさほど専門的な知識を持っていません。実際に現地調査したもの以外は、この地質図の解説書と他の書籍をもとにしましたが、それでも理解できないところがありましたので、主だった地質や若干の用語の解説に留めます。
(1) 流紋岩質岩石
畑沢で最も標高が高いのは、大平山(畑沢での「ホウザヤマ」)です。立石山はこの大平山から北西に伸びた尾根の途中が高くなった状態のもので、山体としては大平山と一体と考えてよいものです。
大平山の上半分の地質は、流紋岩質岩石になっています。そもそも、「流紋岩」というのは、聞きなれないものと思います。地中のマグマが固まった場所とマグマの成分によって、種々の鉱物に変化します。特に劇的に変化するのが、固まった場所です。マグマが地上に流れ出して急激に固まると、玄武岩や安山岩になります。逆に地表に噴出せず地中の深いところで、ゆっくりと固まって結晶化が進むと花崗岩(御影石)になります。流紋岩はこの花崗岩と玄武岩や安山岩の中間に位置していて、花崗岩よりもずっと地表に近いところで固まった岩石です。
流紋岩は大変に硬くて、石仏や土台石の細工には向いていません。それでも畑沢では数少ないながらもこの石材で作られた石仏が二体あります。上畑沢の「湯殿山・象頭山」と沼澤の「湯殿山」です。「湯殿山・象頭山」を見ますと、普通の石仏と比べて非常に浅い刻み方になっています。石工(いしく)も根を上げたのでしょう。この「硬さ」は浸食されにくいという性質がありますので、流紋岩がある大平山一帯は浸食に耐えてきました。また、山腹の傾斜もきついものとなっています。しかし、長い年月(数万年)の間には、浸食されて、千鳥川流域の株地層には流紋岩の川原石が大量に埋没しています。現在でも千鳥川の中で見られる硬い石は、この流紋岩である場合が多い様です。畑沢の流紋岩は、茶色のベースに2、3mmほどの四角いガラス状の結晶が入っています。硬い反面、柱状節理という特定の方向に亀裂が入りやすい性質があります。あの大きな湯殿山・象頭山の一画にも亀裂が入っています。亀裂が入りやすい性質もあるために、この石仏は浅く刻んでいるのかもしれません。
流紋岩となるマグマは、今から数百年前に元からあった地層に地下深くから陥入してきました。堆積岩のように順序良く下から上に積もったものではありません。
ところで、大平山の南にそびえる甑岳には、マグマが地表に出て固まった安山岩が上部を覆っています。
(2) 頁岩及び頁岩・凝灰岩互層
この地質は畑沢区域の図に全く示されていませんが、しばしば畑沢で見られる岩石が含まれています。それは、この地層の中にある「頁岩(けつがん)」です。硬質頁岩(こうしつけつがん)と言われており、その名前どおりに極めて硬い岩石です。この岩石をぶつけ合いますと、キーン・キーンと金属音がします。頁岩ですから海底に積もった泥が固まりました。畑沢では多産しませんが、それでも千鳥川に流れてくる小さな沢には、角の部分が幾分、丸みを帯びた硬質頁岩が出てきます。角が丸いと言うのは、硬質頁岩の岩盤から直接、剥がれたものでなく、その後、川の流れを転がったことを意味しています。背中炙り峠の湯殿山の石材には、凝灰岩の中に硬質頁岩が混じっています。畑沢の硬質頁岩は、硬質頁岩の大きな岩盤から出てきたものではなくて、峠の湯殿山の石材ように凝灰岩の中に入っていたものが風化されて出てきたものかと思います。
何故、硬質頁岩にこだわるかと言いますと、縄文時代などでの石器の原料になったからです。畑沢周辺の地域では、硬質頁岩はさほど珍しいものではありませんが、石器の材料が畑沢にあったことは重要な意味を持っています。狩りや工作の道具が地元の石で作れることになり、人が住みやすい環境にあったことになります。
次に「凝灰岩」というのは、火山灰が堆積して固まった岩石です。このころの火山は、日本海ができる時期に海底で噴火しました。火山灰も当然、海底に堆積したことになります。一口に凝灰岩と言っても、元になる火山灰の内容によって出来上がる凝灰岩の性質には大きな違いが生じます。細かい火山灰の場合は緻密な凝灰岩であり、粒が大きい火山灰の場合は隙間が多い凝灰岩になります。また、堆積した火山灰にかかる圧力が大きい場合は、崩れにくくなりますし、圧力が小さい場合は脆くなります。できれば、細かい火山灰で圧力が大きいほうが良質な石材になることができますが、畑沢の凝灰岩は、正直のところさほど良質とは言えません。それでも、手ごろな硬さは加工がし易すく、畑沢では石仏、昔の墓石、石臼などは、大抵、凝灰岩で作られています。
「互層」と言うのは、この頁岩と凝灰岩が何度も互い違いに層になっているということのようです。互層になる原因は何度もの天変地異などによって、一時的に大量の物質が流れ込む場合があります。
(3) 緑色凝灰岩および凝灰角礫岩
「緑色凝灰岩」と言うのは読んで字のごとく、火山灰が固まった緑色の岩石です。約2,300万年前から約500万年前に、海底火山から噴出した火山灰が固まったものです。当然、日本中にあり、その中でも有名なのが大谷石や鹿沼土ですし、山形県内の石材である高畠石と楯岡石などや山形市内の山寺の岩山などもそうです。畑沢の凝灰岩も大まかな分類では緑色凝灰岩です。大平山一帯を除けば、上畑沢と中畑沢の山地はほぼこの緑色凝灰岩および凝灰角礫岩で覆われています。江戸時代に石切り場があった「ローデン」や「ゴロー」はこの地質の場所です。
(4) 凝灰質砂岩、シルトおよび礫岩
この地質は、上記(3)の緑色凝灰岩および凝灰角礫岩の下部の地層に由来するものと思われます。地質図で緑色凝灰岩および凝灰角礫岩に色付けされている場所でも、沢筋のように深く浸食されている所では、砂岩が露出ししばしば湧水が見られます。
(5) 礫、砂および粘土
千鳥川の浸食作用による低地に周囲から流れ込んで堆積したもので、礫、砂及び粘土状のものです。多くは水田や畑などの耕作地になっています。