古道を通って峠を目指します。峠に近づくとこれまでと違って明るくなってきました。木々の間から明るい光が差し込んでいます。いつもですと、この時期は既に木々が青々と茂り森の中は薄暗くなっていました。しかし、尾根から向こうは奇麗に伐採されて明るい光が差し込んでいました。
近づいて木々の間から東側を覗くと、向こう側が一面に伐採されています。足元は急角度の斜面になっていて、木のない斜面は足元がすくみます。流石は楯づくりに絶好な地形です。戦国時代はこのように木を伐採して敵の侵入を塞いだことでしょう。斜面には重機で切り拓かれたと思われる作業用道路が太くて白い曲線を描いています。このことについては、後ほど再び記述します。
背中炙り峠に着きました。「峠のずんど様」と永年、信仰されてきた地蔵堂の土台部、屋根、床などが壊滅的です。10年以上も前に蜂が巣を作った時に、巣の幼虫を求めて熊が入り口部分を破壊したことからさらに破壊が進みました。
堂の中に安置されていた2体の地蔵がありましたが、令和4年に畑沢の方へ移されました。お堂の荒れた状況に心を痛め、昭和42年に改築した時に世話した方の娘さんが、二人だけで人力で古道を通って運んだそうです。古道は車が使えません。地蔵に責任を感じて奮闘したということですが、私には到底できない頭の下がる思いです。私よりもかなり若い人たちですが、それでも大変な労力が必要だったことでしょう。
地蔵堂の北側の少しだけ高い所には、大日堂があります。こちらは、栗材で造られた部屋の部分と大きな石造りの屋根です。栗材の部分は今から百年ほど前に新しくされたそうですが、やはり栗材は腐りにくく丈夫です。まだまだ朽ちることはないでしょう。恐らく屋根の部分に江戸時代辺りの年号が刻まれている可能性がありますが、まだ調べていません。
二つのお堂の南側に石仏が二対あります。大きいのは「湯殿山」です。背中炙り峠越えの古道の通行に関して、嘉永年間に尾花沢村、本飯田村、土生田村が幕府にこの街道の通行止めを訴え、それに対して畑沢村、細野村、延沢村が対抗する形になりました。いよいよ、畑沢側が抗議文を幕府の奉行所へ突き出そうとした前の年(嘉永五年)に、湯殿山を畑沢から雪の上を橇で峠へ運び上げました。村人の不屈の精神と訴訟での勝利を祈念したものと私は見ています。最近、湯殿山を訪れる人がないようで、石仏の周囲に蔓性の植物が絡みついていました。
もう一体の石仏は山の神ですが、案内したお二人に説明することを忘れていました。素朴な村人による手作り感一杯の山の神は、私の大好きな石仏です。
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