先達屋敷その1を投稿してから大分日数が経ちました。申し訳ありません。たった一人の孫が来ていて、来る前の準備と来てからの子守役に忙殺されています。ブログを書くには真夜中しかありませんが、老人が真夜中にパソコンを操作すると、寝入りが極端に悪くなります。健康を第一に考えて、パソコンはお休みにしていました。しかし、ようやく時間が取れましたので、前の投稿を忘れながらも、どうにか続きを書きました。
先達屋敷跡の杉林は西の奥に向かって続いています。奥へ入ってみました。杉林の下は草が生い茂って良く見えませんでしたが、歩いているうちに地形が分かりました。段々畑のようになっています。最初の3段ほどは、1段の奥行き10m以上もありましたが、西へ登って行くにしたがって1段の奥行きが短くなって奥行き3m程度です。つまり、奥へ行くにしたがって急傾斜になっているということです。全部で8段ありました。先達屋敷は、東西100m以上、南北50m以上です。大雑把に計算すると、次のようになります。
100m以上 × 50m以上 → 5,000㎡以上
ということになります。前回のブログで示した6,000㎡に近い数字になりました。私の計算が強引だと憤慨されている方もおありかと思いますが、世の中はこの程度の大雑把でよいのではないかと悟ることも大事です。大体、50mも100mも私ごときが適当に感じたことであって、計測したものではありません。
本題に戻ります。先達屋敷は、全体的に段々になっているのですが、西へ向かって右側と左側の段々の位置は異なり、右側と左側の真ん中に真っすぐに道らしきものがあります。今では、完全に獣道です。
西へ登る道は、やがて行き詰まりになりますが、その近くに湧水がありました。湧水量は多くはありませんが、それでも一軒の家が使う水であれば十分な量です。昔、先達屋敷の大半は畑だったので、湧水を水田に使うわけではなくて、全て炊事などに使っていたはずです。湧いた水は、水路によって先達屋敷の南端を東へ向かって流れ下っています。
水路が下へ下る途中に、コンクリート製の水甕(みずがめ)があります。昭和50年代ごろに使われたものと思われます。ここからホースで下の道路の方へ導水したのでしょう。
先達屋敷を、田んぼと千鳥川を挟んで東の端から全体を眺めてみました。本当は、真上から撮影した航空写真ですと、先達屋敷の形がよく分かるのですが、勝手に航空写真をブログに使用することができません。しょうがありませんので、私の写真で見ていただきます。先達屋敷の跡は総てが杉林になっているようです。
それではこの正学坊という山伏は一体どんな人だったのでしょうか。正徳四年(西暦1714年)の「畑沢村高反別村差出明細帳には、正福寺という山伏が記載されています。それからたった33年後は名前が全く異なる正学坊が畑沢の山伏です。そもそも正徳四年の「正福寺」という山伏の名前は異例のようです。山伏ならば、全部ではないのですが、大抵は「院」や「坊」が最後に付いていました。「正福寺」は院も坊も授けられない山伏だったのでしょうか。それが、その後に坊を獲得したか、又は坊を持っている山伏が取って代わったことになります。私は、前者であろうと考えています。全くの別人が入り込んで来て、短期間のうちに先達屋敷ほどの土地を手に入れられるとは思えません。正福寺の時代も含めて代々の山伏が資産を貯めたのではないかと思います。
青井法善氏の「郷土史之研究」に紹介されている「本末并分限御改帳 金剛院」は、延享四年に記されました。その頃の畑沢では次のようなことがありました。
延享元年(1744年) 上畑沢に山の神(石祠)造立
延享3年(1746年) 関嶺(寒嶺)和尚が丹生村の巣林寺で没す。(満90歳)
そして、このころに浄土真宗の徳専寺が銀山から畑沢へ移転してきたと考えられます。延享元年の山の神は、田んぼと千鳥川を挟んで先達屋敷の向かい側の山の上に建てられています。山の神には願主などの主催者名は刻まれていませんが、昔から上畑沢のある家が守ってきました。そして、この家は昔から金剛院との付き合いが深いようです。回りくどい言い方になりましたが、私はこの家が正学坊にかなり深い所縁のあると考えています。延享元年には、既に正学坊は先達屋敷を構えていて、向かいの山に山の神を単独で祀ることもできたのでしょう。そして、寛永五年(1853年)に畑沢村が背中炙り峠に巨大な石仏「湯殿山」を造立する時には、そのリーダーとなり、また翌、寛永六年の「背中炙峠一件」の訴訟でも畑沢村の代表格として代官所に堂々と反論したその家であったろうと思います。