昭和33年に著した有路慶次郎氏の「畑沢之記録」に背中炙り峠の石仏「湯殿山」のイラストが描かれていました。私はそれを見て驚きました。下の絵のように石仏の上部が四角錐(しかくすい)になっているのです。
今まで何度も峠へ行くたびに湯殿山を拝んでおり、その時に見上げた上部は極、普通に平坦でした。
それを基にして作図したのが次の絵です。尖(とん)がり頭ではありませんでしたし、そのように「畑沢を再発見」にも記載しました。それは自信を持っていました。
ならば有路慶次郎氏が間違ったのか、それとも昭和33年以降に四角推の部分が盗まれたのか、そうだとすれば何という不届き者がいたものです。許せん。憤りながら畑沢の「大」先輩たちに聞きまわったのですが、返事は「そんなもの(とんがり)は見たことない」でした。これまた大先輩たちの如何なる感覚の鈍さかな思ってしまいました。やっぱり実際に確認が必要です。盗まれた痕跡があるかもしれません。
令和元年5月2日(日)にいざ出発です。峠で地蔵さんへ挨拶してから、2年ぶりの御対面。直ぐに背伸びしながら、「てっぺん」を覗き込みました。ありました「尖がり」が。どうしてこれまで気付かなかったのでしょう。つくづく自分が節穴であり、また「四角い石仏のてっぺんは全て平坦である」などと先入観を持っていたのでしょう。前回のブログでは「既成概念をそのまま信用しない」らしきことを言っていたではないですか。まるっきり既成概念の虜(とりこ)です。ああ恥ずかしや、恥ずかしや。
しかし私でも良いところはあります。間違いを謙虚に受け止め、そして何事もなかったかのようにして訂正しました。この石仏を造立した時のスポンサーと思われる豊島他人太は、並の人間ではありません。石仏の造立でも並ではないようです。お見それしました。そして有路慶次郎氏の眼力の確かさをあらためて感じました。
さて、今度は同じ石仏ですが、別のことへ話を移します。それは湯殿山の正面です。これまで正面の文字の解読は下の図のとおりまでで、□にしている1文字分を解読できませんでした。
今回、「てっぺん」を確認しているときに、正面に苔などが付いてない綺麗な状態であることに気づきました。すると、□としていた箇所の文字がくっきりと見えます。「苗」のようです。これで石仏「峠の湯殿山」のすべての文字を解読できたことになります。それだけなら「目出度し、目出度し」なのです。ところが、家へ帰って過去に撮影した湯殿山の写真をチェックしましたら、既に何年か前の写真にもその文字がはっきりと写っていました。苔が邪魔して解読できなかったのは最初の6年前だけで、その後は苔が邪魔していなかったのです。つまり、最初に解読できなかったので、その後に何回も見ていながら「見えない」ものと先入観を持って諦めていたのです。「ああ恥ずかしや恥ずかしや」です。
それで、これも謙虚に反省して次のとおり速やかに訂正いたします。
今回の投稿は、恥ずかしながら自分の未熟さをお見せしたようです。石仏などの調査を始めた時は、初心者などと言う程度ではなく、むしろ陸に上がった河童でした。初心者ならば、「これから学ぼう」という積極的な姿勢があるのですが、この時の私は「誰もやってくれないならしょうがない。私がやるしかないが、適当に」と考えている投げ遣りな姿勢でした。あれから6年、曲がった根性が少しだけでも直り、真面目な姿勢になろうとしているのかもしれません。今まで見えなかったものが見えるように成長しているのでしょう。