先日、第一回目の拓本に挑戦して失敗をしたことを投稿しました。落胆して再起できそうにない状態でしたが、月日が経つと何とか回復してきました。私でさえも無意識に冷静な反省と改善策を考えていたようです。
そこで、前回から約半月目の令和3年12月6日に畑沢で再度の挑戦をしました。今回は一般的に「経塚」と言われている、「大乗妙典一字一石一禮」の石仏です。建てた人物は古瀬庄三郎で、石橋供養塔や湯殿山・象頭山を立てた古瀬吉右衛門と大きな関りがある人物で、この時代を考察するのに大きな情報があると予想しています。
正面の文字は既に解読できていますので、拓本しようとしたのは背面の文字です。次の写真のように、令和2年2月8日に粉雪での「拓本まがい」を行ってかなりの文字が分かったのですが、重要な多数の文字は読めないままでした。「読めない」が、「文字が明確でない」のか、それとも「単に草書体を知らない」だけなのかは、自分でも判断できませんでした。
既に地区の代表者から三体の石仏について拓本の了解を頂戴しています。前回の反省から次のように慎重に作業を進めました。
① 石仏の表面を霧吹きで均等に濡らしました。前回の挑戦では
この手順が欠けていました。
② 和紙を石仏に当て、上部をテープで抑えました。風が心配で
したが木々で囲まれているせいか強い風がなく、和紙が風で煽
られることがありませんでした。一安心です。
③ きつく絞った濡れたタオルで、上から和紙を押し付けました。
この段階でかなりしっかりと和紙が石仏の表面に密着してきまし
た。こうなると気分は高揚し、成功が約束されているようでした。
④ 固く絞った濡れたタオルで和紙の余分な水分を取り除きます。
⑤ 洗車用の天然毛のブラシで和紙を軽く叩いて和紙に凹凸を浮き
上がらせる作業にかかりました。専用のブラシではないのですが、
畑沢の石仏には丁度よい具合です。「優しく、優しく」がコツと
言えばコツでしょうか。《偉そうに》
⑥ 乾いたタオルで、できるだけ乾かし気味にしなければならない
のですが、冬季は難しい課題です。「できるだけ」が精一杯です。
⑦ 墨汁の原液をカップに入れて、大小のタンポを使い分けながら
和紙の上から墨を付けます。心配だった滲(にじ)みが起こらず、
たどた どしいながらも順調に進みました。既に半ばまで終わり
ましたので、下の方までタンポで墨を付けると終わります。
⑧ 「ああ、これで上手くできるぞ」と思って全体を見ると、上の
方が黒くなって文字が見えなくなっています。作業を始めてから
降ってきた雨は、ポツポツながらも石仏の上部を濡らして、それ
が上から下へ流れ出して和紙にしみ、墨汁が滲みさせました。失
敗です。あと少しだけ雨が遅かったら大成功だったのですが、何
ともしょうがありません。天気予報でも12時まで太陽の晴マー
クでした。12時までは、まだ1時間もあります。
滲みの結果が下の写真です。
その後さらに滲みは進みました。
和紙をはずしてから、石仏の表面にうっすらと沁み出た墨汁を霧吹きで水をかけると、綺麗に流れ落ちました。それほどまでに雨が沁み込んでいたのです。
しかし、この程度の拓本になってしまいましたが、果たして拓本が成功したとしても解読できる状態になっていたでしょうか。甚だ自信がありません。粉雪の拓本だった時でも、十分に上手く進んでいた時の拓本程度にはなっています。既に粉雪拓本でも、真ん中の行に楷書体で「古瀨庄三郎 正方立」があるのは分かっています。外には、左の行の「身」「の」「日」だけは分かりますが、その他は一切、見当さえつきません。要するに「草書体を読むことができない」のが一番の問題です。
傷心のまま山形へ帰る訳にはいきません。午後は寺田沢から流れて来る水路の作業をして心を癒しました。小さい水路では、川底にさえ雑草の根が伸びてきて土砂を抑えてしまいますので、上から流れて来た土砂や落ち葉などが川底に溜まって、冬の間に水を溢れさせてしまいます。また、水路がコンクリートのU字溝になっている所は、何もなければそのまま勢いよく流れ下りますが、所々に設けられている四角いコンクリートの桝で流れが淀み、桝からの出口に落葉と枯れ枝が引っ掛かり、水を堰き止めて溢れだします。そこで、川底浚いと桝の邪魔物を取り除きました。「畑沢に来て良かった」と、これで「達成感」を味わうことができました。
ところで、畑沢の積雪状態は次のとおりでした。向こうの大きな山は甑岳です。もう背中炙り峠を通ることはできません。冬季の閉鎖です。