楯跡の特徴的な地形はその後も続きました。切岸(きりぎし)という人工的な急傾斜地を登ると、小規模ながらもはっきりとした曲輪(くるわ)が尾根伝いに連続するほかに、それを取り囲む帯曲輪(おびくるわ)が何段にもなっています。写真を撮ったのですが、曲輪らしさが全く出ませんでした。腕が悪いのか、それとも小規模過ぎるのかもしれません。今回はお見せできません。
山頂方向へ曲輪を進むと、尾根を深く切り込んだ堀切が現れました。これで、ここが楯跡であることがはっきり分かります。切岸と堀切で曲輪を囲む形は、下畑沢の「おしぇど山の楯」跡と同じです。規模も同程度です。
これまで、私は畑沢で三つの楯跡を調べてきました。最も大きな楯跡は「背中炙り峠の楯」、次に地名としても残っている下畑沢の「山楯」、そして三年前に発見できたのが山楯の隣にある「おしぇど山の楯」です。ところが畑沢にこの三つの楯しかないことについて、「延沢軍記」の内容を検討し、さらに藤木久志氏の「村の城」としての集落内の防御を考えると、どうしても腑に落ちないものがありました。それは戦国時代に下畑沢と上畑沢に集落があり、下畑沢には村の城がありながら上畑沢には村の城が見つからなかったからです。
もう一度、延沢軍記を振り返ります。
-龍護寺本-
依而奥刕境なれ者、武者附置へしと鎌田丹波に申付られ、添番として高橋勝之進申付られ、處々に楯岡越には笹田甚五右衛門・古瀬正太、添番として同心五人、小国越には切田作左衛門外三人、行沢には石山鉄之助、奥州越には菅野八左衛門、二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥
―片仮名本―
依而奥刕境ナレバ上野畑ニ武功ノ者附置ベシトシテ、鎌田丹波申付ラレケリ、添番トシテ高橋某申付ラレケリ、ケ様ニ處々ノ手遣悉ク定メ、‥‥二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥
上の文章では見にくいので、次の表に野辺沢満重から命じられた場所と名を受けた家臣を整理しました。
守備場所 命を受けた家臣名
上野畑 鎌田丹波 添番‥高橋某
楯岡越 笹田甚五右衛門・古瀬正太 添番‥同心五人
小国越 切田作左衛門 外三人
行 沢 石山鉄之助
奥州越 菅野八左衛門
二藤袋 細谷大學
丹 生 堀内傳内 倉番‥折原戸田の進 外二十人
畑沢に関係するのは、「楯岡越」の部分です。野辺沢城の時代には、野辺沢領から楯岡へ行くには、畑沢村を通って背中炙り峠を越えていました。従って、「楯岡越」は直ぐに峠だけを意味するように見えますが、そうではなくて「楯岡越えの方向」と解すべきです。その道筋には、山楯山、おしぇど山、背中炙り峠の三か所に楯がありました。しかし、野辺沢満重(没1559年)の時代には、背中炙り峠の楯はまだ築かれていなかったはずです。関ケ原の戦い(1600年)のために用意されたと見られます。そして、山楯とおしぇど山の楯は新旧の違いだけで、別物ではなく一つの楯と考えるべきです。そうすると、おしぇど山の楯を含む山楯の大将格の人物がこの笹田甚五右衛門と古瀬正太のどちらかになります。
笹田姓と古瀬姓のうち、今も畑沢に残っているのは上畑沢の古瀬姓です。古瀬正太の一族とその近い位置関係にあった者たちが、明治以降に古瀬姓を正式に名乗ったと思われます。しかし、楯の大将格である古瀬正太の子孫が、山楯から遠くの上畑沢へ移ったとも考えにくいし、そのような言い伝えも全くありません。古瀬正太が山楯の守りに就いていたとは、とても考えにくいものです。
さて、この笹田姓と古瀬姓は、延沢軍記の塚田本の拾勇士にも、「野辺沢家と霧山城」(田村重右衛門著 1979年発行)で引用している「北村山郡史の所領判別帳」にも出てきません。笹田甚五右衛門と古瀬正太は所謂、直臣という者ではなくて、それぞれの地に暮らしている土豪的な家臣だったと考えられます。ただ、野辺沢家の領地が召し上げられてから、野辺沢(延沢)領に残った家臣たちの名前の中に、笹田家に関しての記述が、延沢軍記の塚田本にあります。
笹田 先祖大阪に召集され、八郎冬朝戰敗走す、其末延沢に臣たり
‥‥‥
此処に書きたるは、頭立ツたるものにして、尚多くあれ共畧す、家族あり、名人あり、勇士あり、皆他家へ仕えず村々に住居、農業せしものなり
笹田は、単なる雑兵ではないらしく「頭立つる」程度ですので、配下の者を有している家臣だったようです。笹田は最上家改易後も暫くは野辺沢領に残ったようですが、今、尾花沢市及びその周辺にも笹田姓が残っていないことを見ると、その後に仕官などを求めて遠くへ移ったようです。
荒屋敷の某先輩によると「当時、山楯を守っていた大将は荒屋敷に住んでいたが、どこかへ移ったそうだ」、「荒屋敷には一ケ所だけ石垣で築かれた屋敷の跡があり、その大将の屋敷があったかもしれない」と話されていました。山楯の大将は笹田甚五右衛門で、その配下の者たちには、荒屋敷にそのまま残った者もいたのかもしれません。もしも、笹田家がそのまま荒屋敷に残って明治を迎えていたとすれば、荒屋敷一帯の家々は、笹田姓を名乗っていたことでしょう。それでは、どうして笹田が去った荒屋敷地区の家々が、大戸姓を名乗ることになったのかが問題ですが、そのことについては、別の事情があるようです。
さて、それでは野辺沢満重から「楯岡越」の守りを申しつけられた、もう一人の家臣である古瀬正太は、何処の楯を守っていたのでしょうか。古瀬正太のいた時代には、まだ背中炙り峠の楯がなかったであろうし、背中炙り峠の楯は「村人のための城」程度の小さな楯ではなく、その位置的な関係や構造を見ると、楯岡側からの攻撃に対処するための本格的な大きな楯です。野辺沢軍が南へ出陣する時の前進基地であり、南からの侵攻に対する防御の要でもあります。この楯の守りには直臣クラスの者が関わっているものと思われ、とても古瀬正太の子孫がその大将格を務めることも考えられません。ただ、古瀬姓が住んでいる上畑沢は背中炙り峠に最も近く、同地区には背中炙り峠の楯跡の存在が知られていて、堀切に関する「ほっきり」というかなり専門的な言葉が残されています。背中炙り峠の築造とその守りに深く関わっていた人々だったことは間違いなさそうです。
それでは、古瀬正太は上畑沢に別の根拠地とすべき「村の城」を持っていたと思われますが、上畑沢にそれらしき跡がまだ見つかっていませんでした。しかし、何上畑沢集落の近くの何所かに必ずあったはずだと探していて、今回このような形で見つけることができました。
楯跡の名前はどうすればよいでしょう。「上畑沢の楯」「上畑(かんばた)の楯」「先達屋敷跡の楯」等々が浮かびます。